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国語教員の独り言

日々の思い。国語教材解説。文学。趣味

教材としての『羅生門』(1)

2010年05月27日 | 文学・国語教材
1『羅生門』で何を学ぶ
『羅生門』を教科書に採用することについては疑義があり、特に、エゴイズムの観点から読まれることに反対の意見を持っているのは、今までここで述べてきたとおりである。芥川なら他の作品を取り上げたい、それが一番の理由である。

 しかし、一方で、『羅生門』授業で取り上げて「学ぶ」ことの意味も大きい。
 では、何を学ぶか。何が魅力か。

 ①豊富な言葉である。中学まで貧弱な読書生活しか営んでいない生徒には、漢語・和語、どちらも学ぶべき語句がたくさんある。耳で聞いてすぐ理解できるようになるまで読み込めば、相当の語彙が獲得できる。
 なかでも、「語弊」「成就」「憎悪」「余波」「侮蔑」「暫時」「逢着」「低回」「衰微」などの漢語。
 「高をくくる」「ひととりならず」「暇を出す」などの慣用句。
 「檜皮色(ひわだいろ)」「丹塗り」「頭身の毛も太る」「しゅうねく」などの日本語固有の語や言い回し。

 言葉の宝庫である。

 「往」という漢字、「いぬ」という読みで出てくる。気をつけないと、「住む」と区別していない生徒がいることに気づかない。これは「往復」の「往」で比較的理解が簡単である。
 「すむ」なら「棲む」が出てくる。むかし「同棲」などという言葉がはやって懐かしい漢字である。「棲」は本来、鳥が木の上に作った巣にすむことである。当然、つがいになる。生活・繁殖を含意することになる。
 「丹」(たん)は仁丹の「丹」で、「に」という読みに出会う機会は少ない。「丹」が赤土で、そこから赤色の染料にする。日本各地に「丹生」など「丹」のついた地名は多い。
 「悪」もわれわれ「アク」と読む方が慣れている。「アク」=わるい、「オ」=にくむの読み分けがほぼできている。「嫌悪」「悪寒」「好悪」。
 「語弊」の「弊」も「幣」との違いが面白い。「幣」は神社などに供える布で、引いて「貨幣」となる。「弊害」と意味がまるで違う。
 クラスによっては「肯定」という言葉すら聞き慣れていない生徒が結構いる。用法やそれぞれの漢字の成り立ちにふれ、ボキャブラリーを増やさせる。等々。これだけでも3、4時間はかかる。

 「日の目が見えなくなる」というような語句もある。読んでいれば、自然と「日が落ちて」とか「夜になると」という意味であることが前後関係でわかる。元来、徐々に語を増やしていけば、それほど辞書などに頼らなくても語彙は獲得できるものである。読書はそういう自然な場である。その点で何度も読ますことに意味がある。

 試験で空欄補充の問題が出る。論の展開を見定めて、入れるべき語を探すのだが、何度も読んでいる文章なら、ほとんど覚えているというの実態であろう。教師側からいえば、そのような問題作成を繰り返して、生徒が何度も読む習慣を身につけるように仕組んでいる節もある。もちろん論理的に正解を導き出せるのが狙いであるが、何度も読んだ文章では、あまり有効とは言えない。論理的に正解であることを確認するぐらいである。

ヒキのつぶやき

2010年05月20日 | 文学・国語教材
今年もやはり『羅生門』

テーマとして「極限状況下における人間のエゴイズム」などという見方はいただけないが、芥川の文章はおもしろい。

意識的にであろう、動物・生き物をいっぱい登場させる。楽しんでいるとしか思えない。思いつくままに、きりぎりす、狐狸、からす、犬、やもり、ねこ、猿、ひき。きりぎりすは季節感と時間の経過。狐狸は羅生門の荒れ果てたさま。からすは死人の肉をついばみに来る。犬は捨てられてしまうもの。やもり、ねこ、猿、ひきは老婆を形容するものとして、比喩に使われる。何とも無惨な老婆である。

