地理講義   

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107.砂漠気候BW  糞石 核実験 洪水

2013年11月09日 | 地理講義

砂漠気候BW
乾燥気候としてステップ気候BSと砂漠気候BWとがある。ステップ気候は全陸地面積の14%、砂漠気候は12%である。世界の全陸地の26%が乾燥気候である。乾燥気候にはケッペンの判定式があるが、目安としては年降水量250mm以下を砂漠気候BWとし、250~500mmをステップ気候BSとする。

回帰線砂漠
南北回帰線付近は、ハドレー循環の下降気流により、亜熱帯高圧帯が発達し、北緯・南緯20~30度に砂漠が広がる。例えばアフリカの北回帰線付近にサハラ砂漠があり、オーストラリアの南回帰線付近には広大な砂漠が広がる。
砂漠は不毛の土地か:フランスはサハラ砂漠(植民地アルジェリア)のレッガンヌで、1960年代に4回の大気圏内核実験、イネケールで13回の地下核実験を行った。アルジェリアの油田地帯遠く、まれに遊牧民が通る不毛の地であり、フランスの核実験は人間に被害を与えないとしてきた。しかし実験開始とともに、サハラ遊牧民が健康被害を受け、2010年、フランス政府は被爆した遊牧民に金銭的補償を行なうことを決めた。同時にフランス政府は核実験に関する政府文書を永久機密文書と定め、フランスの核実験による被害の実態解明は不可能になった。

トンブクトゥ
サハラ砂漠の外来河川ニジェール川のオアシス都市で、南北交易の中心地であった。岩塩・金・象牙・奴隷などの取引に、南から黒人商人、北からムスリム商人が来た。トンブクトゥの最盛期は16世紀で、人口20万人であった。しかし、それ以降は船による輸送が増加してサハラ横断のラクダキャラバンは衰退した。トンブクトゥは1988年に世界文化遺産に登録されたが、反政府運動やイスラム過激派が、歴史遺産とされたレンガ建築物の破壊や、商業取引の歴史的文書を持ち去った。トンブクトゥの人口は2万人以下になった。

内陸砂漠
海から遠いことを隔海度が大きいと言う。偏西風が海から水分を運ぶ途中、山脈で上昇気流になって雨を降らせて乾燥し、風下の東部内陸に砂漠をつくる。ゴビ砂漠・タクラマカン砂漠は内陸砂漠の典型である。
タクラマカン砂漠(塔克拉瑪干沙漠):中国の新疆ウイグル自治区の砂漠である。南に崑崙山脈、北に天山山脈、西にパミール高原がある。シルクロードは山麓のオアシスを通る。タクラマカン砂漠は「生きて戻れぬ砂漠」の意味だが、砂漠から原油が採掘されると、砂漠を南北に横切るタクラマカン砂漠公道566kmが建設され、1995年に開通した。イスラム教徒ウィグル人の遊牧地に、漢人資本の石油化学工業が成立した。
ゴビ砂漠:モンゴル(外モンゴル)から中国(内モンゴル)に広がる内陸砂漠である。偏西風がユーラシア大陸を横切るうちに乾燥する。夏の南西モンスーンがヒマラヤ山脈を越えて乾燥する。ゴビ砂漠は日本の北海道と同程度の緯度にある砂漠である。極端な大陸性気候で、気温年較差が大きい。5月~9月の夏には最高気温が45℃を越えることがある。12月~3月の冬にはシベリア高気圧におおわれて寒冷乾燥になり、-40℃以下になることもある。

海岸砂漠
海岸を強い寒流が流れると、海岸は低温になって霧ができる。その霧が太陽光線をさえぎるために気温が上がらず、上昇気流ができない。むしろ下降気流によって霧だけになり、降水量としてはほとんどゼロの砂漠になる。南アメリカ沖合を北上するペルー海流によってアタカマ砂漠とペルー砂漠ができる。アフリカの南西岸沿岸ではベンゲラ海流が北上し、大西洋岸にナミブ砂漠ができる。
ペルー海流:南極環流から分流し、南アメリカ太平洋岸を北上する強い寒流である。チリとペルーの海岸はペルー海流の影響を受けて霧におおわれる。霧が日射を妨げるので上昇気流が発達しないから、雨雲ができない。太平洋岸からアンです山麓には、アタカマ砂漠とペルー砂漠の海岸砂漠ができる。
ペルー沖合を北上するペルー海流はアンチョビー(イワシ)を運ぶ。アンチョビーが異常繁殖をして大群となり、チリ・ペルーの海岸に押し寄せて、大漁になる。1960年代、ペルー海岸ではアンチョビーの豊漁が続いた。海岸に押し寄せるアンチョビーを陸地に引き揚げ、すぐにそれを蒸して腐敗を防ぎ、肥料・飼料として世界中に輸出した。1970年、ペルーの漁獲高が1,000万トンを越え、世界第1位になった。

