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趣味の世界と零細企業末端社長としての近況報告。
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野村克也氏はやはり本物だ

2013-02-28 05:09:00 | ラスト
急成長の裏に、“モノマネ”と“エアビデオ”

 プロ野球界で「凡才からトップに登り詰めた」選手の中で、最たる成功者といえば野村克也だろう。

 野村は長嶋茂雄や王貞治と並ぶ日本球界の“伝説”だ。現役として26年間プレーし、プロ野球史上最多の3017試合に出場して本塁打王を9回、打点王を7回獲得。現役引退後は南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務め、リーグ優勝5回、日本一3回、歴代5位の通算1565勝を飾った。

 成し遂げてきた栄光とは対照的に、1954年に南海(現ソフトバンク)と契約金ゼロのテスト生で入団した当時は、誰も注目しないような選手だった。楽天の監督を退任した翌年、筆者が行った野球雑誌『Baseball Times』のインタビューで、野村は入団したばかりの頃について独特の口調でぼやいている。

 「無視、まったくの無視。首脳陣には何も期待されず、無視されていた。その中から何とかはい上がって、監督やコーチの目をこっちに向けさせなければしょうがないと思っていた」

 鶴岡一人監督(当時の登録は山本一人)にブルペンキャッチャー的な役割を兼ねて拾われた野村は、プロ入り1年目の1954年、わずか9試合の出場に終わった。2年目は出場機会ゼロ。守備を鍛えて3年目から正捕手に定着すると、このシーズンオフの秋季キャンプで勝負に出た。

 「まずは練習で目立たなければしょうがない。いちばん目立つのはバッティング。スタンドばかり目がけてバッティング練習をやっていた」

 入団当初から打撃に苦しんできた野村だが、この頃になると、フリーバッティングで10球のうち7、8球をオーバーフェンスできるようになったと振り返る。急成長の裏にあったのは、“モノマネ”と“エアビデオ”だ。

 当時、球界を代表する長距離砲に中西太、山内一弘という2人の右打者がいた。前者は1953年から4年連続で本塁打王に、後者は1954年から2年連続で打点王に輝いている。野村は打撃フォームを摸索するうえで、2人を参考にした。

 「山内さんは3つ上で、中西さんは2つ上。田舎から出てきて、2人のバッティングを見てびっくりした。すごいなと思ったね。自分が2軍でコツコツやっているときに、イメージ法というのを聞いた。その人になりきる、というやり方です。まずはマネから入る。そのマネに自分流を付け加えて、自分の形を作っていく。そういう上達法は誰でも同じだと思う」

どちらの師匠をマネるべきか?

 茶道や武道の世界に、「守破離」という「師匠と弟子の関係」がある。野村の方法論はこの「守」と「破」の段階に似ている。「守」で師匠に言われた形を習得し、第2段階の「破」で、師匠直伝の形を自分に適したスタイルへ昇華させていくのだ。

 中西はマスコットバットほどに重いバットを使い、すり足のフォームで93kgの体をボールにぶつけるようにしてパワーを伝え、飛距離を出した。それを見た野村は「重いバットを使わなければ、ボールは飛ばない」と考え、中西流を試した。しかし、思うようにいかない。そこで山内流に切り替えた。山内は左足を上げるフォームで、広角に打ち分けるうまさがあった。野村には山内流が合っていた。

 練習で手応えを感じるようになった野村は、「寝るのが惜しかった」という。「寝ると、忘れるような気がした」のだ。その就寝前の段階に、野村の工夫があった。

 現在でこそ練習を動画やデジカメで撮影し、確認しながら自分のフォームを探るのは一般的になったが、野村の現役時はまだビデオカメラもない時代だった。そこで、野村は“エアビデオ”を開発する。宿舎で同部屋になった選手の前でバットを振り、グリップの位置、スタンスの広さ、バットの軌道を目に焼き付けるように頼んだ。自分で確認できないため、同僚にフォームのブレがないかどうか、寝る前にチェックしてもらっていたのだ。「選手は自分の感覚だけでやっていたような時代」に、野村は自身を客観視するすべを持っていた。

 そうして打撃フォームを固めた野村は4年目の1957年、打率3割2厘を記録する。30本塁打でホームラン王に輝いた。「プロでやっていける」と自信を手中にした。

 だが、1958、59年と成績が思うように伸びない。打率は2割5分3厘、2割6分3厘で、本塁打はいずれも21本。守備の負担の多いキャッチャーというャWションを考慮すれば、決して悪い成績ではないが、野村は納得できなかった。

