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国語教員の独り言

日々の思い。国語教材解説。文学。趣味

六十歳の老婆?『富嶽百景』

2013年10月09日 | 文学・国語教材

太宰の『富嶽百景』
もし、高校の教科書に太宰から選ぶとすれば、『富嶽百景』は妥当な作品といえる。
読んでいて、あまり違和感はない。

その第三段落
「富士には月見草がよく似合う」の場面。

河口村からのバス。他の乗客と違って主人公の気を惹く「老婆」がいた。
今まで、特に何も感じることなくこの部分を読んでいた。
本文。
「私のすぐ隣に、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと座っていて、・・」

六十と言えば、今の私。もしこの人物が男なら、
「私のすぐ隣に、薄い茶色の帽子をかぶった、高く品のよい鼻を持った、六十歳くらい、私の父とよく似た老爺がしゃんと座っていて、・・」となるのだろうか。

太宰がこの作品を書いたのが昭和13年。
そのころは60歳で老婆、老爺と呼んで違和感がなかったのであろう。
現代の感覚で言えば、70歳と言うべきであろう。70歳でも、少し失礼かもしれない。

この老婆がかっこいい。頭の中で70歳くらいの夫人に置き換えて、気持ちよく心に描くことができる。
次に出てくる「高尚な虚無の心」。太宰の他の作品と違って、これも素直に受け入れられる。

そもそも「老婆」という言葉が現代にマッチしないのかも知れない。
身が縮んで小さくなり、しわが寄り、老人くさい服を着て、身をかがめている。そして、頼るべき身寄りもいない。
まさに『羅生門』に出てくる「老婆」である。マイナスイメージの塊である。





「ミロのヴィーナス」のおもしろさ(2)「ある全体性」

2012年09月05日 | 文学・国語教材
第一段落 つづき

 この段落で、最もおもしろく興味深い表現は「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄である」という部分であろう。
「部分的な具象」とはビーナスの腕の部分をさす。「放棄」というからには、執着しなかったということであり、ある意味、自分から意図したことでないことを示している。
 その結果、偶然「ある全体性」に肉薄したというのである。「肉薄」であるから、完全な獲得ではない。限りなく近づいたということである。

ここで問題は次の二つ。
1、「全体性(への肉薄)」という言葉にどの程度の魅力を感じるか、感じることができるかどうか。
2、「ある全体性」の「ある」とされている理由について、思いが及ぶかどうか。

1、について
 人は、100%の自分というものを実感することはほとんどない。理性を没してしまって感覚の世界に入ってしまえば、そこで全き自分というものを体験することは可能である。いわゆる陶酔状態であり、没我の状態である。
 多くの場合、自己分裂や自我の不統一、自己疎外に悩まされているのが普段の私たちである。近代社会に生きる私たちである。それゆえ、全体性、たぶんそれは幻想なのだろうが、私たちはそれを希求する。
 知識についても同じようなことがいえる。知れば知るほど知らない部分が見えてきて、全体から遠ざかっていくように思われる。これはソクラテスの「無知の知」がそのはじめである。
 ある人物の全体像を表現しようとする。描いていけばいくほど、不足のところや対立点が現れて全体像がつかみにくくなる。彼、あるいは彼女はいったい何者かという問に、一部または大部を捨てるというわりきりをしなくては何も答えることはできない。
 歴史記述などもその例である。それゆえ、私たちは、それを表した人物が誰であろうとも、一つの歴史記述を、ある切り口から表現された限定的なものと理解する。イデオロギーというバイアスがかかっているという理解である。
 言い方を換えれば、「事実や真実は存在しない」というような物言いにつながる大きな課題である。

