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地理講義   

容量限界のため別ブログ「地理総合」に続く。https://blog.goo.ne.jp/morinoizumi777

108.ステップ気候BS  サンジェゴ(アメリカ) カザフスタン 

2013年11月10日 | 地理講義

ステップ気候BS 
年降雨量が250~500mmの草原地帯である。亜熱帯高圧帯におおわれる時期により、冬が乾季のBSと夏が乾季のBSとがある。ステップS
teppeとはユーラシア大陸の短草原地帯である。雨季に草原ができ、冬には枯れて腐植する。毎年のくり返しで肥沃な土壌ができる。ステップ気候の場合は、短草原地帯ステップの分布とは必ずしも一致しない。砂漠同然の景観だが、降水量が一時的多く、ステップ気候になる場合もある。

サンジェゴ
サンジェゴは、アメリカ合衆国の太平洋岸の大都市で人口132万人、アメリカ合衆国で第8位、カリフォルニア州第2の人口の都市である。メキシコと国境を接する。夏は亜熱帯高圧帯におおわれるが沖合を流れる寒流カリフォルニア海流の影響を受けて低湿乾燥し、冬はカリフォルニア海流の影響で温暖であり、雪は滅多に降らない。一年のうち半年以上は亜熱帯高圧帯の影響を強く受け、晴天日数が多い。一年のうち8か月は砂漠同然である。カリフォルニアは地中海性気候が広がるが、南端のサンジェゴは夏に乾燥するステップ気候BSである。

 

サンジェゴからはアメリカ・カナダの国境を越えると、すぐにメキシコの工業地域マキラドラである。マキラドラでは、低賃金のメキシコ人が外資系企業の工場で働き、製品はアメリカのサンジェゴから輸出する。サンジェゴはメキシコのマキラドーラで働く労働者のベッドタウンとしての一面もある。
メキシコとの国境に面したサンディエゴは多民族・多文化都市の1つである。人口構成は白人、パニック24、黒人、アジア人など、100以上の言語が話されている。


サンジェゴには、カリフォルニア大学サンディエゴ校をはじめ4つの大学があり、大学生及び博士号取得者数の割合ではアメリカ合衆国のトップを誇ります。市民の約56%が35歳以下で、労働者の約30%が大学卒という国内第一の高学歴都市である。
※ サンジエゴはメキシコ国境の町で、ヒスパニックの人口が増加傾向にある。

サンディゴはステップ気候BSだが、地中海性気候Csに近い気候であり、夏には乾燥が著しく、植物・農作物の大半が枯れる。農業用水の9割はコロラド川から、残り1割は地下水を利用し、サンジエゴ特産のアボガドを生産している。しかし、人口増加の著しい市街地の都市用水が不足して水道料金の値上げが続くため、都市住民は、コロラド川の灌漑用水を大量に使うアボガドなど、果実の栽培を批判している。

サンジェゴの観光
カリフォルニアは従来のサンフランシスコ・ロスアンゼルスなどに代わり、亜熱帯(気候的にはステップ気候)のサンジェゴの人気が上昇中である。観光地ズレしていない新鮮さ、乾燥した気候の心地よさが人気を呼んでいる。中国・韓国・日本などからの観光客が多い。

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カザフスタン
中央アジアのカザフスタンがカザフステップの中心である。新首都アスタナは大陸性の冷帯湿潤気候Dfだが、実質的には草原ステップが広がる。周辺は肥沃な黒土チェルノーゼムが分布し、景観的にはステップ気候BSである。カザフスタンの人口は1500万人、ロシア人は28%である。カザフスタンにはソ連(ロシア)の核実験場セミパラチンスクと、宇宙基地バイコヌルがある。なお、セミパラチンスク核実験場は、ロシアのカザフスタンからの租借地である。


※ 新都アステナケッペンの気候ではDfだが、周辺はチェルノーゼムの分布する穀倉地帯である。
実質的にはステップ気候BSであり、19世紀からロシア人が侵略をくり返していた。


