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国語教員の独り言

日々の思い。国語教材解説。文学。趣味

『こころ』をどう読む?(1)

2009年07月24日 | 文学・国語教材
以前、定番教材にふれ、『こころ』に魅力を感じないことを書いた。
みなさんは、どうなのだろう?

新潮文庫という日本文学の老舗がある。そこで毎年、「新潮文庫の100冊」という企画をやっている。書店に行くとこの時期これらの本が平積みになる。この34年続いた企画で、「34年間、欠かすことなく選ばれた作品」が11冊ある。新潮社いわく「不朽の名作」。もちろん、夏目漱石の『こころ』が入っている。
 参考 いろいろランキグ

『こころ』以外では、『黒い雨』『人間失格』『塩狩峠』『銀河鉄道の夜』『変身』『異邦人』『罪と罰』『車輪の下』『赤毛のアン』『老人と海』である。

『こころ』を新潮社が選んでいる理由には、教科書で学ぶ高校生の読者を想定しているのではないか。必ず確実に何万部か売れる。
ちなみに、新潮文庫では1952年以降、『こころ』を600万部以上売っているそうな。新潮文庫以外に、思いつくだけでも、角川文庫、集英社文庫、岩波文庫と出ている。単行本もあれば、全集本もある。今ではネット版もある。青空文庫では無料で読める。
岩波書店が最初に単行本で発売して以来、全部で何万部売れているのだろう?当然最初に呼んだ朝日新聞の読者も数えなければならない。読んだ人数となれば、図書館の貸し出しも、、。
気の遠くなりそうな数値である。

それほどの名作である。

私にはこの『こころ』、いつも後味が悪い。
人間てこんな風にしか生きられないはずがない、と思う。この作品には、人間の根底にエゴイズムを想定し、現実世界での人間と人間の理解不可能性を基盤にしている。そうだろうか?
人間にエゴイズムがないなどと誰も思わない。問題はエゴイズムやその他の根源的な感情を含み込んで、どういう表現・行動を人はなし得るかということであり、どういう行動を希望するかということである。

その上で、人間をどのように描くか? 「先生」という人物、Kという人物、どちらもトータルなところで漱石は人物設定に失敗している、と思う。

問題を整理しよう。「先生」、K、この二人の人物設定、成功しているか、失敗しているか?


定番教材の意外な裏事情

2009年07月05日 | 文学・国語教材
どうして『羅生門』『山月記』『こころ』『舞姫』が定番教材となるのか?

一つの理由は高校の教師側の事情である。
毎年毎年同じ教材だと教えるのが楽である。ノートを作っているなら一つのノート。たとえノートを作っていなかったとしても、毎年のように繰り返せば、教えるポイントも自然と頭に入る。職場の多忙化の中で、一つの自己防衛となる。

そんな事情があって、定番教材の載っている教科書が採択される。教科書会社もはずすわけにいかない。
こんな事情であろうか?

問題は、これらの作品は俗っぽく読むと、まるで道徳の教科書で、文学を志すような少年少女にはつまらない授業空間になっているだろうと思うのである。
俗な読み方ができるという点で完成度は高くない、と私は評価している。
言い方を換えると、教える側の教師を相当訓練しないと俗な読みで「よし」となるということである。
私自身は、上記の4作品に小説としての魅力を感じていない。できれば、他の作品が載っている教科書を選びたい。ところが、他の作品を載せている教科書がほとんどない。これが現状である。


『山月記』、多くの大人は高校時代に読んだはず。
才能に恵まれた一人の若者が、俗な世界(官僚の世界)で生きていくことができずに、芸術(詩人)で身を立てようする。ところが、羞恥心と自尊心がわざわいとなり、勤勉に人と交わって切磋琢磨することができない。その結果、詩人として成功しない。曲折を経て発狂し、虎に変身する。そして、消えていく人間の心に執着しながら、孤独感と反省の思いで苦しむ、という話。

読後感はどんなものでしたか?

羞恥心と自尊心は肥大させないように気をつけてコントロールしなければならない、という反省的なものですか?
芸術家にも当たり前な人間感情がないといけない。同時に、当たり前な人間感情なしには成功しない、ということですか?
人生、できるだけ後で後悔しないように、自分を押さえて生きなければならない、ということですか?
虎に変身するなんてありえない。変な話、というものですか?
苦しみの中の李徴に同情する、というものですか?