 そのような背景を理解してはじめて清岡氏のレトリックに共感できる。

 そう、これはロジックではなくレトリックである。ロジカルにいえば、部分をなくして全体が成立するなどということはあり得ないことである。
 ところが私たちの経験則は、全体は部分の寄せ集めでないことを理解している。それが私たちの「知」である。「本質」などというような言葉がこれに関係する。あるものごとの本質をとらえる、ということがある。けっして事実を集めて分析的にものごとを把握するのではない。鋭い精神の力で大胆に本質をとらえるのである。
 この「本質」という言葉は、決してロジカルな言葉でない。「○○の本質は××だ」という命題は、価値観を共有できるものの間でのみ通用する。このような物言いでは決して他人を説得できることはない。
 レトリックであるから、共通する集団内では、非常な共感をうむ。その集団とは、「全体性」の欠落に悩み、「全体性」を希求する人々、何らかの理由で「全体性」について関心を持っている人々である。

 ビーナスについて語られた、「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄である」は「全体(性)」の特質をついた言葉として理解できる。
 「全体(性)」は部分を集めるのではなく、部分の欠落によって得られるという「真実」に基づいた表現である。

 作者は次に、「ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。実感なのだ。」という。
 「全体性」という言葉は、実体がなく、言葉が先行している観念的な、抽象的な言葉である。作者の表現はレトリックであるのは確かである。作者がここで言っているのは、今自分が表現していることはレトリックによる逆説の観念遊びではなく、実感だということである。

 「全体性」は逆説でしか成立しない、のである。

三次元の世界を楽しむ

2011年11月13日 | 文学・国語教材
「『未成熟』が人間を作った」  山極寿一 (東京書籍 新編現代文)

 生物進化学の「ネオテニー」という概念を紹介しながら、人間文化の在り方を逆説的に表現しようとした、言い換えれば、それだけの文章である。具体例が少ないので味気ない文章である。
 この教材の第三段落は次のようになっている。

「では、成熟を拒否し、未成熟の状態を延長させることによって人間は何を手に入れたのか。それは一口に言って、多様性と許容力を増大させたことだろう。今の人間と類人猿の能力を比べると、力や敏捷性では人間はとても類人猿にかなわない。だが、さまざまな能力を併せ持つという点でははるかに類人猿をしのいでいる。例えば、人間は握力は弱いが手は器用だ。手で枝にぶら下がったり木をへし折ったりする必要があまりないので、自在に動く指を進化させたのである。しかも、ぶら下がる能力も失ったわけではなく、このおかげで三次元の世界を楽しむことができる。類人猿は腕が長すぎて泳げないが、人間は足が長く、カエルのように水をけって泳ぐことができる。これも特殊な形態やプロポーションを発達させなかったために、類人猿の持つ能力の上に別の能力を加えられた例だろう。人間は特殊な際立った能力をあえて発達させずに、多様なことに対処できる一般的な能力を保持することによって進化したのである。」

 この部分で、「三次元の世界を楽しむ」とはどんな意味だろうか?

 類人猿(特にオランウータン)のように木から木へ渡り歩いたり、飛び移ったりしないけれど、失っていない「ぶら下がる能力」=「手の力」を使って木に登っていけるということではないか。地上という二次元の世界から、自分の膂力と握力で三次元に展開する木に登るということであろう。それを三次元を楽しむ、と表現した。

 教科書の編集者は、ここを大事と思ったのか、脚注で「『三次元の世界を楽しむ』とは、どういうことか。」と問題設定している。

 教師用の「指導書」と呼ばれている本に、
「木にぶら下がる能力」→「枝にぶら下がって、空中から地上の風景・景色を立体的に見ることができる」とある。

 何と、「楽しむ」とは枝にぶら下がって「下を眺めること」。何とも楽しいことではないか! びっくりである。
 きっと、この執筆者は木登りをしたことがないのであろう。小学校の時、猿のように雲梯(ウンテイ)を渡るということしなかったのか? ちょっと手の長い子どもが、得意げに一つ飛ばしに渡っていく姿を見ていないのか?

 「ぶら下がる」は一つの例話で、ここから、オランウータンが木を渡っていく場面を想像しなかったのか? いったい、どこの世界に「木にぶら下がって地上を眺める喜び」を味わうものがいるというのだろうか?

