新太郎が出て行った後、大吾はしばらく立ち上がることが出来なかった。
新太郎の怒鳴り声が、自分へ向けられた怒りと悲しみの目が、頭から離れなかった。
そして何より、突きつけられた言葉のすべてが、言い訳を許さず大吾の胸を刺した。
「何で俺ばっかりこんな目に合うんだよ……」
口に出してしまうと悔しさで涙が溢れた。
容姿も才能も申し分なく、温かな両親の愛情に恵まれた大吾は、常に周囲の期待と羨望を受けて育ってきた。
しかし、天恵とも言うべきそれらの幸運と引き換えに、運命は大吾から様々なものを奪っていった。
父を亡くし、新たに始まった海星高校での生活は惨憺たるものだった。
佐和子を守れなかった自責はいつまでも大吾を苦しめ、
話し相手の居なくなった学校の中でただ独り、自らを戒め続けた。
ほどなくして新太郎に出会い、一旦は幸せな時間を過ごしたが、
それは新たな苦しみと葛藤の始まりでもあった。
大吾は新太郎を好きになってしまった。同姓を好きになるということがどういうことなのか、
そして、異性愛者である新太郎を好きになってしまった自分にどんな結末がまっているのか、
大吾は心の奥深くで静かに見据えていたのかもしれない。
しかし、彼はどんなに辛くても歯を食いしばり、いまにも消えそうな微かな希望をひたすら信じた。
この困難の先に、必ず光り輝く未来があると。
大吾は立ち上がってグラスの水を一気に飲み干すと、
流れる涙を乱暴に拭い、頭を振って自分に言い聞かせた。
――運命は俺から新太郎を引き離そうとしている。
そんなの最初からわかってたことだろ、今さら落ち込んでどうする。
俺は自分の道を信じる。それだけだ。
++++++++++
翌日。
マメ柴と佐々木が大吾のためにささやかなさよならパーティーを開いてくれた。
がらんとした部屋の中で持ち寄ったお菓子を広げ、他愛のない話で盛り上がった。
マメ柴は新太郎に何度電話しても出なかったことを愚痴り、
佐々木は話の途中で携帯から何度か新太郎へ電話を入れた。
しかし、呼び出し音が鳴るばかりで結局電話は繋がらなかった。
夜になり、マメ柴と佐々木は明日の朝も見送りにくると約束して帰っていった。
大吾は温もりのなくなった殺風景なキッチンに立ち、シンクの縁をそっと撫でる。
母が料理を作っていた姿が浮かび、心の中で「ありがとう」と呟いた。
――これからは叔父さんの家で世話になる。お袋、一緒にがんばろうな。
そうして思い出の刻まれた全ての部屋に別れを告げ、カーテンのない窓から空を見上げた。
夜空には美しい満月が輝いていた。
――親父、俺たちのこと、そっから見守っててくれよ。
大吾は月に向かって小さく微笑むと、
内ポケットに入った封筒を確認し、ジャケットを着て玄関を出た。
++++++++++
「新太郎、あんたどうしたの? 具合が悪いなら病院に連れてってあげるわよ」
「いいよ、べつにどこも悪くないし」
俺は頭から布団をかぶったまま答えた。
「変な子ねえ……夕飯はどうするの? もうできてるわよ」
「食欲ないからいい……とりあえず出てってくれよ」
「まったく、どうしたっていうのよ……」
母さんは小言を言いながら部屋を出ていった。
俺は昨日からほとんど飲まず食わずで部屋にこもっていた。
泣き疲れては少し眠り、目を覚ますと罪悪感と苛立ちの中で、先輩のことばかり考えた。
思えば正月の旅行のときから先輩の様子は少し変だった。
酒に酔ったあの時もそうだ。
「新太郎、絶対に忘れないでくれ。
今日見た夜空も、こうして二人で抱き合ったことも、絶対にだ。
いつか俺達が年をとって、何もかも思い出になっても、
この日のことだけは、何度も何度も思い出してくれ。
まるで昨日のことみたいに、こうして手を伸ばせば俺の体に触れられるように、
今日という日はいつだって俺達のすぐ傍にある。いいか、忘れるな。絶対だぞ」
先輩はこうなることがわかってたんだ。
俺は枕元に投げ捨てた携帯電話に目をやった。
昨日も今日も何度も携帯が鳴った。