第三段落に入って、下人に捕らえられた老婆は、下人の質問に、鴉の鳴くような声で喘ぎ喘ぎ、言う。
「かつらにしようとおもうたのじゃ」

その平凡な答えに下人が失望し、「先の憎悪と冷ややかな侮蔑」が生まれてきたことに気づいた老婆は、今度は、ひきのつぶやくような声でくちごもりながら言う。
「成程な、死人(しびと)の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。…」

どれほどの教室で、鴉の喘ぎ喘ぎの声やひきのつぶやくような、それもくちごもりの声を再現しようとしているであろうか。実際にやらなくても、どれほど想像させているだろうか?
『羅生門』で人間の根本的な善悪何ぞを論じようとしたら、こんな劇画チックな物まねで遊んでいる余裕はない。世の中は「まじめ」なのである。

ところで、実際にやろうとすると、これがなかなか難しい。

先日の教室での体験だが、「ひき」と言われても、その姿を想像できない生徒がっけこういる。皮膚のイボから油(?)を流している様と老婆を重ねることによって、老婆の焦りも少しは理解できる。そのヒキが思い浮かばなくては、何とも乾いた、脂っ気のない老婆の論理である。

ひきの声が口ごもるのは、悪を正当化して言うほどの論理を老婆は持ち得ていないからである。老婆はあわてているのである。何とか、下人の憎悪を和らげねばならない。しかし、弱者の立場で生きるしか方法のない老婆にあっては、女の髪の毛を抜くのは、論理などではなく、自然な生きる姿なのである。

それが、下人の「悪への憎悪」に直面して、あわてて論理化するのである。
慣れないこと、思いがけないことを言わねばならないのだから、考えながら口ごもって言うしかない。

だから、老婆がまずはじめに言うのは、この女も悪いことをしているから、この女に対しては悪をなしてもいいという通俗的な、因果応報的な、悪の正当化である。
わかりやすい論理である。老婆にとって、思いつきやすいのである。そして、生徒にとっても、いや、生徒だけでなくわれわれ大人も、普段、つい使っている日常の感覚である。
「こいつの方が先に手を出した」。よく聞くではないか。

その後は、芥川の真骨頂である。飢え死にしないためには、悪は正当化されると、純粋論理を提供する。ただし、老婆の口から出るのは、「悪いこととは思わぬぞよ」という、日常的な言い回しである。
芥川にとって、この悪の正当化の論理は、老婆的な世界、動物的な世界、あるいは、生物的な世界として理解されているのではないか。理屈以前に、「生きる」「生きていく」世界として描いていると思うのである。
下人の状況が、「飢え死にするか、盗人になるか」という二者択一の状況で、老婆の論理を借りて(=生きる姿を見て)、やっと「生」を見つけたのである。
そういう物語であると思う。

教材はどう選ぶ?

2010年04月08日 | 文学・国語教材
何年も高校教師をしていると、だんだん自分流というものが出てくる。その一つが、教材選びである。
国語の場合、特に現代文の場合、授業で取り上げるのは教科書掲載作品のうち約半分。時には三分の一程度である。量は、クラスの実態によってかわる。生徒の消化能力に合わしていく。
そもそも一つの単元ごとに、2~3の教材が採られている。それぞれの学校で話し合って、教師の「好み」でそのうちの一作品を選ぶのである。
当然のこと、「全部」を教えるようにはなっていない。

問題は、このときの「好み」である。
私が経験してる中で、本当の意味での「好み」を追求してるケースは少ない。多くは、「これが定番だから」「去年も教えているから」等々の理由である。

私にとって「好み」は、自分の「好み」=「おもしろい」=「この感動を生徒に味わわせたい」という構図である。「おもしろい」と思うのは、そこに発見があったり、感動が共有できるときである。

一例は井上ひさし氏の『ナイン』である。三浦哲朗氏の『とんかつ』もそうである。発見とか人間的な感動というのとは少し違うが、安心して読める。私が言うのも気が引けるが、高校生が読むのに文章として「うまい」。巧みである。充分「おもしろい」と思うのである。そして、高校生にある部分を読み取らせたいという気になる。そういう作品を私は選ぶ。
正確に言えば、「できるだけ」選ぶ。

