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国語教員の独り言

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「ミロのヴィーナス」のおもしろさ(2)「ある全体性」

2012年09月05日 | 文学・国語教材
第一段落 つづき

 この段落で、最もおもしろく興味深い表現は「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄である」という部分であろう。
「部分的な具象」とはビーナスの腕の部分をさす。「放棄」というからには、執着しなかったということであり、ある意味、自分から意図したことでないことを示している。
 その結果、偶然「ある全体性」に肉薄したというのである。「肉薄」であるから、完全な獲得ではない。限りなく近づいたということである。

ここで問題は次の二つ。
1、「全体性(への肉薄)」という言葉にどの程度の魅力を感じるか、感じることができるかどうか。
2、「ある全体性」の「ある」とされている理由について、思いが及ぶかどうか。

1、について
 人は、100%の自分というものを実感することはほとんどない。理性を没してしまって感覚の世界に入ってしまえば、そこで全き自分というものを体験することは可能である。いわゆる陶酔状態であり、没我の状態である。
 多くの場合、自己分裂や自我の不統一、自己疎外に悩まされているのが普段の私たちである。近代社会に生きる私たちである。それゆえ、全体性、たぶんそれは幻想なのだろうが、私たちはそれを希求する。
 知識についても同じようなことがいえる。知れば知るほど知らない部分が見えてきて、全体から遠ざかっていくように思われる。これはソクラテスの「無知の知」がそのはじめである。
 ある人物の全体像を表現しようとする。描いていけばいくほど、不足のところや対立点が現れて全体像がつかみにくくなる。彼、あるいは彼女はいったい何者かという問に、一部または大部を捨てるというわりきりをしなくては何も答えることはできない。
 歴史記述などもその例である。それゆえ、私たちは、それを表した人物が誰であろうとも、一つの歴史記述を、ある切り口から表現された限定的なものと理解する。イデオロギーというバイアスがかかっているという理解である。
 言い方を換えれば、「事実や真実は存在しない」というような物言いにつながる大きな課題である。

 そのような背景を理解してはじめて清岡氏のレトリックに共感できる。

 そう、これはロジックではなくレトリックである。ロジカルにいえば、部分をなくして全体が成立するなどということはあり得ないことである。
 ところが私たちの経験則は、全体は部分の寄せ集めでないことを理解している。それが私たちの「知」である。「本質」などというような言葉がこれに関係する。あるものごとの本質をとらえる、ということがある。けっして事実を集めて分析的にものごとを把握するのではない。鋭い精神の力で大胆に本質をとらえるのである。
 この「本質」という言葉は、決してロジカルな言葉でない。「○○の本質は××だ」という命題は、価値観を共有できるものの間でのみ通用する。このような物言いでは決して他人を説得できることはない。
 レトリックであるから、共通する集団内では、非常な共感をうむ。その集団とは、「全体性」の欠落に悩み、「全体性」を希求する人々、何らかの理由で「全体性」について関心を持っている人々である。

 ビーナスについて語られた、「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄である」は「全体(性)」の特質をついた言葉として理解できる。
 「全体(性)」は部分を集めるのではなく、部分の欠落によって得られるという「真実」に基づいた表現である。

 作者は次に、「ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。実感なのだ。」という。
 「全体性」という言葉は、実体がなく、言葉が先行している観念的な、抽象的な言葉である。作者の表現はレトリックであるのは確かである。作者がここで言っているのは、今自分が表現していることはレトリックによる逆説の観念遊びではなく、実感だということである。

 「全体性」は逆説でしか成立しない、のである。

2 コメント

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Unknown (さとう)
2012-10-13 10:02:42
今私は高校2年生で、テスト期間です。
現代文の範囲が丁度ミロのヴィーナスで、
テスト対策のためにするプリントで「偶然の肉迫」と同内容で別の言い方をこれ以前の部分から抜き出せ
という問題があったのですが、その意味自体も分からなかったのでインターネットで調べていて、このHPを見つけました。
とても詳しく分かりやすくかいてあったのでつい沢山読んでしまいました(^v^)
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異論 (kojima)
2014-07-28 13:37:55
最近「ミロのヴィーナス」をやっていたので、偶然辿り着いたこの記事に「あれあれ」と思ってしまいました。
〈「全体性」という言葉は、実体がなく、言葉が先行している観念的な、抽象的な言葉である。作者の表現はレトリックであるのは確かである。作者がここで言っているのは、今自分が表現していることはレトリックによる逆説の観念遊びではなく、実感だということである。〉
はて、結局「レトリック」なのでしょうか、そうではないのでしょうか?
 作者の言に拠れば「レトリックではない」ということになります。つまり「全体性」とは「部分」の「逆説」によって言葉の上でだけ表現された「実体がな」いものなのではなく、すくなくとも「実感」に裏打ちされた、「ある全体性」であるはずです(もちろん「実体」はありませんが)。
この「全体性」とは、この文中では「生命の多様な可能性」「おびただしい夢をはらんでいる」「生命の変幻自在な輝き」「可能なあらゆる手への夢」と同定すべき観念です。とすれば、「全体」とは「手というものがとりうる様相の可能性の全体」というような意味であり、これはなにも「逆説」というレトリックによって「部分」から導き出されたものではなく、何の「全体」かが読み取れるように書かれたものだと考えられます。
〈「全体(性)」の特質をついた言葉〉〈「全体(性)」は部分を集めるのではなく、部分の欠落によって得られるという「真実」〉などというのは、〈偶然〉という言葉と矛盾しています。「全体性」は、基本的にはやはり「部分」の欠落によって損なわれるものなのです。それが、ミロのヴィーナスの場合はそうではないからこそ「逆説」なのであり、それは単なる「レトリック」ではない、と言っているのです。
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