 教科書会社は何人かで、脚注を考えたり、指導書の中身を点検しているはずである。複数の人がこの程度のところ読み違えるとは信じられない。一体、どういうことだろう?
 そもそも、地上の風景を立体的に眺めて楽しむだけなら、高いところへ登ればいいのである。東京タワー、スカイツリー、大阪なら通天閣。観覧車でもずっと高いところから眺めるとことはできる。
 それとも、どこかのビルの屋上で、フェンスにぶら下がって、命の危険と引き替えにスリルを味わっている人の姿を想像したのだろうか?

『とんかつ』雑感

2011年10月21日 | 文学・国語教材
三浦哲朗氏の『とんかつ』はなかなかおもしろい。

父親の交通事故で、高校への進学から永平寺への入門を決意する少年。その15歳の少年の成長を願い、応援する母と宿の女将。一年後の再会で、すっかりたくましくなった少年の再登場。みんなの希望と望みは達せられるのである。
ほんの数ページの短編で、三浦哲朗の腕がさえる。
「これまでに一番厚いとんかつ」だとか、「じっくりあげる」だとか、「お母さんの皿は空で」とか、母が言い切る前に、「わかりやした」と女将さんが答えるところとか。
母親の登場も、半分連れ込み旅館として経営している宿にとっても少し年齢がアンバランスで、オヤッと思わせるなど、遊び心も効いている。

まあ、読解力のあまりない先生と生徒の間なら、このような「心の交流」や作者の「遊び」を中心に読んでいけば、「わかった」という一つの感動はある。

ところで、少年の成長は当然と言えば当然で、言ってしまえば当たり前の感動。そうだね、よかったねと言えばおしまい。

この作品で、やはり読み取るべきは、母親の「変化」である。
明日子どもが入山するという前日、母親女将とのやりとり。

けれども、ここの大本山での修業は峻烈を極めると聞いている。果たしてこの幼い少年に耐えられるだろうかと、他人事ながらはらはらして、
 「でも……お母さんとしてはなにかとご心配でしょうねえ。」
というと、
 「なに、こう見えても芯の強い子ですからに、なんとかこらえてくれましょう。父親も見守ってくれてます。」
 母親は珍しく力んだ口調で、息子にも、自分にもいい聞かせるようにそういった。
……(略)
ゆくゆくは高校からしかるべき大学へ進学させるつもりだったが、もはやそんな悠長なことはいっていられない。十五で修行に出すのはかわいそうだが、仕方がなかった。
 自分は明日、息子が入門するのを見届けたら、すぐ帰郷する。入門後は百日面会はできないというが、里心がつくといけないから面会などせずに、郷里で寺を守りながら、息子がおよそ五年間の修行を終えて帰ってくるのを待つつもりでいる……。


そして一年後、母親が現れる。

 それから一年近くたった翌年の二月、母親だけが一人でひょっこり訪ねてきた。面会などしないと強気でいても、やはり、いちど顔を見ずにはいられなくなったのだろうと思ったが、そうではなかった。修行中の息子が、雪作務のとき僧坊の屋根から雪と一緒に転落し、右脚を骨折して、いまは市内の病院に入院しているのだという。
 「もう歩けるふうでやんすが、どういうことになっているやらと思いましてなあ。」
 相変わらず地味な和装の、小鬢に白いものが目につくようになった母親は、決して面会ではなく、ただちょっと見舞いにきただけだといった。


この部分の「決して面会ではなく、ただちょっと見舞いにきただけだ」という母親のことばを、どれだけ、素直に、ことば通りに受け取れるかである。宿の女将さんはちゃんと理解した。

母親は、子どもと出会っても「大丈夫」という確信を、何らかの方法、例えば子どもとの手紙のやりとりで、「あの子は出会っても大丈夫」と得たのである。同時に、自分に対しても「自分ももう出会っても大丈夫」という確信を得たのである。だから、会うことができたのである。
そして、会いにやってきたのは、けがをして入院しているのだから、文字通り「見舞い」であり、もう歩けるようになっている状態だから、「ただちょっと見舞い」なのである。