そして、羅生門は不本意ながら選んでいる。
選べるなら、『鼻』を、『奉教人の死』を、『枯野抄』を、『ハンケチ』を、『芋粥』を、その他その他を選びたいのである。いっそ、少年ものになるが『蜘蛛の糸』や『杜子春』でもいいと思う。

『羅生門』を黒沢が『藪の中』の象徴的タイトルとして使ったように、平安時代の不安を表現するものとして「象徴的」に読むならそれでいいのである。あるいは現代人の弱さの戯画として読むならいいのである。それなら「おもしろい」。ところが、そうはなっていない。




納得できない先生の死

2009年08月26日 | 文学・国語教材
何度読んでも納得できない先生の死。

漱石も先生の口を借りていろいろ書いている。
時代が違うからあなた(「私」)には理解できないでしょう、とか、時代の差のせいにするのは気が引けたのか、「個人の持って生まれた性格の相違」とも言っている。いくら「明治の精神に殉死する」と言っても、多くの人間の納得が得られないのは、漱石も予期していたのではないか?

それとも、人間は反省することが大事で、それも自己否定に至るほどの反省が大事で、自殺の動機の正当性・合理性なんか問題にならないのであろうか?

そうして読んでいくと、気になるところがある。先生が自殺を決意した場面である。

先生が、明治天皇が死んでは、明治の精神に影響を受けた自分のような人間が生き残るのは「畢竟時勢遅れ」と言うと、奥さんは初めは取り合わなかったのが、何を思ったか突然、「では殉死でもしたらよかろう」とからかう。先生はその「殉死」という言葉に惹かれる。そして「明治の精神に殉死する」という言葉が成立する。
一ヶ月後、乃木の殉死があり、先生も死を決意する。

それまで、妻を思って「死んだつもりで生きてきた」のが、一歩踏みだしてしまう。
この時の決意が、妻の口にした「殉死」からスタートしているのは明らか。これこそ、漱石と先生の共同謀議ではないか。自死の理由付けを与えたのはあなたですよと、妻への裏切りを緩和させる。
ある意味、Kを出し抜いたのよりもっと質が悪い。これでは、奥さんは浮かばれない。よくもこん設定、女性の読者が黙っているものだ。

それとも、意見・異議をお持ちであろうか?

Kの死、Kの遺書

2009年08月20日 | 文学・国語教材
前回、「残されていたKの遺書」の設定で、自殺の時のKの心境が少しは見えてくると提案した。
また、Kの血をほとばしらせての死に方に違和感を感じる旨も書いた。頸動脈を切って部屋中に血をまき散らすなんて、私には合理的に解釈できない。まるで義憤にかられたような悲壮さでないか?漱石の意図は?

先生がKの残された遺書を見て、自分を責める言葉がないのに安堵するとともに、お嬢さんの名前がないことに、「Kがわざと回避したのだと気が付きました」とある。
Kはわざと回避したのか?先生はどうして「わざと回避した」などとKの心理が読めたのか?
先生はKの心理を理解していない。当初は、失恋からまた先生から出し抜かれたから自殺したと考えているが、後の章段で、そうではないと考えるようになる。先生はKの心理をわかっているわけではない。
その意味では、「Kがわざと回避したのだと思いました」ではないか。これなら、その時の先生の推測だとわかる。
「わざと回避する」以前に、Kにはお嬢さんへのメッセージなど残しようがない。勝手に横恋慕して先生を悩ませ、かつ、お嬢さんの心にほとんど何も残すところない恋である。せいぜい、「お世話になりました。さようなら。」であろう。「わざと」と言うほどの内容はない。
この辺の書き方も疑問である。

遺書の最後には、「もっと早く死ぬべきだのに何故今迄生きていたのだろう」とある。ここの解釈はどうなのか?
私の解釈は、「それまでの生き方に挫折してはもう死ぬしかなかったのに、お嬢さんへの恋心がこの間Kを生き延びさせた」という理解。そのことをぼかして疑問形で表現した。先生へのメッセージではないか。疑問形で表現することで、他の人にはお嬢さんへの恋を秘めたままで先生には理解してもらうことができる。先生が「尤も痛切に感じた」のも当然である。
それなら、Kの自殺に先生は責任があるということなのか?
これはノーであろう。
確かに先生の態度でKの自殺を先に延ばすことは可能だったかもしれない。しかしそれは時間の問題。また、Kが自己批判をするに至って生の方向を転換すれば、生き延びることはできるかもしれない。しかしこれならKはバラバラな、支離滅裂な人間になってしまう。それもKには酷いことである。
その意味では、Kは死なねばならない。

