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四季の森空間

四季の草花、ゴルフ、旅行

第15回中参歩こう会

2015-05-11 15:45:12 | 歩こう会
<坂戸・聖天宮>                                            15.5.1
聖天宮は若葉駅東口から北東に伸びる道路を進み、明治製菓や三島食品の工場群を過ぎて2.4Kの場所にある。
道は平坦で歩き易く、これまでの歩こう会では一番の平易さである。




駅の西口を出ると、約1.8kmの直線道路が延びており、それを直進する。




暫く進むと左右に公園があり、更に進むと明治製菓や三島食品などの工業団地がある。
これらは工場見学を行っているが事前の予約が必要である。




途中、大きな桐の木があり、紫の花を沢山付けていた。




そして突然、唐突に出現する。
聖天宮である。









いかにも場違いな建物群である。何故こんなところに中国のお宮が!誰もがきっとそう思うのである。
それはこんな経緯があったからなのである。同宮のHPにはこう書かれている。

 『聖天宮建て主は康國典大法師。 四十歳半ばにして不治の大病を患い、ご本尊「三清道祖」と縁起
  をもたれたのを期に一命をとりとめ、完治されました。 深謝の念と、何人にも神様のご利益にあや
  かれるお宮を建てたく建造の地を探していたところ、なんと生国の台湾ではなく日本国のこの地に
  とお告げを授かりました。 聖天宮の名、佇まいや方角もお告げがあり、当時、正面の道、最寄の
  若葉駅もなかった雑木林のこの地を一から整地し昭和五十六年より着工に至りました。 台湾の一
  流の宮大工を呼び寄せ、十五年を掛け、平成七年に聖天宮を開廟しました。』



300円の拝観料を払って中に入る。




中はさらに凄いことになっていた。






















おみくじをやってみる。





一対の木片を床に落として、現れた文字によっておみくじを進める。





これは本殿





一層装飾が凄くなる。
三清道祖の三神が祀られている。





天井の装飾も大変な凝りようだ。






本殿





本殿前の龍の彫り物も一枚の石をくりぬいたものである。
これは「九龍網」で、九頭の龍が彫られている。爪は最強を意味する5爪が彫られている。





本殿から前殿を見る。






客庁で記念写真を撮る。







鼓楼へ登ってみると、前殿の屋根が身近に見られる。






鼓楼から本殿を見る。






聖天宮の前のポピー畑
左は若葉病院、遠景の山は外秩父連山である。






最盛期には聖天宮の前の畑はポピーで埋め尽くされていたそうだ。


 


この時期には珍しく富士も見られた。(写真は大島会長提供)




<行事>
「坂戸よさこい」は10万人以上の見物客がおしよせる全国有数のよさこい祭りで、今年は10月10,11日に行われる。 








<歴史>
14年3月の第7回 中参歩こう会「高麗川ふるさと遊歩道」で歩いた時に、右岸に浅羽城址があったが立ち寄りはしなかった。

★浅羽城(あさば)別名(萱方城・かやがた)坂戸市鶴舞1丁目
遊歩道が関越道を越え万年橋に至る右岸一体が浅羽氏の領地である。浅羽城址は鶴舞運動公園と生越線の中間地点にある。
浅羽氏は武蔵七党の最大勢力の児玉党の一族で鎌倉時代の御家人であった。後に北条氏照の家臣となり秀吉の北条攻めで
落城し、浅羽城は廃城となった。



もう一つは「高麗川ふるさと遊歩道」の終点近くで、城山という小高い丘に登ったが、その頂上にある。
★多和目(たわめ)城は城山とも呼ばれる。埼玉県坂戸市多和目にあり、宿谷(しゅくや)氏が治めたらしい。

坂戸は江戸時代には八王子千人同心街道の坂戸宿として栄えた。八王子千人同心とは家康が甲州口警護と治安維持のた
めに、武田遺臣団を中心として約1000人を八王子に置いた幕臣集団であった。後に平安の世となりそれらの必要性がな
くなると、日光東照宮を警備することが八王子千人同心の主な任務となり、八王子から日光への往還街道が整備されること
になって「八王子千人街道」として整備され、その宿の一つとして「坂戸宿」が設けられた。