エルニーニョ現象
1971年からペルー海流の水温が上昇し、アンチョビーの大群が海岸に死んで打ち上げられた。死んだアンチョビーに商品価値はないので放置しておくと、硫化水素が発生した。カヤオの漁船はペンキが硫化水素で黒くなり、[カヤオ ペインター]といわれた。
アンチョビーの不漁の原因は、寒流のペルー海流の水温が上昇し、アンチョビーが冷水を求めて深海に集まったためであった。ペルー海流の水温度の急上昇がエルニーニョ現象であり、1972年に観測された現象である。ペルー海流の異常高温は、10年間のうちで4年~5年続いた。ペルー海流の海水温上昇時(エルニーニョ現象)が正常であるとの見解もあった。
エルニーニョ期間中、海岸砂漠の気温が上昇し、アタカマ砂漠・ペルー砂漠に雨が降り、砂漠の下で眠っていた植物が4年~5年ぶりに芽を出し、砂漠は緑と花の豊かな草原になった。
アンデスの高地からは、インディオが家族単位あるいは集落単位で草原地帯に移住し、エルニーニョ現象の終わるまで、低地の緑の中の生活を楽しんだ。
エルニーニョの続く4年~5年間は、アンチョビーの漁獲量は半分以下に落ち、アンチョビー漁は赤字であった。ペルー海流の上流にあたるチリ沖合では、海面にアンチョビーの大群がいた。チリの200海里経済水域内ではペルー漁船は操業することはできなかった。ペルー漁船の収入はアンチョビー漁だけであった。チリ沖合の200海里で密漁をし、しばしばチリとペルーの漁民は激しく対立を続けた。エルニーニョはペルー海流の海水温の上昇であり、逆に、ペルー海流の海水温の低下がラニーニャである。アンチョビーは、ラニーニャの時に大漁になる。

 

グアノ
海鳥cormorant(海鵜)は集団で巣をつくる。アンチョビーなどの大量に生息する魚を主食とした。海鵜の糞・死骸・卵、それにエサなど残骸集積物が、ペルー沿岸に数万年をかけて堆積して固まった。それがグアノである。ペルー産グアノには窒素が多く含まれ、天然肥料としては良質であり、園芸農業用として、世界中に輸出される。
20世紀はじめまで、ペルーとチリのグアノは「チリ硝石」として軍事用の火薬原料として輸出された。両国ともグアノ採取のために黒人奴隷を雇い、軍事用として欧米にグアノを輸出した。
しかし、グアノの枯渇が進む一方、20世紀にはドイツで化学的に窒素を得る方法が発明され、軍事用の火薬原料・農業用の窒素肥料が出回り、グアノの価値が急低下した。グアノは肥料用・飼料用として、安値で輸出された。

グアノ島法
1856年、アメリカ合衆国連邦議会はグアノ島法(Guano Islands Act)を議決した。グアノの堆積した島について所属国が不明な場合、アメリカ領とすることができた。それを妨害する者があれば、アメリカ合衆国大統領が軍隊を動員することができた。当時、グアノは農業用肥料にも火薬原料にもなった。1855年、アメリカは、グアノの大量堆積した島嶼が太平洋に多いことを知り、グアノを独占採取するためにグアノ島法を成立させた。
法律上は、アメリカ合衆国は島を占有するが、グアノ枯渇後は占有を続ける必要はないという内容であった。しかし、その島を、次にどの国の領土にするかは定められていない。100以上の島がグアノ島法でアメリカ領になり、現在も10島がアメリカ支配下にある。その例が、第2次大戦の激戦地ミッドウェー島である。1942年6月4日、ミッドウェー海戦でアメリカ軍が日本海軍に勝ち、以後、ミッドウェー島にアメリカ軍の補給基地がつくられ、アメリカ支配下の無人島になっていて、国際法の規定する無主地には戻っていない。
ベンゲラ海流:大西洋環流と南極環流の分流とがアフリカ南端で合流する寒流が、南アフリカのベンゲラ海流である。合流点にアガラスバンクがあり、マイワシとカタクチイワシが繁殖した。イワシをエサとする海鳥も繁殖し、付近の無人島と岩礁に大量のグアノが堆積した。19世紀、グアノから得られる硝石は、肥料や火薬原料として重要であったが、大西洋沿岸漁民によるイワシ乱獲のために海鳥が減少した。グアノの乱獲も続き、グアノは減少して、グアノ採取の経済的利益はなくなった。アガラスバンクからアフリカ南西岸を北上するベンゲラ海流は、海岸の空気を冷やし、午前は霧の、午後は強烈な日射の、海岸砂漠を形成した。これがナミブ砂漠である。ナミビア南端のオランジュムントは、世界的なダイヤモンド産地で、ダイヤモン
ンドはナミビア最大の輸出品である。ドイツ系白人は少数だがダイヤモンド産業や観光業における経済力が強く、黒人との経済格差が開く一方である。