ここを母親のごまかしと捉えたり、どうなっているのだろう?などと思っていると、作者と読者の共感はない。このような、母親の心の変化が理解できるかどうかが、人間の心の機微を理解できるかどうか、ということであろう。

ここは女将さんからの視点であり、女将さんが母親にだまされているのだったら?という疑問はためにする議論である。この小説で女将さんの視点は作者の視点であり、作者はこの小説で、読者をだましてやろうという気はないのである。

久しぶりの『山月記』

2011年07月07日 | 文学・国語教材
以前は毎年のように扱っていた『山月記』、今年久しぶりに取り上げた。

時間が足りない。
何しろ、言葉が難しい。いや、楽しい。例えば「危惧」「恐懼」「刻苦」、、
「巧拙」なんて言葉を見れば、10分やそこらあれこれ言いたくなる。
「卓逸」もそう。「卓」は「すぐれる」、「逸」も「すぐれる」。これは10分では済まない。

国語の魅力の一つは「言葉」の蓄積。熟語としての広がりという点ではネットワークと言ってもよい。


念のため指導書を確認していたら、「友」「故人(とも)」の使い分けについての記述に遭遇。一読、びっくり。

中島敦のテキストで、李徴と袁※(エンサン)が出会う場面。李徴は虎になっている。そこで、エンサンが「わが友李徴子」と言い、李徴は「故人に会うことができ…」と使う。

指導書の執筆者も漢文で使う「故人(コジン・古なじみ)」の意味を一応は知っていて(国語教師なら当然か)、その上で、中島の用語の使用法について自分の考えをかっこよく披瀝する。
「李徴は虎に変身してしまっているので、エンサンとの関係は、過去のもの。過去の友人と言う意味で「故人」を使っていると。」こんな趣旨。そこに李徴の絶望を読み取る。

この教科書を使っている国語教師のどれほどが、この説明に理解を示すのだろう?また、どれほどが異議を唱えるのだろう?
納得のいかないところは、しっかり自分で検討しないといけない。

こんなもの、李徴が「古くからの友」の意味で使っているのに決まっている。それに対してエンサンは「わが友」という呼びかけの言葉である。「わが故人(とも)」なんて用例がないということであろう。有名な王維の「西のかた陽関を出づれば故人なからん」は、「安西に行ってしまえば、新しい友はできるかもしれないが、以前から親しんでいた古い友人はもういないよ」という意味。


「古くからの友人」というのと「過去の友人」というのでは大違い。
まさに、趣味的な解釈というべきである。
それにしても教科書会社のチェック態勢はどうなっているのだろう?


「ミロのヴィーナス」のおもしろさ(1)

2010年12月04日 | 文学・国語教材
清岡卓行氏の「ミロのヴィーナス」(『手の変幻』より)はおもしろい教材だ。「手を失っているからこそ美しい」という筆者の論に必ずしも同意しない人もあるかもしれない。しかし、読んでいるとそうかも知れない、そうに違いないと思えてくる。筆者の筆力である。
それに、学び考える要素がたくさんある。その意味でも、魅力的な作品である。

この作品を理解するための学びのレベルがいくつかある。

1 語句のレベル
2 修辞・表現のレベル
3 主題・テーマのレベル

授業で扱うのはこの3つのレベルであろう。

第一段落より
1 語句のレベル
・魅惑…魅力とのニュアンスの差、「惑」の使い方
・あずかりしらぬ…意味、「与る」の使い方
・生ぐさい…用例
・巧まざる…意味
・具象…「具」・「象」の意味、使い方、具体・抽象との関係
・放棄…意味
・全体性…意味・使い方、この場面での意味
・逆説…意味、思考としての「逆説」
・弄する…使い方
・高雅…意味
・豊満…意味
・典型…意味
・魔(均整の魔)…意味・用法

2 修辞・表現のレベル
・うまく忘れてきた
・無意識的に隠してきた
・国境を渡る、時代を超える
・特殊から普遍への(巧まざる)跳躍
・部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫
・高雅と豊満の驚くべき合致
・神秘的な雰囲気
・生命の多様な可能性の夢
・存在すべき無数の美しい腕への暗示という心象的な表現