後年、幕末にロシアが北海道(蝦夷)に進出の兆しを見せ始めると、防衛強化のため幕府は蝦夷地管理の強化に迫られた。
それに呼応して八王子千人同心から約100人が蝦夷地に渡り開拓と警備に携わった。それが現在の苫小牧であり、それ
が縁で八王子市は苫小牧市と姉妹都市となっている。



坂戸出身の著名人では日本の製紙王と言われた大川平三郎がいる。大川は渋沢栄一と親戚関係だった事もあり、栄一の
設立した王子製紙に入社、その後米国に渡って製紙技術を学んで帰国し、様々な製紙会社を設立し国内製紙市場の45%
を占めるに至って「日本の製紙王」と呼ばれるようになった。埼玉県唯一の財閥「大川財閥」の創始者である。尚、大川平三
郎の祖父である大川平兵衛は川越藩の剣術師範を務めた農民の剣豪であった。


女優の菅野美穂は淑徳大学国際コミュニケーション学部を中退しているが、坂戸からみずほ台まで通っていたのだろう。
彼女の夫は堺雅人。菅野は現在妊娠中だとか。


左は大川平三郎、右はご存知菅野美穂ちゃん
  


帰りには、例によって駅近くの「天狗」で一杯やってきました。


下は四季の森空間の「聖天宮」と「聖天山」です。

「聖天宮」 「聖天山」





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第14回 中参歩こう会

2015-03-11 14:39:43 | 歩こう会
15.03.11
再度東所沢の農家の枝垂れ梅を観に柳瀬川堤防を歩く。
予想に違わず今年も見事な咲きっぷりである。






途中、東京国立博物館の柳瀬荘に立ち寄ったが、開館日は木曜日なのと時間が早くて開いていなかった。

川越街道(国道254)の英ICを300mほど所沢寄りに行って、急な坂道を登ると柳瀬荘がある。





水曜日だけれどもしかして開いているかと思ったが、時間が9時前と早かったこともあり開いていなかった。
休館日でも10時過ぎだと見せてもらえる事もある。






仕方がないので黄林閣の前で写真だけ撮って柳瀬川へ戻る。




「松永安左エ門(四季の森空間)」 もどうぞ!



ここから浦所街道に向けて歩いたが、今朝冷え込んだせいで所々霜柱が立っている。
関越自動車の下をくぐって滝の城址公園で小休止し、枝垂れ梅に向かった。







ここは見事な梅を黙ってご覧ください。

























梅に囲まれて皆にこり!






柳瀬川堤防に戻って金山公園に向かった。

富士山が所沢の街並みの向うに見事に望める。





ここでも富士をバックに記念写真をパチリ。





小さなカメラでは望遠はこれが限度かな!





清瀬金山緑地公園の調整池にカワセミがいた。
カワセミを狙って柳瀬川に巨大な望遠カメラを何人も構えている。

この公園だけが柳瀬川の左岸にあって東京都の区域になっている。






エミュウ本店のパン屋で昼食を摂る
ここから柳瀬川河岸段丘の坂道を少し登って500m行くと武蔵野線の東所沢駅がある。帰りは疲れた
という方は、ここから電車で帰ればいい。





更に柳瀬川を遡り、狭山湖へ向かう柳瀬川と多摩湖へ向かう空堀川が分岐する直前まで行って、小金井街道の
清瀬橋を渡ったところで右岸に渡り引き返した。




ここでもカワセミを狙うカメラが置かれている。









河津桜も咲いている。





この辺りの川辺はよく整備されていて、気持ちよく歩ける。




下流の我がニュータウン近辺の川辺とは段違いの整備がなされている。




志木大橋の下や近辺には、橋下の住人が青いシートで小屋を作って住んでいて、
ゴミが散らかし放題で景観などあったものではない。





この付近にも梅が咲き誇っている。




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第13回中参歩こう会

2015-01-28 13:59:38 | 歩こう会
2015.1.27 
今回は東京の谷中七福神めぐりをした。
山手線の田端で降りて、そこから「谷中七福神めぐり」が始まる。


田端駅の北口を出ると右手に大きな跨線橋(こせんきょう)があり、山手線、京浜東北線を跨いでいる。
跨線橋の更に上には東北・上越新幹線が通っている。




その反対側、つまり山手線の内側には田端切通しがあり、大きなアーチの橋が左右の台地を繋いでいる。
その切通の麓に「田端文士村記念館」がある。ここ田端は大正から明治の初期にかけて芥川龍之介、菊池寛、
萩原朔太郎、堀辰雄、中野重治等の文士が住んでいたからである。
文士村記念館はこの写真の右手にある。