それを、先生の責任にするなら、あえて比喩で語れば、現在の北朝鮮の態度も周りの国々のせい、戦前の日本の行動も周りの国々せい、ということと同じでないか。
かえってインモラルになると思う。

「残されていたKの遺書」

2009年08月12日 | 文学・国語教材
教科書掲載部分を読むと、先生が裏切ったことによりKが自殺した、と読むこともできる。

先生が謝罪等の何らかの行動をすることによって、意外な発展でKのこころが動かされてKが自殺を取りやめることはあり得たであろう。それは可能性である。

しかし、Kの自死を選んだ理由は、先生に裏切られたためではない。江藤淳の自己諫死などという説もあるが、それは、読み手によって変わってくる。
ここで問題にしたいのは、①Kの自殺の理由が先生の行動の所為でない、ということ。また、②先生の罪悪感がKの自死を招いたことから来るように読めてしまうこと。この二点である。

①のKの自殺の原因に関しては、「残されていたKの遺書」を作ることである。原文での遺書はごく簡単に、「自分は薄志弱行で生きていけない。迷惑をかけてすまない」程度のことである。この遺書とは別に、先生以外の読者を想定しない、もう一つの先生を対象とした個人的な遺書が残されていたらどんな内容か、というものである。当然、いろいろな迷惑をかけるし、先生とお嬢さんの婚約を知らされた後であるから、自分の行動の反省もあるはずで、先生相手に丁寧な遺書を残すことは当然あり得ることである。

さて、その内容をいかにするか。これはKという人物の解読・造型、先生との関係の推定等、読解力・想像力・創作力が試される内容である。

先生とお嬢さんの婚約を知ったときの心境は、おそらく痛烈な自己反省であろう。冷静に考えれば明らかな先生とお嬢さんの関係。言ってみれば、自分は滑稽な闖入者に過ぎない。穴があれが入りたい心境であろう。そこには、先生を責める気持ちは毛頭生まれる余地がない。そこから自死の発想までは遠くない。
その他、いろいろ想像したもらえればいい。
私に理解しがたいのはKの自殺の方法である。もっと静かに死ぬはずのもではないか?それがあたりに血潮をほとばしらせての派手な死である。それまでのKの生き方と調和しない。一つの解を考えて書いたことはあるが、納得しかねるところがある。

機会があれば、ご披露させていただこう。

先生はKを出し抜いた?

2009年08月09日 | 文学・国語教材
先生は、Kより先にお嬢さんへのプロポーズをすることでKを出し抜こうとする。

先生はKの言った「覚悟ならないこともない」の「覚悟」を、Kの尊い過去を投げ捨ててお嬢さんに向かっていく覚悟と思いこむ。本文では、「その時の私がもしこの驚きをもって、もういっぺん彼の口にした覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません。」とある。「公平に」見回したらKの言った「覚悟」がお嬢さんに向かっていく覚悟ではないことが、自ずとわかるということであろう。すなわち、先生の誤解であることがしっかり書かれている。
ここで描かれていることは、人間がエゴイズムから逃れられないというよりも、自分が劣勢との誤解が人間を盲目的に走らせる、ということである。
確かに先生の意識のうちでは、Kにお嬢さんをとられまいとして出し抜いたのである。

しかし、事実関係としてはどうか?
そもそもKは先生のライバルたり得たか?