3 主題・テーマ
・ミロのヴィーナスが魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかった。
・腕を失うことによって、特殊から普遍へ跳躍
・部分的な具象の放棄による全体性への肉迫


三段落構成だから、文章全体ではさらに増える。国語教師を何年かしていると、いろいろ言いたいことが浮かんできてウズウズする。この気持ち、生徒諸君に伝わるだろうか。

久しぶりに 『こころ』雑感

2010年12月01日 | 文学・国語教材
ふと今年、考えたこと。

Kが「私」を散歩に連れ出して、理想と現実に迷う自分に公平な批評を求めたところがある。
「私」はここで「精神的に向上心のないものはばかだ。」と言い放って理想から外れているKを攻撃する。授業で取り扱う山場の一つである。

その直前である。引用すると、
「そうして退こうと思えば退けるのかと彼にききました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰まりました。彼はただ苦しいと言っただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇ききった顔の上に慈雨のごとく注いでやったか分かりません。私はそのくらいの美しい同情をもって生まれてきた人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。」

この場面、同情のあるはずの「私」が恋であらそうゆえに、無慈悲な人間になる。そのため、「彼に都合のいい返事」ができないことになっている。

ここで、「彼に都合のいい返事」とは「恋は人の道にはずれていない。恋と道の両方を求めることは可能だよ」というようなものだろう。要するにKの内なる恋と道の対立関係を解いてやることである。
一般論としては可能である。しかし、この場面では、「恋」はお嬢さんへの恋である。
Kが、万が一私の慈悲ある助言によって「お嬢さんへの恋」に進んでいたらどうなっていただろうか?
以前にも書いたが、お嬢さんにとってKは、「自分のフィアンセになるべき人の大切な友人」である。その人から恋を告白されたとしても、傷つけないように断るのが精々である。

それこそKにとって恥の上塗り、二重の屈辱ではないか。

「私」は確かに嫉妬してるところがある。しかし、下宿3年の経過からお嬢さんの気持ちがわからないはずがない。Kへの嫉妬は一時の感情である(と私には読める)。 とすれば、もし「私」がKの恋を肯定するような発言をしていれば、それこそ、悪意を持ってKを欺くことになり、その苦悩は、「ばかだ」発言や「出し抜いた求婚」の比ではない。

一方にあるのは、自分可愛さの利己心であり、他方にあるのは、悪意のある侮辱である。どちらが人間として恥ずべきことか?

それゆえ「彼に都合のいい返事」など存在しない。「私」のエゴイズムを描かんがために想定されているフィクションと考える。
いかがであろう。

教材としての『羅生門』(4)

2010年06月05日 | 文学・国語教材
②心理の合理的な理解

c 楼の上
 この段落では、因果の連環がどんどん進行する。

悪への激しい憎悪

楼の上に跳び上がって老婆を捕まえる
 ↓
取り押さえられ、わななく老婆
 ↓
老婆の生死が全然自分の意志に支配されていることを意識
 ↓
憎悪の気持ちがさめる
ある仕事が成就したときの安らかな満足と得意
 ↓
髪の毛を抜いていた理由を尋ねる
 ↓
「かつらにする」という平凡な答え
 ↓
平凡な答えに失望
前の憎悪と冷ややかな侮蔑
 ↓
老婆に下人の気色(けしき)が通じる
老婆、言い訳
 ↓
下人、ある勇気


ここは単純な構図でわかりやすい。生徒にまとめさせるのも有効である。どの程度簡潔にまとめるか、それがポイントとなる。老婆と下人を上下に分けるとか、上の段には下人の行動と老婆の反応をまとめ、下の段は下人の心理をだけにするなど、工夫が期待できる。


理解の点では、「この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した」の部分。読み慣れていない生徒には、主語を下人に変えて言い換えさせるとわかりやすい。