反省に同情、戒め。これが教室の一般的な状況と思われる。教師側もそれ以上を望んでいない!!

要するに、理由の二つ目。これらの作品は、「俗っぽく」読んでる分には、非常に読みやすい、分かりやすい、(=教えやすい)ということである。

羅生門・山月記・こころ・舞姫-定番教材を考える(1)

2009年07月03日 | 文学・国語教材
上記の4作品は、高校現代文の多数の教科書に掲載されている。いわゆる定番教材と言われるものである。
近年、『羅生門』は多少エゴイズムから離れた読みがなされるようになったが、それ以外の作品は、エゴイズム、あるいは自分の性情に支配される物語で、すべて、主人公の「反省」で終わっている。読んでいる人間は自分の暗部と向き合わざるを得ない。読んでいて楽しくない。発見がない。

『羅生門』もストーリーとしては、善と悪で揺れた人間が、最終的に自分の「生」を肯定するため(生きるため)に「悪」を認める、という構図になる。教室では芥川の示した二つの選択肢(死or飢え死に)以外に他の選択肢がない状況について、アレコレ議論する余裕がない。
老婆から着物を剥ぎ取って、「愉快な気持ち」になれるはずがない。愉快になろうと思えば、テキストを読んだ上で、「さあ、これをおもしろく読もう」という声掛けが必要となる。はじめて結末に引きずられない、テキスト批判を含んだ読みが可能となる。それには、生徒の力量と指導する教師の力量、両方が必要である。とても高校に入学したばかりの1年生にできることではない。

関口安義氏も笹淵友一氏も「愉快な小説」の読みで成功しているとは思えない。

生徒は基本的にまじめだから、作品から人間について考えようとする。どうしてもエゴイズムの物語と読んでしまう。
人間について考えるなら、『鼻』や『芋粥』『枯れ野抄』などの作品の方がよほど適している。

芥川の作品の人気投票をすればどうなるのだろうか?

同じことで、夏目漱石の作品で人気投票をすればどうなるだろう?文庫本で圧倒的に売れているのが『こころ』である。ただし、これは教科書掲載の影響ではないか?
私も丸谷氏や半藤氏と同じく、『猫』や『坊っちゃん』がよほどおもしろい。

盗人or飢え死に

2009年06月28日 | 文学・国語教材
二者択一で、盗人になるか、それとも飢え死にするか。
こんな場面を設定されたら、みんなはどんなストーリーを作るだろうか?

どんなモラリストでも、飢え死には選びがたい。
飢え死にに対するのが、盗人でなく殺人なら、飢え死にを選ぶ選択は増えるかも知れない。

しかし、たかが「盗人」である。盗んだ(盗まれた)相手は、またいかようにも生きる算段が可能である。
他の選択肢が全く封じられた状況で、盗人を選んだところで、まさか、「倫理の終焉する世界」などと大上段に構えた批評が生まれるとは信じがたい。

『羅生門』、下人の選択肢は、盗人と飢え死にしかないのである。
このような状況設定から、テーマが生まれるとしたら、盗人になるためにいかなるストーリー作るか、そのおもしろみであろう。
そして、そのストーリーの中に、いかにして人間の真実味を描き出すか。

『羅生門』のテーマは、それ故、下人が盗人になるという結論から導かれるのではなく、結論にいたる過程の中に描かれた人間の姿である。

下人の何がおもしろいか?
羅生門の下で、他の方法がないと分かっていて、それでも盗人になる決断が下せない下人。
なんとも良心的でないか?人間はここまで、善を棄てられないのか。でも、これって、よくあるよね。悪になりきれない我々。

異様な老婆を死骸の中に見つけて、恐怖で逆毛立つ。それでも好奇心から逃げられない。
これも微妙に理解できる。恐いもの見たさというのではないけれど、一度見てしまったら、目をそらすことはできない。

善悪で揺れる人間。
これはもう言うもおろか。
特にそれが、感覚的な判断なら、簡単に揺れてしまう。

私にとって一番おもしろいと思うのは、下人が生きる論理を手に入れたその相手が非力な老婆であるというところ。

考えてみれば、無法者の盗賊集団を盗み見て、それをマネするなんて、物語でも何でもない。また、思考を重ねて、「生きる=正義」なんて哲学を考えつくというのもつまらない。
無力な子どもか、このような老婆。一番考えやすい。意外性がある。老爺ならどうであろうか。女性には失礼だが、「猿のような」という形容語は老爺よりも老婆に使える(と私は思う)。やはり老婆なのであろう。