カザフステップは、中央アジアなど世界各地に分布する、背丈の短いイネ科の草原である。夏か冬には極度に乾燥して草原が枯れるので1年生短草原である。農業に適した肥沃土である。
ケッペンの気候区分のステップ気候BSと、短草原ステップの分布とは一致しない。世界最大のカザフステップは面積で80万k㎡、日本の2倍である。大部分はステップ気候BSではなく、冷帯湿潤気候Dfである。草原ステップは半年間の生育で、あとは枯れて肥料になる。腐植質に恵まれた肥沃な黒色土壌チェルノーゼムができ、家畜飼育と小麦栽培に適している。カザフスタンの大部分がカザフステップである。1998年、ナザルバエフ終身大統領は首都をアルマアタからアスタナに移転した。

カザフスタンの農業
1860年以降はロシアの支配下になった。カザフ人のステップにおける遊牧は辺境に追いやられ、肥沃な黒色土チェルノーゼムの分布地域ではロシア人移民が小麦・大麦の穀物を栽培した。

※カザフステップの遊牧民。羊と馬の飼育。住居は円柱形のヘルである。

1917年のロシア革命後には国名がカザフ自治共和国となり、北部にソフホーズ(国営農場)、南部にコルホーズ(集団農場)で、小麦が生産された。小麦はロシアに輸出された。しかし、ロシア共産党の指導する強制的計画生産であり、実質的にはカザフ人には強制労働が課せられた。労働者・農民の生産意欲が減退し、カザフスタンの農業生産は、常に非効率・非能率であった。
1991年にソ連邦が崩壊すると国営・集団農場はカザフ人の個人農業に戻ったが、機械・資材・肥料不足のために小麦生産量が減少した。小麦生産量が増加傾向に転じたのは2000年以降である。
1991年に大統領に就任したナザルバエフ大統領の独裁政治によって国情が一応は安定し、農業生産も向上安定した。
カザフステップの北部はステップ気候で年降水量は300mm程度である。冬小麦栽培には雨量は不足するし、低温でもある。そのため、春小麦が栽培される。小麦収穫後に、農地を耕起し、冬の間に雨・雪の水分が土中に十分にしみわたらせ、降水量の不足を補う。春小麦は春に植え付け、秋に収穫する。19世紀には移住していたロシア人が、ロシア革命後のソフホーズ・コルホーズを支配していたが、ソ連邦とともに崩壊(1990年)したあと、ロシア人の多くは故郷に戻り、カザフ農民が春小麦を栽培するようになったのである。

カザフステップの遊牧
19世紀にロシア農民の移民が増加すると、ステップの非効率な利用をする遊牧が規制され、カザフ人遊牧民の定住化政策が推進された。ロシア革命後には遊牧禁止がさらに徹底された。定住して始めた小麦栽培は雪害と低温のために全滅し、コルホーズ・ソフホーズは生産目標に到達できなかった。定住を拒否した遊牧民の馬・羊・山羊などのエサが人間の食料になり、貴重な家畜を死なせることになった。
遊牧民は共産主義国家において権力を得るために、国家権力にすりよる勢力と、権力打倒をめざす勢力とに分かれ、内戦に陥りやすい。
カザフスタンの首都移転:ナザルバエフ大統領は、1998年に首都をアルマトイからアスタナに移転した。表向きの理由はカザフ人の手による首都建設が、カザフ民族の意識高揚につながることを期待したからであった。

※ 21世紀の羊飼育は、カザフ人による定着農業になった。


真の理由は、新首都アスタナ周辺にはロシア移民が多く、ロシア人の独立運動を厳しく取り締まることが目的であった。また、旧首都アルマトイはキルギスタンの国境に近く、テロリストの跋扈する治安の問題があったし、おおきな地震がくり返し、復興の財政負担が莫大であった。
カザフスタンはカスピ海とその周囲からの原油採掘量が急増、国民所得も向上した。
ナザルバエフ大統領が、強権による首都移転を決定したことは、ロシアから自立したカザフスタンの存在を、国際的にアピールする目的もあった。大統領府を中心とする新市街地建設計画は国際競争入札で行われ、日本の黒川紀章建築都市設計が落札し、建設を始めた。2007年に黒川のなくなったあとも、黒川紀章建築都市設計事務所が新都市計画を進めている。