さて、この部分、下人の立場から、「老婆の生死」を主語にして表現している。翻訳調と言ってしまえばそれまでだが、芥川の狙いは何か? 普通なら、「自分の意志が老婆の生死を握っているということに気づいた」とか、「自分の考え次第で老婆の生死が自由になるという意識」とでも表現するところである。「老婆の生死」を主語にするほど下人に老婆の生死への関心があったとは思えない。

「主体者としての下人」を極力排除しようとしているのか。そう考えると、それまでの下人の心理も、状況に流されて変化する受け身的なものである。極度の恐怖にとらわれながらも、なぜか「好奇心」に引きずられて老婆を発見し憎悪を燃え上がらせるが、そこだけは、下人の不思議な自分からの行動であるが、それ以外は、状況に正直に反応する心理が描かれている。最後の老婆の話を聞いて盗人になる勇気を手に入れる場面も、考えてみれば受け身的である。

教材としての『羅生門』(3)

2010年06月02日 | 文学・国語教材
1『羅生門』で何を学ぶ

②心理の合理的な理解

b はしご段

因…天井裏に映る火の光
果…上に誰かいる。ただの者ではない。
因…屍骸の腐乱した臭気
果…思わず鼻を覆う。
因…屍骸の中にうずくまる老婆
果…「ある強い感情」…「六分の恐怖と四分の好奇心」
因…老婆、女の屍骸から髪の毛を抜く
果…恐怖、消えていく
  老婆に対する激しい憎悪

 この場面、作者は下人の心理状態(悪への憎悪)について、二つ注釈をしている。

注1は
「いや、この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感が、一分毎に強さを増して來たのである。この時、誰かがこの下人に、さつき門の下でこの男が考へてゐた、饑死をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。それほど、この男の惡を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のやうに、勢よく燃え上り出してゐたのである。
 
羅生門の下では、「悪を積極的に肯定する勇気」がなかったのである。悪を否定していたのではない。この場面で、老婆の悪に触れることによって、「悪を憎む心」(これは「正義感」といってもよい)が生じたのである。下人は、自らについて「飢え死に」を選んでいるのではない。そんなことより、目の前の老婆の「悪」が許せない。読んでいるものは、つい芥川の言葉に引きずられて、下人が「飢え死に」を選んだかのような錯覚をしてしまう。芥川の巧妙さである。

ここで、注2が置かれる。下人の、「悪の判断がいかなるものか」ということの注である。

「下人には、勿論、何故老婆が死人の髮の毛を拔くかわからなかつた。從つて、合理的には、それを善惡の何れに片づけてよいか知らなかつた。しかし下人にとつては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髮の毛を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許す可らざる惡であつた。勿論、下人は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである。」

下人は、老婆が髪の毛を抜く理由に基づいて合理的に判断したのではなく、事実そのものによって、絶対的な判断を下したということである。合理的な判断と違って、感情的・感覚的な判断は絶対的な判断である故、激しいけれど、何かのことで「変わる」ということも芥川にとっては基本的な人間認識なのである。この場面についても、下人の判断が「感覚的・感情的」な判断であることを指摘することは多いが、「変わりやすさ」を担保していることにふれている注釈は見たことがない。(私の不勉強?)
また、ここは「合理(的)」という言葉を教える絶好の機会でもある。

ちなみに、「この雨の夜に、この羅生門の上で」というのは、老婆の髪の毛を抜く状況を形容しているのではなく、下人のサンチマンタリスム的状況を表現したものと理解する。「雨の夜」でなく、「羅生門の上」でなければ、下人は、はじめから老婆に理由を聞くなどの「余裕」があったと思われる。ところが、いたくサンチマンタリスムに侵されていた下人は、はげしく正義感に揺さぶられるのである。

教材としての『羅生門』(2)

2010年06月01日 | 文学・国語教材
1『羅生門』で何を学ぶ(2)

