山崎正和氏の有名教材である。掲載されている教科書も5社ほどある。さて、どのように教えられているだろうか?
基本的なことは、鹿おどしと噴水を素材に東洋と西洋の水の鑑賞の仕方、その根底にある精神性の対比を語る文章であるからワカリヤスイ。
ただし、その文章のハイライトで使われている日本人の感性を述べた文、「積極的にかたちなきものを恐れない心」の理解が問題となる。
問題 この感性を、日本人の感性の基本と考えるか、またはその位置付けをどう考えるか。
直前に、仏教的な言葉として、行雲流水という言葉が例示されているからには、相当に日本人の基本的な感性と捉えないと、山崎氏の文章が日本人の感性の一特性を断片的に述べたものということになってしまう。
まず、この確認が重要である。なぜなら、現実に存在する日本人に、「かたちを好む」感性も相当程度に見られるからである。例はたくさんある。日本人は「形式的な」民族とも考えられている。
良心的な教師、まじめな読解を重んじる教師なら、この点の吟味がされていて、授業に反映するはずである。
日本人の感性・価値観に「かたちなきものを恐れないこころ」と「かたちを好むこころ」の両方がある。また、これは日本人限定でなく多くの民族でも共通であろう。ただし、日本において、「かたちなきもの恐れないこころ」は宗教的な場面や美意識、芸能の一部において優勢である、という言い方は成立する。
宗教といっても、仏を目に見える形、多様な仏像に現して信仰の助けにする点、また石の墓を作ったりするのは「かたちを好む」「かたちにたよる」例である。また、美意識といっても、極端に作法を重視したり、切腹して死ぬなどという形式美は、字のとおり、「かたち」が命になる。
このような、一方で、「かたち」を含み込んだ「かたち」なきものへの共感であることをしっかり理解しなければならない。
本来なら、この吟味が授業の中心となるべきなのである。
話を展開する前に、この一文の読みについて述べよう。
「かたちなきものを恐れない心」という文は、「かたちなきものを恐れる心」、これが基本にあってはじめて意味のある文である。そうとわかれば、人間の営みの多くは「かたちなきもの恐れる心」であることに気づく。先ほど仏像や墓、形式美で述べたとおりである。
人間営みの基本が「かたちなきものを恐れる心」で、そんな中で、日本人の宗教観の重要なところ、世界観の重要なところに「かたちなきものを恐れない心」があった!こと、山崎氏の文章はこの主張なのである。「どの程度」という問題ではないのである。
基本的なことは、鹿おどしと噴水を素材に東洋と西洋の水の鑑賞の仕方、その根底にある精神性の対比を語る文章であるからワカリヤスイ。
ただし、その文章のハイライトで使われている日本人の感性を述べた文、「積極的にかたちなきものを恐れない心」の理解が問題となる。
問題 この感性を、日本人の感性の基本と考えるか、またはその位置付けをどう考えるか。
直前に、仏教的な言葉として、行雲流水という言葉が例示されているからには、相当に日本人の基本的な感性と捉えないと、山崎氏の文章が日本人の感性の一特性を断片的に述べたものということになってしまう。
まず、この確認が重要である。なぜなら、現実に存在する日本人に、「かたちを好む」感性も相当程度に見られるからである。例はたくさんある。日本人は「形式的な」民族とも考えられている。
良心的な教師、まじめな読解を重んじる教師なら、この点の吟味がされていて、授業に反映するはずである。
日本人の感性・価値観に「かたちなきものを恐れないこころ」と「かたちを好むこころ」の両方がある。また、これは日本人限定でなく多くの民族でも共通であろう。ただし、日本において、「かたちなきもの恐れないこころ」は宗教的な場面や美意識、芸能の一部において優勢である、という言い方は成立する。
宗教といっても、仏を目に見える形、多様な仏像に現して信仰の助けにする点、また石の墓を作ったりするのは「かたちを好む」「かたちにたよる」例である。また、美意識といっても、極端に作法を重視したり、切腹して死ぬなどという形式美は、字のとおり、「かたち」が命になる。
このような、一方で、「かたち」を含み込んだ「かたち」なきものへの共感であることをしっかり理解しなければならない。
本来なら、この吟味が授業の中心となるべきなのである。
話を展開する前に、この一文の読みについて述べよう。
「かたちなきものを恐れない心」という文は、「かたちなきものを恐れる心」、これが基本にあってはじめて意味のある文である。そうとわかれば、人間の営みの多くは「かたちなきもの恐れる心」であることに気づく。先ほど仏像や墓、形式美で述べたとおりである。
人間営みの基本が「かたちなきものを恐れる心」で、そんな中で、日本人の宗教観の重要なところ、世界観の重要なところに「かたちなきものを恐れない心」があった!こと、山崎氏の文章はこの主張なのである。「どの程度」という問題ではないのである。

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