その20mはある高さの切通しを越えて400mも行くと右手に東覚寺がある。福禄寿を祀る寺である。










仁王にはご覧の通り赤い紙がベッタリと仁王が見えない程貼ってある。







この東覚寺に隣接して田端八幡神社があった。
参道に沿って沢山の山車の車庫があった。祭りにはここから繰り出すのだろう。






田端台地の上にあるので30段ほどの階段になっている。
まだ始まったばかりだ、皆軽やかな足取りで登っていく。
写真の右側に「田端富士」がある。富士塚は富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工
の山や塚で各地に沢山ある。我が志木市にも敷島神社に富士塚がある。









鈴を鳴らして、願い事をする。
今年一年を願うのである。






次は西日暮里駅近くの青雲寺である。ここには恵比寿さんが祀られている。
この辺りの山手線の駅間の距離は短く、田端=西日暮里=日暮里=鶯谷=上野全て500mと離れていない。
西日暮里=日暮里間などはなんと386mしか離れていず、電車は発車して直ぐにブレーキを掛ける。

この青雲寺は道灌山通りを挟んで開成高校の反対側にある。西日暮里駅の西側の崖の上にある西日暮里
公園に接している。






枝垂れ桜が植えられており、桜の頃は良いだろう!次に行く直ぐ隣の修性院と合わせて”花見寺”とも
呼ばれている。












滝沢馬琴の筆塚があった。






修性院は青雲寺の直ぐ隣である。






布袋さんを祀る修性院は「日暮(ひぐらし)の布袋さん」とも呼ばれる。






修性院にも桜がある。








花の少ないこの時期、葉牡丹は目立つ。







ルクリア
この花の名前が判らなかったが、今日やっとここで判明した。
インドのアッサム地方原産なんだそうだ。匂いがいいのでアッサムニオイザクラとも言うそうだ。この時期貴重な花だ。ニュータウンの近所にも咲いていた。






かって富士山が良く見られたという富士見坂を上る。







今は高層のマンションが建って殆ど富士は見られないらしい。
これはかって見えた富士の写真で、近くの民家に貼られていた。







富士見坂を登り切った左手に諏訪神社がある。
長野の諏訪神社を分祀したもので、立派な神社である。この辺りの火消「れ組」の氏神でもある。







家光から援助を受け、この辺り一帯の守り神になっていた。







神社の狛犬、相当な年期ものだ!







この神社が建つ諏訪台は江戸有数の景勝地で、広重の江戸百景の「日暮里諏訪の台」にも描かれている。
現在でもここは日本有数の電車観察地として知られている。山手線、京浜東北線、新幹線、高崎線、京成線、
日暮里舎人ライナー、東北本線、常磐線などが眺められる場所でもある。
広重の絵では筑波山、日光の男体山あたりが描かれている。








諏訪神社から谷中銀座へ向かった。
途中、南泉寺があった。





陸軍少年飛行隊兵の慰霊碑がある。
あの知覧から飛び立った飛行兵なのだろうか?
鹿児島の知覧は陸軍の、そして鹿屋は海軍の特攻基地でもあった。特攻では知覧が知られて
いるが、実際には鹿屋から飛び立った特攻機の方が多く沢山の若者が散って行った。







この辺り下町風情がある。








谷中銀座。なんとか銀座は全国の商店街に名前が付いているが、東京にも各地に銀座の名前がついた
商店街がある。







狭い道の両側に小さな商店が並ぶ。





30円のコロッケに人だかりが出来ていた。
これを誰かが買ってくれ、皆で歩きながら食べた。我がペアモールのサンアイ30円コロッケも悪くないですが!










