よしGの百歳イブまで

喜びの「 よ 」良かったの「 よ 」よろしくの「 よ 」で、今世を生き抜こう。

私は神の存在を信じる軟弱な非宗教組織論者である

2016年01月17日 | 魂、愛、心、命

いつのころからだろうか?

我が家系は浄土真宗である。仏教には13宗派存在する(法相宗律 宗華厳宗真言宗天台宗日蓮宗浄土宗浄土真宗融通念仏宗時 宗臨済宗曹洞宗黄檗宗)だそうだ。

世界でみても、キリスト教教派には(西方教会と東方教会から分派して数多くあります)。イスラム教ではスンナ派・シーア派から指導者の後継者により派閥が分かれて多くの学派があります。ユダヤ教には、正統派・保守派・伝統派・サバタイ派・改革派・再建派・カライ派・フランク派とあるみたいです。

日本神道はもともと八百万の神と言われるように多神教であり祖霊崇拝の傾向の強いものであったので、他宗教との融合も強く神社仏閣が融合された時代もあった。覚えている限り現在では出雲の流れと伊勢の流れとがあるようだ。

新宗教といわれるものも続々と登場している。有名なのが、エホバの証人・モルモン教・統一教会他である。

昔、叔父が深くはまって一緒に入信した新宗教団体に天道総天壇があります。叔父はその指導者が一夫多妻的な考え方で女性にだらしないとみるとさっさと止め浄土真宗一辺倒となった。その後私はイベントに参加したりしたがいつのころからか叔父と同じ違和感を感じ去ったのである。しかしながら考え方の根底の開祖や指導者による教義は絶対神がおられおっしゃっているということである。どうやら元の神は一つのようだとこのころから思った次第です。その開祖や指導者から組織が生まれ、組織が安定化資金化のためにいろいろなしきたりが決められたのではないかと思い始めたのであります。

お墓様相、葬式手順、お参りの方法、手の合わせ方まで千差万別です。もちろんお気持ちでと言われるものも違ってきます。

親父の法要の時に、叔父(先ほどの叔父とは違う、かなりお金持ちの叔父)の法要と同じお坊さんでやってもらったときのことです。明らかに対応が違い仕事としてそそくさとすませそそくさと帰って行ったお坊さんだったのです。またある時に聞いた話ですが、葬儀で導師にお渡しする金額も(一般的に金額がわからないので葬儀社にお聞きしますよね)〇〇葬儀社の時は多いので〇〇葬儀社がいいとかお坊さんが言っていたとかを耳にすると、さもありなんと思うようになったのです。もちろんすばらしいお坊さんもいらっしゃいます。

※でも、仏壇は捨てられないし、墓を守るという意識も捨てられないし、家族の葬式もやるだろうな?軟弱な私です。しかしながら、自分のことは自分でかたをつけたいので、子どもたちよ、葬式は焼き場のみでOK、戒名・院号は無し親からいただいた氏名でOK、墓は市の安い合同墓(お骨は土に返してもらいたいのだが、どこでもというわけにいかないので)でOKです。子供たちのこころの中にあればいいんです。

元に戻って、個人のすばらしい聖職者の方々を否定するわけではありません。組織の一員になると素晴らしい人も組織のしがらみで泣く泣く折り曲げて行動するのが組織人の辛いところです。(自分の会社の組織人生と一緒にすな。反省)

マザーテレサをはじめ、それでも頑張っていらっしゃる方が多数いらっしゃいます。その教えや行動は全く感動を覚えこころに響くものです。

こころの中に神聖が宿る、神はみこころにある。

なぜ、他の何かに自分をゆだね助けをこい、手を合わせるのでしょうか?とココに行きつきました。

人間って弱い存在です。神社仏閣教会に行って、一心に「うまくいかさせてください」「なんとか成就を」と神頼みするのはわかります。それは自分に宿っていらっしゃる神を否定して他におすがりすることです。しかもそれを組織となった神様にお頼みする行為は以上のことで私はやめにいたしました。

今の私は、自分自身に宿っていらっしゃいます神に反しないように、当たり前に自然に準じて私自身のこころを愛に満ち満ちさせて日暮しをさせていただく。結果は因果応報で間違ったら間違ったなりに良かったら良かったなりに気が付けば反省!そうしていけば神様はお守りいただけ、なんとかなるみたいです。(この世界をお作りになられた神との関わりがいまいちまだわからないのですが、こころがなぜかすっきりくるのです)

みこころにいらっしゃる神様に”私は自分自身のこころに愛を溢れさせて行動する”と何回も唱えるています。(しかしながらいつも、反省することばかりです。無意識の思考が差別したり強欲であったり嫌悪したり拒否したりカチンときたり、未熟者の私です。でも頑張ろう)

昨日、女房と一緒に出雲大社広島分祠に交通安全と家内安全のお札を買いに行きました。交通安全のお札が千円。もちろん私はお参りも手も合わせたりしません。鳥居の中に入らずです。車にもお札はいらないのです。

女房が信心しだしたのは、私が家の神だなを拝まなくなってからであります。

そういえば、出雲大社にはまっていた時もありました。特にここ広島分祠は神さまとつながる方がいらっしゃって年に何回か自分の悩みの解決を教えてくださるとかで、神頼みをしに数回通いました。神道の祝詞も日本語ではなく、神語?のどの奥からとも腹の奥からとも不明な言葉で祝詞をあげられます。なぜか感動したものです。これもよくわかりませんが、気持ちが離れてしまったのです。

毎朝の祝詞の行事をしなくなり、毎朝の仏壇に向かっての正信偈をやらなくなってからかと思います。(女房は知りませんが般若心経の写経は大学ノートにたしか千回は写したと思います。それは遠い昔の話です)

それはそれで尊いので、彼女の思うことやっていることを尊重いたします。魂の命ずるままに!

ありがとうございました。人生悔いなしに邁進いたします。

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