前回の補足

 漢字のレベルでいえば、芥川の「芥」。この漢字も意識しないと「茶」と区別しない生徒がいる。作者名を漢字で答えさせると、何人かは「茶川」と書く。
 また、この「芥」が「ちりやゴミ」というあまりきれいとは言えない意味であることも、ペンネームとしては納得いかないところである。「ちり、あくた」という連語(?)で理解させるとよい。
 また、龍之介の「龍」。右の下が3本ある。パソコンの時代に2本でも3本でもあまり気にならないが、採点となると拘ってしまう。


本文の読解でもっとも注意させるのは下人の心理の合理的な理解である。下人の心理の変化である。

②心理の合理的な理解
理知派たる芥川の面目は、下人の心理描写にある。因-果の法則で「こころ」をとらえる。その因と果をしっかり読解させる。

a 羅生門の下
主人から暇を出されて、行き所がなくなっている下人は、「明日の暮らしをどうにかしよう」と考える。何とか生きる手段を見つけようとするのである。
芥川は、人間の心理を合理的にとらえるために曖昧な要素を排除する。「明日の暮らし」は「どうにもならないこと」と設定される。現実問題なら、「難しい」とは言い得ても、「どうにもならない」と、可能性が100%閉ざされることはない。この芥川の条件設定のため、下人には「飢え死にするか」「盗人になるか」の二者択一しか残されていないことになる。
この条件があるため、「どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない」と、手段の選びようがないことが、あっさり書かれる。

ここまで読むだけで、芥川は、人間の現実を描こうとしたのではなく、ある条件下での、ドラマチックな人間心理の変化を描こうとしていることがわかる。

「選んでいれば、飢え死にして犬のように捨てられる」。しかし、悪をなす勇気のない下人は、ここで逡巡、低回する。「方法はないな」「死にたくないな」「明日のことを何とかしなければ…」。
そして、やっと、「選ばないすれば」と、手段を選ばないことを想定する。
芥川は、「何度も同じ道を低回したあげくに、やっとこの局所に逢着した」と書いている。ここに至るまで時間がかかっている。
そして、
「しかしこの『すれば』は、いつまでたっても、結局『すれば』であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この『すれば』のかたをつけるために、当然、その後に来る可き『盗人(ぬすびと)になるよりほかに仕方がない』と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。」

まるで、手に取るように下人のこころを規定する。

事実としては、おそらくはそれ以前にも、「盗人」のことは心に浮かんでいたであろう。しかし、浮かんではすぐに、選択肢としては排除されていたに違いない。芥川によれば、何度も低回したあげく、やっと「手段を選ばない」ことを肯定する。そして思う。「(明日の暮らしをどうにかするには、)盗人になるより他にしかたがない。(でも、それはできないな、いやだなあ)」と。いやな気持ちを押し切って「積極的に肯定するだけの勇気」がでなかったのである。「いつまでたっても」とあるから、何度も何度も、とりとめなく考えていたのであろう。


ところで、ここで別の視点から。
下人の思考は、二つの過程(時間)に分かれる。何度も同じ道を低回していた時間(A)。「手段を選ばないとすれば、」と「盗人になる」ことを思いついてからの時間(B)。こういうとき、人間は決断できないまま時間を浪費する。AとBを合わせると、相当の時間になってもおかしくない。

下人はいつから、羅生門の下にいたのか。 テキストでは「雨に降りこめられた下人」が「雨やみ」を待っていたのである。「申(さる=午後四時)の刻下がりからふりだした雨」、とある。普通に読めば、羅生門の近所にいた下人が、雨が降り出したので、雨やみのために羅生門の下に駆け込んだということであろう。
そして、夕闇が迫ってきて、寒くなってきたので、そして、考えることに疲れて、一晩夜を明かそうと考えるのである。「夕冷えのする京都」とある。まだ、夜になりきっていない。冬に近い季節で、秋の終わりが適当か。秋分もとっくに過ぎている時期で、五時頃にはもう暗くなる。ということは、羅生門の下に駆け込んで、1時間もたっていない!

生きるか、死ぬかという大事な問題である。一時間程度の迷いは、問題の重要さに比してそれほど長い時間ではない。ちょっと芥川にだまされている気分である。