(写真は、雄島にある芭蕉句碑と曾良句碑)
前回の松島の湾内クルーズに続き、今回は松島の中の「雄島」
(おじま)です。
「雄島」は、松島湾の海に突き出た形の島で、短い橋で島へ
渡ります。
”奥州の高野山”と呼ばれていた「雄島」は、瑞巌寺と
ゆかりが深く、当時は、島全体が霊場となっており、僧侶や
巡礼者たちの修行の場でした。
従って、現在でも、島の岩窟の至る所に、当時の修行僧らが
刻んだ石塔婆や仏像が残っています。
また、古くから歌枕の地でもあったため、島内には、多くの
歌碑が見られます。
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奥の細道の旅ハンドブック |
久富 哲雄 | |
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「雄島」に着いた芭蕉は、瑞巌寺の中興の祖である「雲居
(うんご)和尚」の庵の跡を興味深く見学します。
落穂や松笠などを燃やす煙が立ち昇る草庵(見仏堂)があり、
松の木陰には、俗世間を捨てて住む人たちの姿も見えます。
心引かれて雄島を見学しているうちに、月が昇って海に
美しく映え、芭蕉は、月と島とが一体となった様な
不思議な境地を味わいます。
その夜、芭蕉は、昼夜、絶景を見続けたため、ありあまる
感動で興奮して眠れない状態でした。
我々も、短い橋を渡って「雄島」を見物します。
島全体が僧侶や巡礼者たちの修行の場だった「雄島」は、
上と次頁の写真の様に、島の至る所に、当時の僧らが
修行した岩窟が残っています。
上の写真は、1104年に「見仏(けんぶつ)上人」が庵を
結び、12年間、法華経を読誦して過ごしたという
「妙覚庵」の跡です。
この「見仏上人」は、雄島に住んだ僧の中で最も高徳の僧
であると言われていました。
更に、島の南端へ進むと、上の写真の六角形の鞘堂の中に
収められている「頼賢(らいけん)の碑」があります。
この「頼賢の碑」は、1285年から22年間もここ雄島に
住み、一度も島を出なかったという僧「頼賢」の徳行を
伝えるために作られました。
この「頼賢」は、当時、「見仏上人」の再来と騒がれた僧
だそうです。
そして、この「頼賢の碑」は、”中世日本三古碑”の
一つで、国の重文です
しかし、残念ながら、中が真っ暗な六角形の鞘堂に
納まっているため、下の写真の様に、お堂の中の
碑の文字は殆ど読めません。
島の東側には、次頁の写真の芭蕉と曾良の句碑が
あります。
向かって左が芭蕉句碑で、右が曾良句碑ですが、
この曾良句碑は、1809年の曾良の100回忌に建立
されたものだそうです。
”松島や 鶴に身をかれ ほととぎす”(曾良)
(ホトトギスよ、ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、
鶴に身を変えておくれ。)
”朝よさを 誰まつしまぞ 片心”(芭蕉)
(朝も夜も、松島への思いが心に浮かんでならない。
それは、私を待つ人が誰かその島にいて、私のことを
思っているからであろうか。「待つ」と「松島」を
掛けています。)
芭蕉句碑の側面には、「勢州桑名雲裡房門人 延享四年
十月十一日建立」と刻まれています。
更に進むと、瑞巌寺の中興の祖「雲居(うんご)禅師」
の別室の跡である「座禅堂」があります。
「座禅堂」は、1638年に、雲居禅師の隠棲所として
建てられたお堂で、ここからは松島湾に点在する島々を
見晴らすことが出来ます。
我々のツアーバスは、次に、松島の海岸沿いの道を外れ、
東北本線を超えて西へ向かい、「西行戻しの松」を目指し
ます。
次頁の写真の「西行戻しの松」は、西行法師が諸国行脚の
折り、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、
松島行きを諦めたという伝説の地です。
う~ん、ここでも西行は、禅問答で子供に負けたの?。
「西行戻りの松」は高台にあるため松島の景観が望めます。
前頁の写真の陸続きに見える一番右の島が雄島です。
(三省堂:「奥の細道の旅ハンドブック」から)