必死になって命乞いの言い訳をする老婆。下人は、しかし、冷淡である。自分のにきびの方が気にかかる。この表現も生きている。

(「にきび」について様々に解釈されているようだが、無駄な解釈が多い。下手な記号論的解釈はもうやめてくれ、と言いたくなる。時々ビックリするのが、仲間の国語教師が、そんな解釈を自分に取り入れていることである。)

老婆の言い訳を聞いているうちに、やっと下人は、「善」の足かせから逃れる論理を手に入れる。
でもその後で、老婆に「きっとそうか」と念押しして、「では、俺がひはぎをしようと恨むまいな」とことわる下人。無茶苦茶弱い下人である。
ただし、これも人間らしい。
それを、「悪を許し合う人間関係」なんていうと、もうそれは、文学を楽しむ態度ではないよね。


『羅生門』 その後の下人

2009年06月23日 | 文学・国語教材
老婆から着物を奪って夜の底へ駆けて行った下人は、その後どうなるのだろうか?

芥川はその判断を、読者に委ねている。よく指摘されることだが、初出の、「下人は、既に、雨を冒して、京の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」に対して、「下人の行方は、誰も知らない。」の方が解釈の幅、想像の幅は広い。

主だった想定は次のようになるだろう。

1)老婆から生きるための悪を肯定する論理を手に入れた下人、当然、盗みを重ねて生きていく。初出の形である。

2)羅生門の上で何度も善悪に揺れた。雨の夜のサンチマンタリスムの影響があったとしても、その後の下人も善と悪の間で揺れたと考えるのは不自然ではない。下人を善に導く新たな存在は論理的に可能である。下人の下りていった「黒洞々たる夜」の世界に、一筋光る灯火である。

この論の弱点(?)は、善に導かれた先が、飢え死にしかないとしたら、それは何と残酷なことか。
善に導く存在は、同時に、飢え死にをも回避させる力を持たなければならない。例えば、有力者の娘で、父の財力で下人に生活(仕事)をも与える。

3)盗人になったとして、盗人としてのその後はいろいろ考えられる。盗人の世界は、ある意味、「悪」のはびこる世界。人間の存在はより不安定である。下人は自分より強い悪によって滅ぼされる。

下人が、より強い悪によって滅ぼされるのは、
ヘビを偽って売った女<老婆<下人<より強い「悪」<さらに強い「悪」<…
という救われない悪の連なりを現前する。
 
この図式に近いが、おもしろいのは、「スクミの連環(円環)」である。
太刀帯(たてわき)や検非違使<ヘビを偽って売った女<老婆<下人<(より強い「悪」)<悪を懲らしめる検非違使や太刀帯<(弱いが詐欺的にだます能力のある者)<(さらに弱いが、モラルの禁制から逃れているので、死んだりして弱くなった所につけ込んで奪う者)<…
の連環(円環)である。これなら、社会として成立する。無明の闇からの解放である。いかがであろう?
悪を許し合う関係でなく、悪によって支え合う関係である。

まさか、こんな問題!?

2009年06月21日 | 文学・国語教材
同僚教員が某教科書会社のCDに収められている『羅生門』のテスト問題を使おうとしていた。それを見て、ビックリ仰天。

もし、君たちの内に高校一年生がいて、今度の期末考査でこんな問題を出されたら、先生に抗議すればいい。


一つ目、選択肢があまりに馬鹿げていて、まるで問題の体をなさないケース。これでは授業の意味がないよね。

「その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、③〈恐怖が少しずつ消えていった。そ〉うして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いてきた。」

 問 傍線部③の理由として最も適当なものを次から選び、記号で答えなさい。
 (ア) 老婆が下人のことを理解してくれて、そのため彼の不安が取り去られたから。
 (イ) それまで無気味でしかなかった老婆の様子が下人に次第に分かってきたから。
 (ウ) 老婆の行動が危険なものでないとわかり、下人は安心して逃げようと考えたから。
 (エ) 老婆の行為に対する好奇心から、老婆の行動に全幅の信頼を寄せるようになったから。
 
 答えは(イ)しかないが、どうしたらそれ以外の選択肢を選ぶことが可能なのか?これでは何のための問題。生徒を馬鹿にしているのか、それとも、この問題の作者が問題作成の能力に欠けるのか?

