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アイデアの散策

仕事・研究・日常の中で気付いたことのエッセイ。

トクヴィルを読む

2011年07月09日 | 日記・エッセイ
 今日の午後は、隔週土曜日で開催されている勉強会に参加。4月からの第2土曜日は、話題提供者による発表のほか、輪読会も行っている。いまは、A.トクヴィル著、井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』講談社学術文庫を読んでいる。この本が結構読みにくい。今回は上巻の第8章「連邦憲法について」の一部を読んだ。アメリカの政治制度・国民文化について、われわれ日本人はさほど精通していないためなのか、イマジネーションしづらいのが実際のところ。とはいえ、少しでも理解しようと頑張る。この本を読むことで、「読む力」は相当養われつつあるような気がする。

 ところで、今回は特に次のフレーズが気になった。
1.共和国に致命的なすべての欲情は、領土の拡大とともに増大するが、共和国に支柱として役立つ美徳は領土の拡大に比例してはふえないのである。(p311)
2.小国では大国においてよりも大きな裕福と平穏が普通見出される。(pp309-310)
3.連邦主権は人工品であるが、州主権は自然物である。(p324)

 この3つのフレーズの解釈は、前後の文脈を読むことで、それらの意味がより鮮明になる。詳細は割愛するとして、この章における主な論点のひとつは、州主権と連邦主権の関係性、コントラストだと思う。連邦主権の観点からは、裁判制度がうまく機能する必要があるし、その成立過程はある意味でうまく計画される必要があったように思える。

 よくよく考えてみると、アメリカという国ができて以来、南北戦争はあったものの、州どおしの大きな内乱はなかった。他方、日本ではかつて、藩どおしの戦いがあった時代もあった。それも江戸時代に入り、中央統治の勢力が強くなってからは、そうした戦いは起きなくなった。こうした違いについても、輪読会では少しばかり議論があった。
 また、州主権は市民の美徳を保持する役割を果たし、連邦主権は国民の欲情を制御する機能を有しているのではないか、と自分なりには考えてもみた。

 輪読会のあと、ちょうどこの勉強会が発足して1周年記念ということで、神宮外苑にある「森のビアガーデン」にみんなで足を運んだ。
 森のビアガーデン (「森のビアガーデン」のウェブサイトへ遷移します。)

 食べ放題、飲み放題で男性1人4,000円。安い。食べ物はバーベキュー形式で、たくさんたくさん“肉”を食べました。予約の関係で16時30分過ぎから2時間コースだったのですが、今日は梅雨明け。心地よい風を感じながら、15人弱のみんなでいろんな話題で盛り上がりました。

 そのあと、19時からは神楽坂で、別の飲み会へ。めずらしく伊丹ゼミの飲み会に参加。こちらは少し遠慮気味で控えめに盛り上がってきました。今週は、火・水・木・金・土(夕・夜)と5日位連続飲み会が続いたので、明日は休肝日に。来週も月曜から懇親会が続く大変な一週間になりそう。

先入観にご用心

2011年07月07日 | 日記・エッセイ
 先入観。良くも悪くも、人はある「観念」を作ろうとするもの。

 「どこの出身ですか?」
と聞かれ、
 「大阪です(関西です)」
と答える。
 東京に住むようになって13年近く経った。日頃、関西弁を使うことがない。
 「あまり関西弁が出ないですね。」
と言われ、
苦笑する。
 
 「大学では何を学んでいたのですか?」
と聞かれ、
 「数学です(整数論です)」
と答える。
 昔から、純粋に数学が好きだった。博士課程まで進んだのだから、それなりに専門家である。
 「すごいですね。数学は難しくて私にはわからなかった。」
と言われ、
苦笑する。

 こうして、人は人のイメージを作っていく。でも先入観をもって見られること。あまり好きではない。人生の解釈はいろいろあって良いではないか。そう思う。

 もっとも困るのは、「関西人だから面白いことを言ってくれ」と注文されたり、「数学ができれば経済学も好きになるのでは」と期待されたり。社会には、どうやら定石となる因果関係があるらしい。そうした定石的因果関係に反してみたくなるあまのじゃくな気持ちも自分のなかに少しはある。無論、誰にでもあると思う。

 だから、あまり初対面の方に根掘り葉掘り聞かれるのは少し苦手。じっくりお互いのことを知っていきたいもの。今日の飲み会で、そんな気持ちになった。
 また、お会いした人の「良い面」をいっぱい見つけること。「その人らしさ」を知ること。できれば、そうしたい。

 心理学に「ジョハリの窓」という概念がある。
・自分が知っている自分/自分が知らない自分
・他人が知っている自分/他人が知らない自分
を組み合わせることで
1.開放の窓(open self)(自分も知っていて、他人も知っている、自分)
2.盲点の窓(blind self)(自分は知らないが、他人は知っている、自分)
3.秘密の窓(hidden self)(自分は知っていて、他人は知らない、自分)
4.未知の窓(unknown self)(自分も相手も知らない、自分)
という4象限を作ることができる。

 秘密の窓とは、先入観では見ない方が良いのかも。

(参考資料)
 ジョハリの窓 (ウィキペディアに遷移します。)

組み合わせの妙

2011年07月07日 | 日記・エッセイ
 サイコロを3回振って、「111」と続けて1の目が出たとき、スロットで「777」と数字が並んだとき、人はとても「珍しいこと」が起きたように感じる。
 冷静に考えれば、スロットで「777」と出る確率も「152」と出る確率も、数学的には同じなのだが、数字同士の「関係性」や数字のもつ「意味」が、そうした「珍しさ」を感じさせる。人は「連関性」、「特殊性」、「意外性」といったものには、無意識的に敏感になるようだ。