サハラ砂漠の核実験
フランスは、1960年から4回、植民地アルジェリアのサハラ砂漠レッガーヌで、プルトニウム型核兵器の爆発実験を行った。イスラエル軍関係者も実験に参加し、イスラエルとフランスの共同実験であった。1961年の4回目の実験では、核爆発の人体への影響を調べるため、フランス軍兵士を、防護服なしで爆心地から800mの地点に進ませて穴を掘る作業をさせた。核兵器の心身への影響を調べた。核実験の準備と後始末に、現地の遊牧民が雇われ、被爆した。なお、2003年に、フランスのシラク大統領が現地被爆者への補償交渉開始を表明したが、その後の進展はない。

※ レッガーヌ核実験場         ※ エッカー地下核実験場地表施設
  
サハラ砂漠の大気圏核実験に国際的批判が強まり、1961年11月7日から1966年2月16日まで、マリ国境に近いエッカーで、13回の地下核実験を行った。しばしば予想を越える爆発で砂礫が大量に吹き飛び、放射線が地表に飛散した。このため、1967年以降は核実験を太平洋ポリネシア諸島ムルロア環礁に移転し、大気圏実験を実施した。


タクラマカン砂漠の核実験
中国は新彊ウィグル自治区タクラマカン砂漠のロプノール核実験場において、1964年から大気圏核実験を始めた。1980年から1996年までは地下核実験を行い、アメリカ・ソ連と対峙する第3の大国への道を進んだ。
大気圏核実験は23回、地下核実験は21回、ウィグル人への予告なしに、ウィグル人居住地域に隣接するロプノール実験場で実施された。核実験の直接的影響により、ウィグル人は10万人以上の死者があったと推測されている。また、漢族を含む軍人は毛沢東思想に忠実であれば放射線による影響はないとして、核実験中に防護服なしで軍事訓練を行い、後日、多数の兵士に放射線障害が生じた。
中国の核兵器の実験開発は、ソ連の技術協力によるものだが、ソ連は中国の軍事大国化を恐れ、中ソ対立が深刻になった。
新彊ウィグル自治区はイスラム教徒のウィグル族の自治区であり、漢族主体の中国政府(北京)とは対立していた。新彊ウィグル自治区政府は、中国政府の核実験はウィグル族への核攻撃に等しいとして、中国政府との対立はさらに激しくなった。
核実験による放射線汚染物質は、中国政府と対立するチベット自治区の核廃棄物処理場に運んで埋めた。処理方法の技術が国際的に確立されていない時期の地下埋設処理であり、処理場付近の汚染の問題が指摘されているが、中国政府は埋設の事実は認めても放射線汚染は否定している。チベットは独立国であったが、1950年に中国が軍事支配してチベット自治区としたものであり、中国政府からの独立運動が激しい。中国がチベットに核廃棄物を埋設したのは、チベットへの威嚇のためであった。チベット自治区の独立運動が激しくなれば、中国政府はいつでも核廃棄物の管理を放棄することができるとして、チベット人に恐怖を与え、独立運動に圧力を加えている。

※ 新彊ウィグル自治区は、イスラム(ウィグル族)では東トルキスタンと呼ぶ。


 

オーストラリアの核実験
オーストラリアの旧宗主国イギリスが1952年10月3日にモンテベロ諸島の珊瑚礁に停泊させた船で、カナダから輸入したプルトニウムを加えて、イギリス初の核実験を実施した。その後は本土のグレートビクトリア砂漠に実験場を移し、1957年の実験終了まで、オーストラリアでは12回の核実験を重ねた。
実験場には人体への影響を調べるため、イギリスから重度身体障害者と精神障害者を実験場に送り込んだ。先住民アボリジニーの集落は放射線被害は予測されていたが、核実験の危険性を知らせなかったし、移転退去もさせなかった。後日、イギリス政府は、アボリジニーで核実験の影響調査したと批判された。
核実験の準備、実験、後始末にはイギリス軍が動員され、実験時には3km以内にとどまり、健康調査のモルモットとされた。放射線の影響が見られた軍人に、医療費を無料とする措置がとられた。
核実験による廃棄物のガラス固化に技術的に失敗し、1993年から2000年まで放射性物質の汚染土除去工事が進められ、先住民の居住が可能になった。

 

※ イギリスの核実験場(モンテベロ諸島、エミュ平原)


 リヤドで洪水
サウジアラビアの首都リヤドは砂漠の中にあるが、2013年11月17日に雷を伴う豪雨があり、リヤドは洪水に襲われ、死者数人が出た。
リヤドは年に何回かは大雨が降る。昨年5月には25年ぶりの豪雨、洪水で20人が死亡した。

 


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