谷中銀座、こじんまりとした商店街だ。






夕やけのスポットで知られる「夕やけだんだん」
ノンフィクション作家である森まゆみさんが、夕やけが美しいのと下町情緒が感じられるとして
「夕やけだんだん」と命名した。(森まゆみさんは筆者とは何の関係ありません、念のため)







「夕やけだんだん」で近くの商店の人に記念写真を撮ってもらう。







この辺り、神社仏閣が誠に多い。恐らく家康が江戸に幕府を開いて沢山造ったのだろう。
但し規模は小さいものが殆どである。









赤白斑の椿が寒中に咲いていた。








谷中観音寺築地塀
これが江戸の雰囲気を伝える有名な塀である。







大道山長安寺は寿老人を祀っている。








谷中霊園からはスカイツリーが近くに望まれる。







谷中霊園には桜の木が多い。向うに日暮里駅前の高層マンションが屹立する。







七代目市川団蔵の墓があった。幕末から明治にかけての役者だそうだ。八代目の墓もあった。





護国山天王寺
日暮里駅の直ぐ近くである。





毘沙門天を祀るこの護国山天王寺は少し規模が大きい。






雪吊り。金沢の兼六園などでよく見られる。







葉牡丹が霜よけの藁囲(わらかこい)に囲まれていた。少々丈足らずのものだね!
「藁ぼっち」というらしい。
上野東照宮の冬牡丹も藁囲に守られて咲いているそうだ。








天王寺の大仏、谷中大仏とも呼ばれる。銅像釈迦如来坐像、身長約4.8m。








谷中霊園
10万m2に7,000基の墓があるそうである。
著名人の墓も多い。







徳川家由来の墓
これは慶喜の墓ではない。そこは柵が巡らされ入ることはできない。
将軍は芝の増上寺か上野寛永寺に埋葬されるが、慶喜は谷中霊園である。その理由は多分以下の
説明が正しかろう。
「朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を
 示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の
 墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円
 墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである」








早咲きの梅が咲いていた。
4月には桜が見事で、花見客が多いそうだ。






川上音二郎
おっぺけぺの音二郎の墓である。大きいなあ!









高橋お伝
毒婦と言われるが、実際は大半は男に問題があったようだ。
斬首刑に処されたが、これ以降の死罪は絞首刑になり、最後の斬首刑だったそうだ。(明治12年/1879年)
しかしその後お伝の墓参りをする人が絶えず、墓参りをすると三味線が上達すると言い伝えられた。
お伝はこの霊園に眠っている。

首切り役人は世襲で、首切りを専門にやっていたそうである。特に女性はいざ処刑の段になる
と取り乱す事が多く一太刀で斬首出来ず修羅場になることも多かったらしい。だから女性の処刑時には、
”今日はもう止めた”と言って落ち着かせ安堵して首を伸ばした瞬間に実施することもあったらしい。
山田浅右衛門は初代貞武の1657年(明暦3年)から1911年の吉亮まで9代254年に渡って続いた。お伝を
切ったのは最後の9代吉亮(明治36年没)であった。







寛永寺
家光が開いた徳川家の菩提寺。6人の将軍がここに眠っている。







ルネ上野桜木マンション
長谷工が手掛けたこのマンションはデザインが凝っている。







風船唐綿(ふうせんとうわた)
12月頃に実が割れて綿毛に包まれた種が飛び出す。1月の末なのにまだ青さが残っている。
風船葛に似ているが、この風船唐綿には毛が生えているのが特徴、毛は柔らかい。







護国院は大黒天を祀る。芸大や上野高校に上野公園の一隅にある。







冬椿が咲いて、いくつも落ちていた。これは匂い椿だろう。

  一つ落ち後はしじまや寒椿   <季語:寒椿>









ここにも藁囲いの下に葉牡丹が植えられていた。







森鴎外が結婚したときここに住んでいた旧居跡。今はホテルになっている。
天然鴎外温泉の旗がはためいていた。














不忍池のオオワシ。
不思議だと思って調べてみると、これは展示されているのだそうです。そりゃそうでしょう!
こんな所にオオワシが飛来する訳がありませんわね!
怪我をして手当したのだけど、飛べなくなったので檻の外に展示されているそうです。







不忍池の枯れ蓮

  枯蓮の不忍池に日も僅か    <季語:枯蓮>








弁天院は名前の通り弁財天を祀っている。







上野京成駅前まで歩いて、今日の歩こう会は終了。








さて、何処で一杯やるか!






高架下の飲み屋でした・・・。
京浜東北線の高架下らしいのだが、電車が通るとガタガタと音がする。でもお酒が入るにつれだんだん
気にならなくなっちゃって。




次回は3月に東所沢の滝の城公園近くの枝垂れ梅鑑賞です。


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