”一人旅”で取り上げなかった場所を、ご紹介しますので、
下記ブログと併せてご覧下さい。
「37:藤川宿 2011.12.29」「38:岡崎宿 2011.12.30」
「37:藤川宿」
”ここも三河 むらさき麦の かきつばた” と、芭蕉が
詠んだ様に、藤川宿一帯は、むらさき麦の栽培が盛んだった
そうで、5月に訪れれば、今でも見る事が出来るそうです。
浮世絵は、棒鼻と呼ばれる宿場町の端です。大名行列を迎える
二人の宿場町の役人と、笠を脱いでひざまずく旅人です。
藤川宿の出入口には、江戸側に東棒鼻、京側に西棒鼻があります。どちらも写真の様に、浮世絵をもとに復元されています。
棒鼻の”鼻”は、突端の意味です。
下の写真は、藤川宿の街並みです。
上の写真の藤川宿脇本陣の中に、藤川宿資料館があり、宿場町
模型、高札、古図、それに下のむらさき麦の写真のなどが展示
されています。
むらさき麦は大麦の栽培品種で、食用というよりはむしろ
鑑賞・染物などに使われていたそうです。
茎や穂が紫色になる美しい麦で、戦後までは細々と作られた
きたむらさき麦も、いつの間にか消えてしまい、幻の麦と
なってしまいましたが、10年前より再び栽培されるように
なったそうです。
藤川宿の西のはずれに約1キロの藤川の松並木があります。
「38:岡崎宿」
次の浮世絵は、矢作川(やはぎがわ)の西岸から、対岸の
岡崎城を臨む図です。
橋を渡るのは大名行列です。
旧東海道沿いの大平一里塚から、少し右に入ると、写真の大岡
越前守の屋敷跡があります。
”桜吹雪の刺青”で有名な”遠山の金さん”の江戸・北町奉行
に対し、大岡越前守は、”大岡裁き”で有名な江戸・南町奉行
です。
しかし、大岡越前守の屋敷が、江戸ではなく、何故、こんな所に?
もともと紀州藩士であった大岡越前守忠相は、紀州藩主・吉宗
が将軍になったのに伴って、江戸へ行き旗本となります。
南町奉行として手腕をふるい、吉宗を支えた功績により、
72歳の時に1万石の大名となり、故郷のここ三河国の西大平
藩の藩主となったそうです。
ふ~ん、そういう事か!
屋敷跡は写真の門と塀のみで、塀の中は公園になっています。
ちなみに、南町奉行(大岡越前守)のあったJR有楽町付近の
遺構は、現在、有楽町イントシアに移設されているそうです。
また、北町奉行(遠山の金さん)のあった東京駅八重洲北口の
遺構は、現在、丸の内トラストタワー周辺に移設されている
そうです。
お昼御飯は、市の中心部からバスで約15分の真福寺の竹膳
料理です。
写真の様に、タケノコの刺身、てんぷら、田楽、煮つけ、
酢の物、吸い物とタケノコずくしのフルコースです。
その上、お膳、器、箸なども全てが竹細工と徹底しています。
タケノコは柔らかくて食べやすく、大満足!
1590年に岡崎城に入城した田中吉政は、10年かけて城下町
を整備し、防衛のために街道を27か所も屈折させる「二十七
曲り」を作りました。
岡崎宿の町中に入ると、写真の冠木門があり、ここが二十七
曲りのスタート地点です。
岡崎城の天守閣(200円)の2~4階は資料館です。
岡崎城の天守閣は、何と!明治6年まで現存していたのです
が、残念ながら廃城令により取り壊されてしまいました!
もったいない!
明治政府は、よほど徳川憎し、だったんですね~。
徳川家康は、岡崎城の城内で生まれましたが、以降、織田
信秀、更には今川義元の人質として他国で過ごしました。
しかし、今川義元が桶狭間の合戦で戦死したことにより、
19歳で人質から解放され、以来、ここ岡崎城を拠点に天下
統一の基礎を固めました。
下の写真は、家康誕生のおりの”えな(胎盤)を埋めた「えな
塚」と、家康が産湯に使用した井戸水の「産湯の井戸」です。
下の写真は、家康公の人形が能を舞う「からくり時計塔」
です。
岡崎城では、コスプレ大会が開催されていて、写真の様に
着飾った若者で大賑わいでした。
1782年創業の備前屋では、岡崎名物の次写真の「あわ雪」
(525円)を売っています。
お昼は、「大正庵釜春」で八丁味噌煮込みうどんでした。
見かけより薄味で、麺はコシがあるというより固い感じ
でした。(1,100円)
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