お嬢さん、後の先生の奥さんには、Kの姿はただ夫の大事な友達という形でしか残っていない。お嬢さんの意識に二人の男性が並ばないのに、どうしてライバルたり得ようか。
また、漱石の記述自体も、Kについて、女性から見て、また男性から見ても魅力的には描いていない。暗くて生活能力がなくて、それでいてそれらに代わる思想性も開陳されていない。ただ「道」なのである。実体のない「道」。欲のない恋すら否定する「道」。積極的に生きることをただ否定するためにだけ使われていると思わせる「道」。これでは開化や文明のアンチテーゼにもならない。そんなKにどれほどの魅力があろう。

正月にカルタ(百人一首)をする場面がある。先生の意識にお嬢さんを巡るKへの嫉妬心が描かれる。漱石は、そのように書いている。「目に立つようにKに加勢をしだしました」。しかし、こういう場面があったとして、お嬢さんの目に百人一首を知らないKなんぞ眼中になく、ただ好きな「先生」と張り合おうとしている、とも読める。それが普通であろう。

Kは先生のライバルたり得ない。

Kがはじめて先生に「お嬢さんへの切ない恋」を告白したとき、先生は「あいて(K)は自分より強い」と思ってしまう。漱石はそう書いている。ただし、物語としての『こころ』にはKが恋の上で強いなどとは、どこにも書かれていない。養家をあざむいて自分の生き方を通した点でのみ「強い」。恋では先生のライバルになり得ない。

そんなKに対して、事実の上で「出し抜く」などとは成立しない。ただ先生の意識の上でのみ「出し抜い」ているのである。
そして、この先生の意識が人間の原罪として、最後には自死に導いてしまう。
読んでいて、つらい気持ちにしかならない。


不可解な先生

2009年08月05日 | 文学・国語教材
『こころ』を読む人で、いったいどれほどの人が、先生の人格に好感を持つのだろう?あるいは魅力に感じるのだろう?
好感も魅力もなくて、どうして『こころ』が読まれるのだろう?

「上」で描かれる先生は世間に超越して生きていて、『猫』の苦沙弥先生にも通じるところがあり、好感が持てる。問題は「下」の遺書で明かされる部分である。

先生は叔父に財産をごまかされる。そこから得た先生の結論は、人間は金で変わる、というものである。人間のこと、金で変わる人間もいれば、金で変わらない人間もいる。当たり前の話である。叔父の行為は単に一つの例に過ぎない。何か絶対的な真理を発見したというほどのもではない。
先生は次に恋の三角関係の中で、他人を出し抜いて恋を成就させようとする自分を認める。
はじめに他者に対して不信感を持ち、次に自分自身も他人と同じ利己的な人間であることを認めて、人間一般への不信から抜け出せなくなってしまう。

考えてみれば、エゴイスティックな人間を二人認めているに過ぎない。
あなたなら、ここで人間についてどのような判断をするだろうか?

他方、人間は他者に対して愛情深いこともいっぱい書かれている。言わずもがなである。

『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)や『一房のぶどう』(有島武郎)に描かれていることは、同じく自分のことから出発する失敗であり、その一面を自分自身に認めて反省的な生き方を導くけれど、『こころ』は絶望・他者の拒否という結論を導いてしまう。
先生は結局、奥さんを拒否してしまったのである。奥さんを汚したくないと言いながら、結局は自分の穴から抜け出せなくなってしまう。

別の結論はいかようにも導き出せる。自分の穴に閉じこもって、最後は自死を選ばないと反省的な人間でないなどという論理は成り立たない。

小説を読み慣れていない生徒は『こころ』を読んだ後に、「この話本当の話?」などと質問をすることがある。これは、本当の話なら一人の「まじめ」な人間の生き方の証言として読むことができるが、いわゆる「小説(フィクション)」なら、作者の恣意性に納得がいかないとの表明であるだろう。

Kは魅力的?

2009年07月28日 | 文学・国語教材
およそ文学というもの、何らかの意味で登場人物に魅力がないといけない。

Kに魅力があるとすれば、他の人間には持ち得ない宗教心というか克己心である。そんな人間が存在するかしないか、それはある意味、どうでもいい。問題はリアリティであろう。ありそうな気がする、あってもいい、という存在感、現実性。先生の下宿に居候するまでのK、これはなかなかリアリティがある。