 と同じようなことが、人のキャリアを知るときにも起きる。
 先日人事異動があったので、新しくお世話になる方と、なにげなく出身地や出身学校の話題をすると、意外にも同じ出身の人がいたりする。意外な「つながり」(連関性)があったのかと驚き、世界は狭いなあと感じることがある。
 本や雑誌の末尾に書かれた略歴を見ると、しばしば輝かしい経歴の人に遭遇する。東京大学卒業、有名大手企業入社、ハーバード大学大学院留学、そして起業といった具合に、その一つひとつがラッキーセブンの「7」のような「特殊な意味」(特殊性)を持っているのに、それらを「つなげて」並べられると、よりすごさを感じてしまう。
 他方で、東京大学卒業後、僧侶になりましたといった「意外性」のある経歴を見ると、それはそれで珍しく思える。人生に王道はない。そこにはただ、道があるだけ。
 
 「777」のようなキャリアを目指す人がいる。自分のまわりにもそういう人がいる。それはそれですごいと思うし、何より努力されていると思う。無論、そうしたキャリアが、さらなる人脈拡大や自己成長につながることもあるから、キャリアを磨くことには意味がある。「777」が「776」となるのが挫折というものなのか。
他方で「152」のような、一見すると「連関性」や「特殊性」や「意外性」を感じないキャリアだって、十分立派だと思う。何より肩書きには見えない「自分だけの経験」を、誰もが自分の人生を歩みながら体験するのだから。
組み合わせ。その妙を知ると、人生は限りなく可能性あるものに感じる。あのときに見た、隣の芝は本当に青かったのだろうか。

逆に言うと・・・

2011年07月06日 | 日記・エッセイ
 相手の話をじっくり聞いていると、相手の口癖にも気付くようになる。
 多くの人が意外としばしば使う言葉のひとつに、「逆に」がある。
 相手の話を聞いた後、自分の意見を述べる際に、まず「逆に」という枕詞を添えることが多い。
 ところが、この「逆に」という言葉の使い方が、不思議と奥深い。

 Aさん:資料Xを明日の会議に出そうと思う。
 Bさん:逆に、その資料Xはまだ会議に出さない方が良いのでは。
 Cさん:逆に、資料Yを出した方が良いのではないかな。
 Aさん:たしかに、逆に言うと、資料Yの方が確かに良い資料かもしれなかったね。
 Bさん・Cさん:(うなづく)

 この文例は、若干強調して書き過ぎた感はありますが、結構こうした「逆に」の連呼は起きている。
 どうやら「逆に」という使い方にも大きく3つありそうだ。
1.相手の意見に対して、それを否定する自分の意見を述べるときの枕詞(直接的逆説)
2.相手の意見に対して、別の案を提示するときの枕詞(間接的逆説)
3.先の自分の意見を訂正し、相手の意見に同調するときの枕詞(訂正的逆説)
 上記の会話のBさん、Cさん、Aさんの「逆に」は、それぞれ直接的逆説、間接的逆説、訂正的逆説に対応していると言えますが、ふだんの会話で誰かが「逆に」を使っているとき、どの逆説タイプか少し注意深く聞いてみると面白いです。

 あとは、指示語の「あれ」も結構使わるような気がします。資料を読んでいる上司が部下に対して、

 上司:これはあれか。
 部下:そうですね。
 上司:なるほど。じゃあ、あれしておこうか。

 この文例も極端ですが、こうした会話も意外と日常の中にある。英語で言えば、
 上司:Is this that?
 部下:This is that.
と言っているようなものですが、当事者でないと全く意味が見えない会話。
 言葉は面白いですね。

自分が落ち着く場所

2011年07月04日 | 日記・エッセイ
 「どこ」で勉強をするか。

 自宅で勉強する人もいれば、図書館で勉強する人もいれば、カフェで勉強する人もいる。

 僕の場合、まず自宅では勉強できない。テレビやベッドといった誘惑に負けて、ついつい家ではのんびりしてしまう。また、大学時代、図書館という場には、あまりなじめなかった。静かすぎて、落ち着かない。多くはカフェで、思索にふけったものだった。

 そうもあって、行きつけのカフェが結構ある。主にはチェーン店(スターバックスとかベローチェとか)だが、いわゆる「喫茶店」にもしばしば足を運ぶ。結構、カフェで新しいアイデアをひらめいたり、自分の人生を考えたこともあった。
 さらに、同じ店の中でも、座る席によってインスピレーションの湧き方が違うから、行きつけの店では、席までこだわる。僕は窓側の一人席が心地よい。

 ところが最近、社会人大学院に通うようになってからは、不思議と図書館が落ち着くようになった。社会科学系の本を読むからだろうか。本を読みながら、頭のなかであれこれ考えるためには、静かな空間が欲しくなる。

 数年前、六本木ヒルズにある「六本木ライブラリー」の会員になった。49階にあるライブラリーの窓から、東京の夜景を眺めながら夢想する。目前には東京タワーが見える。そうして数十分すると、妙に落ち着いた気持ちになって、同時にアイデアのしっぽが顔を出し始める。すなわち、頭の中で新しい概念が生まれ始める。なるほど、あくせくせず、放心状態(ボーっとしている状況)になる「時」と「場」が必要だと思うことがしばしばある。

 数日前、同じく森ビルが提供する「平河町ライブラリー」の会員になった。自分が落ち着く場所を求めて。
 アイデアは「人」と「時」と「場」の共鳴で生まれるのだから。