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国語教員の独り言

日々の思い。国語教材解説。文学。趣味

『羅生門』下人の悪を憎む心

2009年06月09日 | 文学・国語教材
 羅生門の楼の内をのぞいた下人が、老婆が女の死骸から髪の毛を抜くのを見て、憎悪の念を燃え立たせる。「老婆に対する憎悪」と言えば正確でなく、「あらゆる悪に対する反感」と本文では記されている。その下人の判断を芥川は次のように解き明かす。
 
 「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。したがって、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、※それだけですでに許すべからざる悪であった。もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」

 ①原因や理由に基づいてする判断が「合理的な判断」で、下人の判断が「合理的なものでない」こと。「合理的な判断」でなければ、感情的・感覚的判断ということ。『羅生門』の文章の語では、サンチマンタリスム(感傷癖)におかされた判断と言ってもよい。
 ②※「それだけ」は「死人の髪の毛を抜くということ(その事実)だけ」を意味し、「だけ」という限定に着目して文脈で考えると、「なぜ(原因・理由・目的)に関係なく」という意味でもある。こう考えると、下人の判断は、原因・理由・目的に関係しないという点で絶対的な判断と言うことができる。
 (ここで「絶対的」というか、「即物的」というかは、微妙な問題である。この点、再考)
    
 「絶対的」ということは「不変」という意味ではない。他のものとの相対的な関係の上で下されたものではない、という意味である。

 この芥川の設定した下人の心理の構図は、ある意味で「強く」、ある意味で「脆い(変わってしまう)」のである。それ故、「なんの未練もなく飢え死にを選ぶほど」であるし、一方、老婆の論理で美事「盗人になる勇気」を手に入れる合理的根拠となるのである。
 

下人はなぜ、楼の上まで上ったのか?

2009年06月06日 | 文学・国語教材
 羅生門の下で、考えに結論のでなかった下人は、楼の上に上るはしごを見つけて、上で寝ようとする。
 本文では、「雨風の憂えのない、人目にかかるおそれのない、一晩楽に寝られそうな所があれば」と思い、羅生門の上については、「人がいたにしても、どうせ死人ばかりである」とある。
 この時の下人は、当時の荒れ果てて人心の乱れた世を背景にして、生きた人間を恐れているのである。後に、「恐怖」の感情が出てくるから、賊のような人間集団を想定して、避けようとしていると思われる。
 それに対して、「死人」には恐怖を感じていない。「どうせ死人ばかり」なのである。親近感までは書かれていないが、当時においても、死を忌避する感情が存在したと思われる。このあたりの下人の心情は想像しがたい。

 芥川の小説は、作者のモチーフが先行して、人物設定、状況設定に無理があることが多い。

 次の場面、楼上の火を認めて、生きた人間を確信し、「ただ者でない」と思いながらさらに上に上っていく。矛盾と言わざるを得ない。
 「恐いもの見たさ」とか「好奇心」を想定して、説明する文が時々ある。
 このような、その場その場で適当な理屈をつける癖ができると、無理な人物設定に対しても超論理で理屈をつけてしまい、正当な読解ができなくなる。
 
 この場面、芥川は下人に老婆を発見させたいのである。盗人になる勇気のなかった下人が老婆の論理によって盗人に跳躍する物語を描きたい芥川にとって、このはしご段を上っていく下人の合理的な説明は不要なのである。不要というよりは、「無理」と感じて、書いていない。
 (芥川は合理的に説明のつくところは、小説と思えないほど書き表す。その一例は明日に)

 この場面は、恐怖を感じて「猫のように」「やもりのように」と、警戒感を身体で表現しているところをおもしろく読めばいいのである。

「羅生門」下人の低回

2009年06月06日 | 文学・国語教材
 ある日の暮れ方、羅生門の下で途方に暮れながらとりとめもない考えをたどっていた下人。
 その「考え」の中身を理解していないことが多い。

 下人は、
 「主人から暇を出されてもう5日。ついに少しあった金もなくなってしまった。いやはや、明日の暮らしをどうにかせんと。それにしても、この荒れ果てた様子では、どこもワシらのような者を食べさせてくるところはないであろ。どうにもならんのう。困ったことじゃ。悪さなどはせんですむように、まっとうな方法を捜しておったら、見つける前に飢え死にしてしまう。道ばたで死んで行き倒れ。死んだら、身寄りのないワシの体じゃ、うわさの通りこの羅生門に棄てられるじゃろ。犬と同じじゃ。
 いやいや、いかんぞ。何とかしてしないですむように、明日の算段をしなければ。しかし、当てがあるわけじゃなし、どうにもならんのう。ワシらのような者を……」
 この繰り返しが、「何度も同じ道(同じ考え)を低回し」ているのである。

 「とりとめなく」と言いながら、多少筋道だって考えている。本文の言葉で言えば、

※「明日の暮らしをどうにかしよう。」
  ↓
 「(いやいや)どうにもならない。」

 「どうにもならないことを、どうにかするために、手段を選んでいるいとまはない。」

 「選んでいれば、築地の下か、道ばたの上で飢え死にするばかりである。」

 「そうして、犬のようにこの門の上に棄てられる。」

 (それではいかん。)

※「明日の暮らしをどうにかしよう。」

   ※から※を何度も繰り返す。(同じ道を低回)