そのKが1年ほどの間にお嬢さんに恋をして進退窮まってしまう。必然性がないし、そんなKに魅力がない。

考えられる唯一の回答は、漱石は倫理に対するに愛(恋)の勝利を謳おうとの意図を秘めていた、という言い分である。しかし、漱石に愛(恋)を賞賛する気持ちがないのは一目瞭然である。愛というものはエゴイズムの上で成立するものだから。エゴイズムが情熱を生み出し、何にも勝る愛の美学を成り立たせる。そんなものであろう。古来、人間的な愛、地上的な愛と倫理は対立する。漱石は愛の讃仰者ではない。

私は前回のことも含めて、漱石はKの人物造型に破綻している、と考える。

『こころ』を採用している教科書は、Kの告白からKの自殺前後を抜き出して掲載している。その中で、Kが先生に矛盾を指摘されて「覚悟ならないこともない」と言った夜のこと、先生が「比較的安静な夜」の眠りについていると、Kはふすまを開けて先生を呼ぶ。そして用を尋ねる先生に、大した用ではない、ただ起きているか寝ているかと思って声をかけたと言う。

時々この部分が問題となる。Kは何を意図してふすまを開け、先生を起こしたのか?
問題を出されると、解答を考えてしまうのが人間の習性である。特によい生徒と「よい」教師は。

しかし、この部分のKの意図を考えるのは「遊び」に過ぎない。考える客観的な材料が何もない。
恥じ入っているはずのKは、先生に対して合わせる顔がない。夜中に寝ている人に向かって、「おい」などと言えた義理ではない。それを自殺の下見であるとか、先生の心の忖度とか、、、これらは「思いつき」である。結局、論を立てての話にならない。論を立てられないのは、Kという人物が像を結ばないからである。

漱石は何らかの意図をもってこの部分を挿入したのだろう。これを読む読者の大半が共通理解に達すると考えたに違いない。しかし、それは漱石の独りよがりではないだろうか。

不可解なK

2009年07月25日 | 文学・国語教材
Kのような人物は考えられない。

「先生」に招かれて「先生」の下宿に居候のような形で同居する。この時までのKの人物造型は、「こんな人、ほとんどいない」と思わせるが、特に破綻はない。

精神的世界を目指し精進する。ただし、藤村操タイプの人間ではない。むしろ宗教的実践家である。一夏、寺にこもって修行する場面がある。そして日に何度も数珠の玉を無限に数えていく。行(ぎょう)と言うべきである。それは、大学での「学問」の範疇に入らない。Kのテーマのひとつは日蓮であろう。また、イエスであろう。学問的に追究するか、自身の宗教的境地の体感を目的とするか、これは二つの道である。Kは後者を選んでいる。

そういうKである。人間タイプとしては有り得る、と言える。

ところが、「先生」の下宿に世話になるようになって、Kが変化していく。1年足らずの間である。

1 Kが現実と理想の間でどうしようもなくなるまで「恋」に囚われてしまう。自らの過去を否定してしまうほどの恋の衝動は、Kに不自然である。あまりにも以前のKと落差がありすぎる。こんなふうに恋に陥るという設定は、ある意味、宗教的な追求者に対する侮辱である。
何ともKの姿を思い浮かべることができない。どんな役者を想定しても、説得力のあるKを演じられるとは思わない。

2 Kが「先生」の下宿に来るまで、「先生」は2年近くお嬢さんの家で下宿している。随分親しくなっている。三人で一緒に和服を買いに行く場面など、二人の夫婦関係は既定の事実といってもよい。ただ、私(先生)の中に、「疑いの気持ち」からのためらいがあるばかりである。そのことが、Kに伝わらないはずがない。色恋に無縁な以前のままのKなら、二人の関係に気がつかないこともありうるであろう。しかし、恋をしてからは人間の感情の綾に敏感になるはず。
「先生」の気を引くためにお嬢さんはわざとKと親しいフリをしているとの説がある。もしそんなものがあるとしたら、それは漱石個人の事情であろう。
そんなことでは覆い隠せないお嬢さんの「先生」への思いがある。Kも気付くだろうし、「先生」もわかるはず。ところが、『こころ』のストーリーとしては、Kは気づいてはいけないし、「先生」もわかってはいけない。漱石は、お嬢さんの思いを全く「無視できる」ように描いているのである。まるで女の人は人を愛せない!と主張するかのように。

この辺が不自然である。