 そこにこそ、一流と二流の差がある。 

 「一流選手の共通として、自己満足をしない。妥協、限定、満足は禁句。『俺はこれくらいやれればいい』と思ったら、それで終わり。下降線をたどっていく。一流の人は成績を残せば給料に跳ね返ってくるから、年俸に対する意欲もあって、現状に満足しない。そういうものを共通して持っている」

 野村は、「バッティングには限界がある」と言う。野球は相手のあるスメ[ツで、打者は打率3割を打てば一流と評価される世界だ。打撃とは、それほどに難しい。だからこそ、野村は「プロで生き残っていこうと思ったら、限界から先のことをやらなければならない」と言う。

「殴られたほうが忘れてないぞ」

 投手のクイック投法、ストライクゾーンを9分割する配球表など、日本球界に独自の方法論を定着させてきた野村だが、彼の代名詞のように語られる言葉がある。「ID野球」だ。日本野球にデータという概念を定着させたのは、野村だった。

 プロ入り6年目の野村が打率2割9分1厘、29本塁打と過去2年の壁を打ち破った裏には、ある先輩の一言があった。思うような結果を出せずに悩む姿を見て、田中一朗という選手が声をかけた。

 「ぶん殴ったほうは忘れていても、殴られたほうは忘れていないぞ」

 ヒットを打った打者はその打席について忘れても、打たれた投手は「次こそはやり返してやる」と苦い記憶を脳裏に刻み込む――野村は先輩の言葉をヒントに、相手投手の視点に立った。

 当時の南海では、毎日新聞の記者だった尾張久次が球界初のスコアラーを務めていた。野村は自身に対する相手投手の球種、コースをすべての試合で出すように頼み、12種類別のストライクカウントに当てはめた。初球はどんな球で入り、1ボール2ストライクの場面では何をどこに投げてくるのか。1957年と58、59年の2年間を比較すると、相手の攻め方が変わっていた。

 4番打者の野村に対し、57年までは外角中心の配球をする相手が多かったものの、58年以降は内角を突くボールが増えていた。実際、野村は「強気に攻めてくるな」と感じていた。それを数値に置き換えることで客観視でき、あらためて事実に気づくことができた。そうして生まれたのが「データ」という概念だ。当時は「データ」という言葉はなく、「傾向」と呼ばれていたという。

 「このカウントでは、インコースに投げてくることは100%ないという状況がある。野球は相対関係でできているから。外角に対しての内角。高めと低め。速い、遅い。そういう組み合わせでできている。たとえば、内角を意識させれば、外角を広く使える。今では当たり前になっているけど、当時は誰もそんなことは言っていなかった。精神野球の時代で、気合いだ、根性だ、ばかりだった。でも、データで考えられるようになってから、急に野球が面白くなった」

 長嶋茂雄や王貞治のように圧涛Iな力を持つ者なら、自分を中心に考えることが好パフォーマンスへの最短距離になるだろう。しかし、野村のように持てる才能が限られている者は、相手との力関係で上回る創意工夫が必要だ。

技術力だけでは限界がある

 現役引退後、野村が率いたチームはいわゆる“弱小球団”ばかりだった。相手より戦力が劣る中、どうすれば打ち負かすことができるか。野村は現役時代同様、頭をフル回転させた。

 「バッティングでもピッチングでも、技術力には限界がある。わかりやすく言えば、80年の歴史があるプロ野球では4割を打った人が1人もいない。よく打っても3割。7割は凡打。そういう中で少しでも確率を上げていくためには、技術力だけでは難しい。プラスアルファをどう出していくか。技術力プラス、何かを出していく。これが僕の基本的な取り組み方です。ましてや南海を皮切りにヤクルト、阪神、楽天と最下位のチームばかりやらされてきましたから。そうすると選手も同じで、弱者が勝者になろうと思ったら、強者と同じことをやっていたら絶対に勝てない。当たり前のところから発想していくわけです」

 押してダメなら、引いてみる。きっかけをつかめなければ、たどり着きたい結論を見据えて逆算する。商品が売れなければ、消費者の立場に立ち返る。

 そうやって頭を使えば、凡才だって本当の頂点に到達できる。野村の野球人生はそう教えている。



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