カザフスタンの石油資源
2012年のカザフスタンの人口は1,700万人であった。2012年の輸出総額883億ドルのうち、57%は原油である。油田はカスピ海とその周辺に集中している。日本は、原子力発電や自然エネルギー発電には消極的であり、石油・石炭・天然ガスの火力発電が中心である。カザフスタンの原油を日本に輸出するためには中国大陸5,000kmをパイプラインで横断し、中国沿岸からタンカーで日本に運ぶことになる。
カザフスタンにとって最大の問題は、中国大陸のパイプラインが円滑に運用できるかどうかである。また、中国がパイプラインの中途で石油を合法・非合法的に何割かの配分を要求すれば、日本への原油輸出量が不安定になる。中国の存在が、日本の原油輸入の不安定要因となる。
中国の新疆ウイグル自治区ではウィグル人の分離独立運動が絶えない。ウィグル人・カザフ人ともイスラム教徒であり、言語・宗教いずれも共通点が多いし、互いの交流も盛んである。ウィグル独立運動には、カザフ人からウィグル人に、秘密裏に武器・資金が提供されている。
中国がカザフスタンの石油輸送に全面協力すれば、カザフスタンはウイグル人の独立運動と手を切ることになる。ウィグル人の独立運動は実質的に不可能になる。カザフスタンの、日本あるいは日中への原油輸出は、中国のウィグル人独立運動を衰退させる。日本が、カザフスタンの原油を中国横断パイプラインで輸入することは、非常に難しい。



カザフ移住のロシア人
カザフスタンがソ連邦の構成国であった時代、ロシア人はカザフスタンを政治的・経済的に支配するため、ロシア全土からの移民が急増し、400万人以上が移住してきた。
1998年、ナザルバエフ大統領はカザフスタンの首都を、南部のアルマトイから北部のアステナに移転した。カザフスタンの現在の輸出用送油パイプラインは、ロシア人の居住地域を通り、しかも最大輸出先はロシアである。中国大陸横断パイプラインを新設する見通しが立っていない。カザフスタンは、原油をロシア経由でヨーロッパ諸国に輸出しなくてはならなかった。カザフスタンに住むロシア人と友好関係を維持し、ロシア国内のパイプラインを利用するのが、カザフスタンには最大の経費節減になる。
北部の新首都アスタナにカザフ人を集め、ロシア人のロシア併合運動を監視するだけではなく、ロシアとの宥和政策を進め、カザフスタンの原油をロシア国内のパイプラインを利用して第3国に輸出しなくてはならない。ロシア国内のパイプラインがカザフスタンの命運をにぎっている。
カザフフスタンのアスタナへの首都移転は、北部のロシア人独立運動をおさえつつ、ロシアのパイプラインを円滑に利用するためであった。

カザフスタンの遊牧の制限
19世紀、ソ連支配下のカザフステップで、村の境界を越えて遊牧民が移動することが禁止された。定住化による農民生活の生活安定を図るため、遊牧民は禁止された。禁止されても、完全に禁止するだけの行政システムは存在しないので、少しずつは減少しても、全面禁止は不可能であった。
カザフスタンは19世紀には大半は遊牧民であった。1936~1990年はソ連邦に組み込まれ、カザフ=ソビエト社会主義共和国として、コルホーズ・ソフホーズの農民労働組織が作られ、ロシアに輸出するための小麦栽培が強制された。肥沃土チェルノーゼムにおける春小麦栽培は無肥料であっても、雪害のない限り、大量に収穫できた。世界の穀倉地帯とおだてられた。
しかし、カザフスタン農民は小麦栽培の経験に乏しく、ロシア人移住者の指導のままの小麦栽培であった。カザフ人の勤労意欲は乏しかった。降水量と気温の限界における小麦栽培であったため、天候による豊凶の差が大きかった。遊牧民のカザフ人は定着させられるとともに小麦栽培を強制されたが、勤労意欲が乏しかった。ソ連の崩壊後、カザフスタン政府が再建されると、遊牧制限が継続されても遊牧に戻るカザフ人が多く、現在も小麦栽培のできない地域では、伝統的な羊と馬の遊牧が続けられている。


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