goo blog サービス終了のお知らせ 

モノサシなごや (都市の緑のモノサシづくり)

都市の自然とどうつきあうか?
評価の目安は何だろう?
名古屋の緑を写真に撮って、都市の生物多様性を考えています。

【14-1101】 ☆ デザイン博が変えたもの、残したもの

2014年11月01日 | ☆イベントなど

アコウの木(推定樹齢175年)
鹿児島県肝属郡根占町山本の宮田小学校に生えていたアコウの木。
故あって伐採を迫られていましたが、デザイン博白鳥会場に移植され、オアシス広場でやさしい木陰を提供してくれました。
25年後の今も、国際会議場南の公園でユニークな存在感を見せています。

2014年10月31日
世界デザイン博覧会から25年
デザイン博が変えたもの、残したもの

【主催】 熱田生涯学習センター・熱田区役所・名古屋学院大学
【会場】 名古屋学院大学白鳥学舎 翼館4階クラインホール
【講師】 元(財)世界デザイン博覧会協会事務局・加藤正嗣


今回は、1989年に開催された世界デザイン博覧会の話題(講演会記録)です。
デザイン博の「志」を改めて振り返り、決して一筋縄では行かない「都市の緑」に取り組むヒントが得られればと思います。


◆デ博は、名古屋の文化革命!
当時、日本全体が「重厚長大から軽薄短小へ」と舵を切ろうとしていました。
名古屋もまた、戦後の都市計画による「整然とした均質で機能的なまちづくり」から、「潤いや個性、感性を感じさせるまちづくり」への脱皮を模索していました。
「モノづくりの伝統を生かしながら、21世紀に向けてもう一皮むけるにはどうすれば良いか?」、そんな問題意識も広がり始めていました。
そんなとき、「デザイン」 というキイワードにたどりついたのです。

◆デザイン博は、ムーブメント!
今ではその重要性を誰も疑わないデザインですが、当時はまだ、市民生活には縁遠いものという受け止め方が一般的でした。
おまけに名古屋は、ダサい、エビフリャ~などとバラエティ番組で笑いをとるためのスケープゴートにもされていました。
そんな状況を変えるための「ムーブメント」を起こそう!
デザイン博は、単なるお祭りやエンタメではなく、名古屋が21世紀に向けて脱皮するムーブメントだ!
そう呼びかけたのが、デザイン博でした。
ムーブメントという言葉(思想)を、日本で最初に公式に使ったのもデザイン博でした。

◆制約を個性に変える!
「郊外型・開発型」が一般的だった博覧会を、「都市型・既存ストック活用型」に転換したのも、
会場には一般車駐車場を設けず、「パーク&シャトル方式」へと大胆に転換したのも、
「分散会場+まちじゅうが博覧会」方式によって、多様な参加を実現させるモデルを開発したのも、
元祖「キモカワ」といえるデポちゃんブームも、
  ・・・・
今では当たり前になっている多くのことが、デザイン博から始まりました。
そしてそれは、様々な不利な条件を何とか克服したい! しかし理想は曲げたくない!
そんな悩みの末のブレイクスルーだったのです。

◆デ博がまいた種
堀川をにぎわいと潤いの都市軸に変える取り組みはもとより、
ごみ非常事態宣言、愛・地球博、COP10、・・・多くの取り組みに際して、デザイン博の経験が生かされました。
1989年から25年たった今、改めて、「デザイン博が変えたもの、残したもの」を振り返ってみたいと思います。


■ 講演スライドの一括ダウンロードは  【PDF】

□ FM-DEPO をもう一度聞きたい方は
   開局時の放送(1989.7.1)
   閉幕日の放送(1989.11.26)

デ博閉幕後も放送継続を望む声が殺到し、Zip FMの開局につながりました。
また愛・地球博のFM LOVEARTHにも引き継がれました。


■ 分割してダウンロードしたいときは
第1部 開幕までの歩みと背景  【PDF】
*下記は抄録です(上記の青字をクリックして、ダウンロードしてください)
  ほか
戦前の名古屋は、南北軸(堀川、本町通)に沿って発展しました。戦後は一転して、東西軸(広小路、地下鉄東山線)が主役になりました。
市制100周年事業では、南北軸の再生(名古屋城・堀川・名古屋港に新しい息吹を)が図られました。
当時は、一村一品運動など町おこしの創世紀でした。
我々も当然に名古屋の町おこしをねらったわけですが…、
しかし同時に、「200万都市の名古屋が、名古屋を興すだけで良いのか? もっと普遍的な何かをめざす必要があるのでは?」という思いや、
「大義名分の上滑りではなく、個の思い入れやノリを大切にしたい」 という思いがありました。
そうだ 「夢」 だ! 夢を興そう!
これなら、「グローバルな目線とパーソナルな思い入れ」を統合できる!
こうして、「夢おこし」 というキャッチフレーズが生まれ、デザイナーの山内瞬葉さんがユニークなマークにしてくれました。


第2部 デザイン博はムーブメント!  【PDF】
*下記は抄録です(上記の青字をクリックして、ダウンロードしてください)
  ほか
「博覧会はエンタテイメント」という割り切りが世間で横行する中で、「博覧会はムーブメント!」という 「青臭い志」 を貫きました。
そこには、「ムーブメントにしない限り、二つのギャップを埋められない!」というリアルで切実な認識がありました。
協会職員はもとより、デザイン関係者、出展企業、参加した市民団体、…関係者のだれもがデザインの4文字と格闘しました。


第3部 3会場の個性化  【PDF】
*下記は抄録です(上記の青字をクリックして、ダウンロードしてください)
  ほか、懐かしい風景の数々…
「当初に思い描いた夢のうち半分くらいしか形にできなかったけど、でも、思いもかけなかったことがたくさん実現しましたね」
… そんな泉眞也さん(総合プロデューサー)の言葉のように、
大手企業のパビリオンだけでなく、多様な主体による多様な表現が花開きました。 ムーブメントの醍醐味!です。


第4部 元祖★ネットワーク型博覧会  【PDF】
*下記は抄録です(上記の青字をクリックして、ダウンロードしてください)
  ほか
「窮すれば通ず」のことわざ通り、苦肉の策から新しいスタイルが生まれました。

第5部 元祖★キモカワ  【PDF】
*下記は抄録です(上記の青字をクリックして、ダウンロードしてください)
  ほか
博覧会協会職員の勝手連「デポちゃんクラブ」も大暴れしました。
ノーベル賞輩出の名古屋大学のように、「現場の自由な発想と行動が許される雰囲気」が、当時の博覧会協会にはありました。
これも、デザイン博の貴重な財産でした。


第6部 デ博の播いた種  【PDF】
*下記は抄録です(上記の青字をクリックして、ダウンロードしてください)
  ほか
スライドには書き洩らしましたが、名古屋市立大学芸術工学部の誕生(1996)も、デザイン博の成果です。
このほかにも、継承すべきものがたくさんあると思います。
ご意見を、お寄せください。




最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
88年・ブリスベンのEXPO88 (井上忠佳)
2014-11-02 00:26:04
前年の88年オーストラリア・ブリスベンのEXPO88に勤務(副館長)していました。西尾市長(デポちゃん人形持参)、名大・月尾教授、市会議員団他多数名古屋から視察がありました。川沿の会場でのリバークルーズの有効性(日本からも伊勢市大湊の剛力造船所で作成した屋形船持参)。当初は入場者600万人程度と見込んでいたのが大誤算で実際は延1800万人もの入場者となった数々の理由、夜のイベント終了後の混雑分散対策等は参考になったとおもいます。
返信する

コメントを投稿