二つめ、問作者が本文の読み間違いをしていると考えられる例。

 「その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いてきた。――いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれない。むしろ、③〈あらゆる悪に対する反感〉が、一分ごとに強さを増してきたのである。」

問 傍線部③で、この下人の「反感」に含まれないものはどれか。最も適当なものを次から選び、記号で答えなさい。
 (ア) この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜く老婆の行為に対する反感。
 (イ) 都が災い続きで荒れ果て、引き取り手のない死人を羅生門上に捨てざるを得ない、そうした社会に対する反感。
 (ウ) 蛇を切って干したのを干し魚だといって売り物にした女の、ずるがしこさに対する反感。
 (エ) 永年使われていた主人から暇を出され、今途方に暮れているという、自分の置かれた状況に対する反感。

おそらく問作者は(ウ)を正解とするのだろう。まだ下人の経験していない話しだから、と。

たまたま17日のこの欄で「あらゆる悪」について言及していたのは、偶然の一致。私の論拠は示しているとおりである。

このブログを読んでくださる皆さんはどう考えるか、是非、ご意見をください。

あらゆる悪??

2009年06月17日 | 文学・国語教材
 下人は老婆が死骸から髪の毛を抜くのを見て、老婆に対する激しい憎悪を感じる。そしてその時の下人の正義感について、芥川は、「あらゆる悪に対する反感」と言い換える。
 はたして、「あらゆる悪」とは何か?我々は解ったようにして読むが、「あらゆる悪」などという概念は成立するのか?

 「あらゆる悪」と近い内容の表現は「みんなが認める悪」であろう。多数の人間を想定してはじめて「あらゆる悪」という表現は意味を持つ。一人の人間が事象を判断して、なにかしら「悪」と認める集合がある。それが悪である。その個人にとっては、常に「あらゆる悪」なのである。
 羅生門の下では、悪を否定したのではない。「肯定する勇気がなかった」のである。盗人になるのは悪。だからある種の善から肯定できなかった。しかし、悪に対する「憎悪」「反感」も強くはなかった。

 この時の下人は、一体、何を悪と認めていたのだろうか。「盗人になること」「死人から髪の毛を抜くこと」はっきり読み取れるのはそれだけである。

 暇を出された下人が路頭に迷うような、その主人の対応は悪ではない。死骸を羅生門の上に棄てること、それは悪ではない。老婆に説得されるところを見ると、蛇なんかを偽って売るのは悪なのだろう。しかし、それも老婆の話でそのように思いこまされただけであって、はじめから下人に詐欺的な行為に対する社会的な正義感があったとは信じがたいところである。
 
 あくまで、下人の認定しているところの悪の部分に対して、それを強く否定しているに過ぎない。下人が正義の権化になったようになんとなく読むのは、芥川の「あらゆる悪」という語に我々が操られているのである。

 

六分の恐怖と四分の好奇心

2009年06月15日 | 文学・国語教材
 死骸の中にうずくまる猿のような白髪頭の老婆を見たとき、下人は「ある強い感情」にとらわれて、死骸から発する臭気に鼻をおおうことを忘れてしまう。
 そしてその「ある強い感情」については次の段落で、「六分の恐怖と四分の好奇心」と明かされる。
 はじめは、「鼻を覆うことをわすれる」と記述され、ここでは「暫時は呼吸(いき)をするのさえ忘れて」記述される。「呼吸をするのさえ忘れる」と書かれているから、なろほど、それほど強かったのかと言葉の上で理解するが、この「六分の恐怖と四分の好奇心」という分析的な言葉は、「恐怖」を表現するのに効果的であろうか。疑問に思うのは私だけだろうか?

 「ある強い感情」の中に「好奇心」は必要なのだろうか?何のために?逃げ出さないために?異常なものを望んでいるの下人の異常さを表現するために?

