空に問う。

空に問うても果てがない

2015-07-28 10:46:46 | 日記
家から自殺の名所が見える風景・・・・想像してみてください。最近は減ったけど、目の前にマ〇〇大橋ってのがあって、結構な方が亡くなっています。昨日はその橋を渡ってウォーキング・・。途中、端の上から二度飛びたくなった(笑)。それくらい精神的には変かナシ。

東南の物置に張った結界&神札・・。絶対に嫌がらせみたいに「何」か来ると踏んでいたら、やっぱり来た。泥棒が入った形跡はないけど、空海&梵字+モリオン+スギライトのブレスが霧のように消えた。で、冷蔵庫は壊れ、エアコンは一台オシャカ。まあ、こういうのを「偶然偶然!!」と笑い飛ばせるほどの「普通」の感覚がとうにないのである。

※ちょっとブレーク。神域を犯すな、柵があるのに侵入するな、って神社のパワースポットに一言申すみたいな記事があった。それは先月お邪魔した出雲の須佐神社での話だった。本殿の裏に樹齢千年級の巨木の杉があって、それを擦ると病気が治ると言う。ここでのお話は40代の夫婦が柵を乗り越えて、幹に触れようとした話。

おいら怖くて、御神木なんか触ったことがない。それくらい神社って子供の頃から怖い場所であった。何故ならば爺さんから「神社は神さんのお墓だから遊んだり騒いだりしてはイケない」と言われてきたから。・・そういう意味では「罰当たり」な行為なんてしたことがない。正確にはただ一度神聖な場所を穢してしまった事はある。で、後悔。行くたんびにたくさんの硬貨の賽銭を作って、何度も何度もお詫びに行った。謝罪は通じたような、通じなかったような(笑)。でも、悪いことをした気持ちってどんどん心を侵食していって、暗い闇を作り上げて、魔を引き寄せる。バチってシステムだからね。そういう仕組みを心に持っていない人には祟りも呪いもかからない。でもそういう人は不慮の事故や当然の病で亡くなったりしているんだろう。生きることが苦しみって言う、おいらみたいなケースもあるわけだ。

やっぱりおいら、十六歳の時、死ぬ定めだったんじゃないのかなぁ。何故だか、そう思う。アメリカのホラー映画ファイナル・ディスティネイションのように一度「死」に魅入られたら、絶対にいつか死に追いつかれるって話を思った。本当は今生きてる「自分」は、それ以前の「自分」とは違うのではないかと思ったりもしたし、それからM田市の人を呪う神主一家に巡り合ったし。良い出会いはなくなったし、出会い運はなくなったなぁと思う。少しずつ奪われて行ったような気がする。北風と太陽みたいに、自然な力で、自然な流れで・・・・・・。

まあ、注連縄がしてあったり、柵が設けてあると言う事は進入禁止を意味するので、入らないように。神域を犯すとひどい目に合うかもしれません。なぜなら神が人間の幸福や願い事を聞き届ける謂れなんて古今東西ないからです。神は怖いから”祟らないで、障らないでください”と崇め奉るものであって、神が行うすべての事は善なのだから。例えば結果的に死んでも、それも善なのだから。

*****で、元に戻す。

まっ、お気に入りの数珠だったけど、きっとどこかで不注意にも落としたのだと思う。身代わりになってくれたわけでもないんだろう。持ってたら今度こそは「守られるんじゃないか」っていうおのれの惨めな願望が躓きの原因だったのかも知れない。

偶然にも今年に入って真言宗御室派の寺院に参った。で、霊能者の方に、広島の寺院で憑りつかれたと言われた。で、気になったのでお守りとか処分した・・・・。真言宗にもいろいろ宗派がある。けど、開祖は同じ弘法大師空海。それなのに改めてまたまた空海=弥勒菩薩信仰ってキーワードに惹かれて魔除けグッズ持ったって、それはかなり手前勝手だし、ご都合主義ですよね。だから、まるでバチに当たったように数珠を落としてしまった。ついでに弱い心を思い知った。思い出して、また死にたくなった。もうそういう繰り返しで、そういうサイクルの中にあるのかも。

でも死ねないからそのサイクルから出ないといけない。

神とも、仏とも、距離を置いた方がいいみたいだ。今のおいらはそれくらいには穢れてる・・・・・。

不用意に開運グッズやパワースポットに行かないように。叶うときもあれば、叶わない時もあります。

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