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国語教員の独り言

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下人はなぜ、楼の上まで上ったのか?

2009年06月06日 | 文学・国語教材
 羅生門の下で、考えに結論のでなかった下人は、楼の上に上るはしごを見つけて、上で寝ようとする。
 本文では、「雨風の憂えのない、人目にかかるおそれのない、一晩楽に寝られそうな所があれば」と思い、羅生門の上については、「人がいたにしても、どうせ死人ばかりである」とある。
 この時の下人は、当時の荒れ果てて人心の乱れた世を背景にして、生きた人間を恐れているのである。後に、「恐怖」の感情が出てくるから、賊のような人間集団を想定して、避けようとしていると思われる。
 それに対して、「死人」には恐怖を感じていない。「どうせ死人ばかり」なのである。親近感までは書かれていないが、当時においても、死を忌避する感情が存在したと思われる。このあたりの下人の心情は想像しがたい。

 芥川の小説は、作者のモチーフが先行して、人物設定、状況設定に無理があることが多い。

 次の場面、楼上の火を認めて、生きた人間を確信し、「ただ者でない」と思いながらさらに上に上っていく。矛盾と言わざるを得ない。
 「恐いもの見たさ」とか「好奇心」を想定して、説明する文が時々ある。
 このような、その場その場で適当な理屈をつける癖ができると、無理な人物設定に対しても超論理で理屈をつけてしまい、正当な読解ができなくなる。
 
 この場面、芥川は下人に老婆を発見させたいのである。盗人になる勇気のなかった下人が老婆の論理によって盗人に跳躍する物語を描きたい芥川にとって、このはしご段を上っていく下人の合理的な説明は不要なのである。不要というよりは、「無理」と感じて、書いていない。
 (芥川は合理的に説明のつくところは、小説と思えないほど書き表す。その一例は明日に)

 この場面は、恐怖を感じて「猫のように」「やもりのように」と、警戒感を身体で表現しているところをおもしろく読めばいいのである。

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