 四分六と言えば、やや片寄っているが、むしろ五分五分に近い数字である。好奇心に対して恐怖が圧倒するという形勢ではない。また、四分六に分けるということは、あくまで全体は十で、恐怖と好奇心の相対的な比率を表しているに過ぎない。精神全開200%、とか、勇気百倍というような、普段の状態との比較の方が「強さ」を言うのに適している。
 
 我々は次の「頭身の毛も太る」という表現によって、はじめて下人の「恐怖」を追体験的に理解する。この言葉によってはじめて「臭気に鼻を押さえることを忘れていた」下人をなるほどと思うことができる。「息をするのさえ忘れていた」では、同じ表現の繰り返しで想像力は働かない。

 よくテストなどで「ある強い感情」と同じ内容を表した表現を尋ねる場合がある。正確にいうなら、「六分の恐怖と四分の好奇心」は「ある強い感情」を分析的に説明すると、どんな心的状況と言うことができますか?という問の答えであろう。決して単なるイコールではない。

老婆の言い訳の論理と下人

2009年06月11日 | 文学・国語教材
 冷ややかな侮蔑とともに前の憎悪がもどってきたのを下人の気色から読み取った老婆は、あわてて次のように言う。

「成程な、死人(シビト)の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、その位な事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現に、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりづつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯(タテハキ)の陣へ売りに往んだわ。疫病(エヤミ)にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料(サイリョウ)に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、飢死(ウエジニ)をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢死をするのじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 ちなみに本文では、「蟇(ヒキ)のつぶやくような声で、口ごもりながら」とある。なかなか実際に演じてみるのは難しい。「蟇蛙」を想像しながら喉の奥からしわがれた声を出すのが精々である。「口ごもりながら」とあるが、老婆にとっては侮蔑と一緒になった憎悪を早く和らげなければならない。気持ちは急いている。ゆっくりと口ごもる場面ではない。論理を考えながら言うのが口ごもることになるのだろう。

 ここでの老婆の言い訳の論理は、次の三点からなる。
①髪を抜かれている女も、悪事をはたらいていたから、悪をされてもよい。
②女は飢え死にしないために仕方なくやったので、悪いことではない。自分も飢え死にしないために仕方なくやるので、悪いことではない。
 ○生きるために仕方なくやることは悪ではない。
③悪の仕方なさを知っているものは、悪を許してくれる。

 「生きんがための悪」などとよく言われて、②の論理が中心となっている(と見える)。事実、これは「そう見える」「そのように書かれている」と言うことである。

 下人は「己もそうしなければ、飢死をする体なのだ。」と、老婆から着物を剥ぎ取る理由を、飢え死にしないため、と明言している。下人は②の論理を中心に、「では、己が引剥(ヒハギ)をしようと恨むまいな。」と③の論理も確認しながら、老婆と悪を許し合う人間関係を結ぼうとする。①の論理を加味すれば、なおさら下人は悪への勇気を手にしたのがわかる。
 下人はそのように描かれている。

善と悪に揺れる下人(1)

2009年06月10日 | 文学・国語教材
老婆が死人の髪の毛を抜くのを見て、極端な「善」に走った下人はその後、善と悪の間で揺れる。
この振幅については、芥川は因と果を明確にする。

おもしろいのは、老婆への憎悪から、「あらゆる悪に対する反感」まで成長(?)した下人の心が、次の場面、老婆を捕らえた場面でその生死を自由にする力が自分にあることを意識することによって、「今までけわしく燃えていた憎悪の心を」簡単に冷ましてしまう。基本的には、老婆に対する憎悪の心を冷ましたのであるにもかかわらず、悪一般に対する反感も冷ましているようなのである。
その違い、同時性について芥川は何も書き添えていない。

余裕のできた下人は、老婆に髪の毛を抜く理由を尋ねる。
老婆の答えは平凡な「鬘にする」というもの。
それを聞いた下人には、答えの平凡さに対する失望から、「前の憎悪」が戻ってくる。老婆の答えに由来するものである以上、老婆に対する「憎悪」であるはずである。ところがこの場面も、悪一般に対する憎悪と考えなければならない。

芥川がそのことに触れないのは、飢え死にするか盗人になるかという下人の問題に還元することが不可能だからであろう。

「平凡な答えに失望した下人は、また前の憎悪を燃え立たせた。もし下人に門の下で考えていた問題をだしたら、今度も未練なく飢え死にを選んだであろう」とはならない。
いかにも不自然である。本文では「前の憎悪」と言いながら、内容的には老婆に限定した憎悪であろう。そのことは明示するわけにはいかない。そう言うことであろう。
老婆に限定するわけにいかないのは、最後、老婆の論理によって悪一般の肯定を手に入れなければならないからである。「見かけ上」は善悪に揺れる下人が必要なのである。

と考えていくと、実際のところ下人はそれほど「善」と「悪」で揺れたのではない、という言い方もできる。