太宰の『富嶽百景』
もし、高校の教科書に太宰から選ぶとすれば、『富嶽百景』は妥当な作品といえる。
読んでいて、あまり違和感はない。
その第三段落
「富士には月見草がよく似合う」の場面。
河口村からのバス。他の乗客と違って主人公の気を惹く「老婆」がいた。
今まで、特に何も感じることなくこの部分を読んでいた。
本文。
「私のすぐ隣に、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと座っていて、・・」
六十と言えば、今の私。もしこの人物が男なら、
「私のすぐ隣に、薄い茶色の帽子をかぶった、高く品のよい鼻を持った、六十歳くらい、私の父とよく似た老爺がしゃんと座っていて、・・」となるのだろうか。
太宰がこの作品を書いたのが昭和13年。
そのころは60歳で老婆、老爺と呼んで違和感がなかったのであろう。
現代の感覚で言えば、70歳と言うべきであろう。70歳でも、少し失礼かもしれない。
この老婆がかっこいい。頭の中で70歳くらいの夫人に置き換えて、気持ちよく心に描くことができる。
次に出てくる「高尚な虚無の心」。太宰の他の作品と違って、これも素直に受け入れられる。
そもそも「老婆」という言葉が現代にマッチしないのかも知れない。
身が縮んで小さくなり、しわが寄り、老人くさい服を着て、身をかがめている。そして、頼るべき身寄りもいない。
まさに『羅生門』に出てくる「老婆」である。マイナスイメージの塊である。