(写真は、軒並み「うだつ」が続く「今庄」の宿場町)
前回ご紹介しました様に、「芭蕉」と親友の「等栽」
(とうさい)は、「福井」の外れの「朝六つの橋」を渡って
「敦賀」に向かいました。
「奥の細道」によると、「等栽」は、”おかしゅう裾絡げ
(すそからげ)て”、うきうきと道案内に立ったとあり
ます。
但し、福井から敦賀の間は、記録係の「曾良」がいなかった
ので、どこをどの様に歩いたのか、行程がはっきりしない
そうです。
福井を出て、2人は、北国街道を鯖江、武生と、宿場町を順次
南下して、「今庄(いまじょう)宿」で一泊したようです。
「今庄」(いまじょう)は、江戸時代、越前国(福井県)で
最も繁栄した宿場町でした。
商用や京への寺参り、伊勢参りなどで今庄宿を利用する旅人
が多く、その町並みは1キロメートルにも及び、家屋が
立て込んでいたそうです。
「今庄宿」で一泊した芭蕉と等栽は、翌朝、「木の芽峠」を
越えて「板取(いたどり)宿」へ向かいました。
「木の芽峠」は、東海道の「小夜の中山」に対して、北陸道の
「越の中山」と呼ばれていました。
芭蕉は、この「木の芽峠」で、下記の句を詠みました。
”中山や 越路も月は また命 ” (芭蕉)
(年をとり、再びこの中山を越す日が来るとは思っても
みなかった。これも命あればこそだ。)
この句は、東海道の小夜の中山で、西行法師が詠んだ
”年たけて また越ゆべしと思いきや 命なりけり
小夜の中山” を踏まえたものだそうです。
我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーも、福井市内を
抜けて、「今庄(いまじょう)」、「木の芽峠」を経由
して、北陸道を「敦賀」へ向かいます。
先ず、「今庄(いまじょう)」でバスを降りて、今庄の宿場町
を散策します。
今庄は、福井県の南越前町にあり、町の中心部には、写真の
JR北陸本線の「今庄駅」があります。
往時の面影を濃く残す、今庄の宿場町を歩いて行きます。
上の写真は、江戸時代の「旅籠・若狭屋」です。
写真は、今は小公園となっている「福井藩本陣」跡で、大庄屋
の後藤覚左衛門の屋敷があったところです。
上の写真は、かつては造り酒屋だった「京藤甚五郎家」で、
立派な「うだつ」が上がっています。
上の写真は、昭和初期に建てられ、かつては役場だった「昭和
会館」で、今は公民館として利用されています。
昭和会館のすぐ前は、次頁の写真の「脇本陣・北村新平家」跡
です。
今庄宿の背後に迫る小高い山には、「木曽義仲」が築城させた
「燧ケ城(ひうちがじょう)」跡があります。
写真は、旧街道沿いにある新羅神社・観音堂の脇から燧ヶ城
への登城道です。
「源平盛衰記」によると、1183年、木曽義仲は、平維盛の軍
を討つために、6千騎を率いて、燧ケ城に立て籠もりました。
しかし、木曽義仲の援軍に来た長吏斉明が、平家側に内通し
裏切ったため、燧ヶ城は落城してしまいました・・・
木曽義仲の熱狂的なファンだった芭蕉は、「奥の細道」の
中で、この「燧ケ城」(ひうちがじょう)の戦いで、
義仲軍が平維盛に攻め落されたのを悲しんで、下記の句を
詠んでいます。
”義仲の 寝覚めの山か 月悲し ” (芭蕉)
(木曽義仲も この景色を見ていたかと思うと 眺める月も
物悲しい。)
我々のバス旅行は、今庄宿を出て、木の芽峠を越えて、次の
「板取(いたどり)宿」へ向かいます。
板取宿は、7軒の旅籠、3軒の茶屋などが建ち並んで賑わった
そうです。
国道からの分岐する緩やかな石畳の坂道を上って行きます。
板取宿跡の中ほどに、茅葺の民家が数軒だけ残されて
いました。
3名の役人が常駐していたという「板取関所跡」の標識が
立っています。
「板取宿」は、江戸時代、越前の南端の重要な関門の地の
位置づけで、領主として越前に入国した家康の子の結城秀康
が、関所を設けて旅人を取り締まったそうです。