 そして、何度目かに、
「選ばないとすれば」と考えるのである。思考の脱線でもあるし、ある種、思考の閃きと言える。「サンチマンタリスム」に支配されて、論理的な思考はできない。偶然の飛躍を待たなければならなかったのである。
 直接話法で書けば、
「選ばないとすれば、アッ、盗人になればいい!」ということであろう。本文では、「盗人になるよりほかにしかたがない。」とある。これは、この間の下人の考えのスタート、「明日の暮らしをどうにかしよう。(それには、)」を受けているのである。

 それ故、「この局所」は、「選ばないとすれば」を指す。ただし、「選ばないとすれば」は、連続的に次の「盗人になるよりほかにしかたがない。」につながるから、「選ばないとすれば(盗人になるよりほかにしかたがない。)」と答えるのも一法であろう。

「水の東西」第2講

2009年06月05日 | 文学・国語教材
「かたちなきものを恐れない心」

 前回、この部分の理解として、人間の精神性として「かたちなきものを恐れる心」の普遍性を述べた。
 おそらく人間に「知恵」というものがつきはじめたときから、この「かたちなきものを恐れる心」を人類は持ち始めたのであろう。自己の有限性、死を想像するようになって、それを、不安・恐怖として感じるようになった。その抽象的な表現が「かたちなきものを恐れる心」である。

 人は自分の生を「かたち」として手に入れようとした。現実世界でのかたちの実現が難しいなら、まだしも、その痕跡を死後に残そうとした。そのような営みを人類はもう何千年も繰り返している。

 仏教的な悟りの一つは、そのような「かたち」への執着からの解脱を目標としたしたのであろう。通俗化して言えば、無常観というものであろう。もっと通俗化すれば、自然に帰る、という発想であろう。

 芸能でも能などは、感情や動作が抑制されている。歌舞伎との違いである。

 かつて、日本人は以心伝心ではないが、言わなくても分かり合えるような関係性をよしとしてきた。意志と同時に心の表現も抑制されていた。

 携帯電話が流行りだして、若者が始終友達同士でやりとりするのを見て、その若者の精神を「弱い」と大人は感じた。常につながっていないと不安でたまらない。言葉のやりとりをして、関係を「かたち」化する若者。友人の一人が誕生日を迎えたら、プレゼントを贈って関係を「かたち」にする。愛は、「好きだよ」という言葉で、「かたち」化する。
 ある意味、これらはアメリカンスタイルとも言えなくはない。

 大人から見れば、「昔はかたち化しなくても平気だった」となる。そのような文脈で考えると、日本人に「かたちなきもの恐れない心」を想定するのは可能となる。
 ただし、確かにそういう側面はある、そして、失われつつある、という意味でである。
 
 
 

「水の東西」 第1講

2009年06月03日 | 文学・国語教材
 山崎正和氏の有名教材である。掲載されている教科書も5社ほどある。さて、どのように教えられているだろうか?

 基本的なことは、鹿おどしと噴水を素材に東洋と西洋の水の鑑賞の仕方、その根底にある精神性の対比を語る文章であるからワカリヤスイ。
 ただし、その文章のハイライトで使われている日本人の感性を述べた文、「積極的にかたちなきものを恐れない心」の理解が問題となる。

 問題 この感性を、日本人の感性の基本と考えるか、またはその位置付けをどう考えるか。

 直前に、仏教的な言葉として、行雲流水という言葉が例示されているからには、相当に日本人の基本的な感性と捉えないと、山崎氏の文章が日本人の感性の一特性を断片的に述べたものということになってしまう。
 まず、この確認が重要である。なぜなら、現実に存在する日本人に、「かたちを好む」感性も相当程度に見られるからである。例はたくさんある。日本人は「形式的な」民族とも考えられている。
 良心的な教師、まじめな読解を重んじる教師なら、この点の吟味がされていて、授業に反映するはずである。

 日本人の感性・価値観に「かたちなきものを恐れないこころ」と「かたちを好むこころ」の両方がある。また、これは日本人限定でなく多くの民族でも共通であろう。ただし、日本において、「かたちなきもの恐れないこころ」は宗教的な場面や美意識、芸能の一部において優勢である、という言い方は成立する。

 宗教といっても、仏を目に見える形、多様な仏像に現して信仰の助けにする点、また石の墓を作ったりするのは「かたちを好む」「かたちにたよる」例である。また、美意識といっても、極端に作法を重視したり、切腹して死ぬなどという形式美は、字のとおり、「かたち」が命になる。
 このような、一方で、「かたち」を含み込んだ「かたち」なきものへの共感であることをしっかり理解しなければならない。
 本来なら、この吟味が授業の中心となるべきなのである。

 話を展開する前に、この一文の読みについて述べよう。

 「かたちなきものを恐れない心」という文は、「かたちなきものを恐れる心」、これが基本にあってはじめて意味のある文である。そうとわかれば、人間の営みの多くは「かたちなきもの恐れる心」であることに気づく。先ほど仏像や墓、形式美で述べたとおりである。
 人間営みの基本が「かたちなきものを恐れる心」で、そんな中で、日本人の宗教観の重要なところ、世界観の重要なところに「かたちなきものを恐れない心」があった!こと、山崎氏の文章はこの主張なのである。「どの程度」という問題ではないのである。