微かな期待を胸にディスプレイを見ては、
表示されたマメ柴と佐々木先輩の名前に落胆した。
時間が経つにつれ、俺の怒りは罪悪感に変わっていった。
考えれば考えるほど、取り返しのつかない自分の言葉が恥ずかしくなった。
父親も居ない、おばさんまであんな体になってしまった先輩のことを、
俺があんなふうに責めることなんて出来るわけないのに……。
自分のことばかり考えてるのは、俺のほうじゃないか……。
それでも俺は先輩に謝ることができなかった。
電話を握り締め、何度もボタンを押そうとしてやめた。
どうしても先輩の方から先に何か言ってもらいたかったんだ……。
++++++++++
夜になり、風呂に入った。
それから冷蔵庫にあったものを少し食べて、自分の部屋にもどった。
明日の朝、先輩はこの町から居なくなってしまう。不思議と気持ちは落ち着いていた。
俺はもう一度携帯をチェックしたが、先輩からの着信はなかった。
小さなため息をつくと、胃に不快感が広がった。
その時、
「ワンワン! ワンッ!」
コロンが吠えながら部屋のドアを叩いている。
いつものようにドアを開けてやると、コロンはすぐさま窓際まで駆けていき、
閉められたカーテンに向かって執拗に吠えた。
「どうしたコロン、夜なんだからあんま吠えるなよ」
「ワンワンワンッ!」
「何だよ」
コロンは何か訴えるような目で俺を見ると、またカーテンに向かって吠えた。
「もしかして外になんかあるのか?」
俺は窓際に行ってカーテンを開いた。
「あっ……」
空には美しい満月が輝いていた。
「綺麗だなぁ~……コロン、お前これが見たかったのか?」
俺は月が見えるようにコロンを腕に抱いてやった。
「ワンワン!」
「何だよ、そんなに吠えなくてもちゃんと見えるだろ、ほら」
「ワンワンワン!」
「わかったよ、うるさいなぁ。外に連れてって見せてやるから、ちょっと待ってろ」
俺はリードを付けてコロンと外に出た。
少し外の空気を吸いたかったのもある。
玄関を出てふと郵便ポストを見ると、
取り出し口の隙間から黄色い紙のようなものが出ているのに気づいた。
「ん? なんだこれ」
「ワンワンワン!」
中を見るとパンダの絵が載った黄色い封筒が入っていた。
表に住所が書かれていないのを見て、一気に心臓が高鳴る。
裏にはただ一言、「新太郎へ」と書かれていた。
その大人びた綺麗な書体は、紛れもなく先輩の字だった。
つづく。
新太郎の怒鳴り声が、自分へ向けられた怒りと悲しみの目が、頭から離れなかった。
そして何より、突きつけられた言葉のすべてが、言い訳を許さず大吾の胸を刺した。
「何で俺ばっかりこんな目に合うんだよ……」
口に出してしまうと悔しさで涙が溢れた。
容姿も才能も申し分なく、温かな両親の愛情に恵まれた大吾は、常に周囲の期待と羨望を受けて育ってきた。
しかし、天恵とも言うべきそれらの幸運と引き換えに、運命は大吾から様々なものを奪っていった。
父を亡くし、新たに始まった海星高校での生活は惨憺たるものだった。
佐和子を守れなかった自責はいつまでも大吾を苦しめ、
話し相手の居なくなった学校の中でただ独り、自らを戒め続けた。
ほどなくして新太郎に出会い、一旦は幸せな時間を過ごしたが、
それは新たな苦しみと葛藤の始まりでもあった。
大吾は新太郎を好きになってしまった。同姓を好きになるということがどういうことなのか、
そして、異性愛者である新太郎を好きになってしまった自分にどんな結末がまっているのか、
大吾は心の奥深くで静かに見据えていたのかもしれない。
しかし、彼はどんなに辛くても歯を食いしばり、いまにも消えそうな微かな希望をひたすら信じた。
この困難の先に、必ず光り輝く未来があると。
大吾は立ち上がってグラスの水を一気に飲み干すと、
流れる涙を乱暴に拭い、頭を振って自分に言い聞かせた。
――運命は俺から新太郎を引き離そうとしている。
そんなの最初からわかってたことだろ、今さら落ち込んでどうする。
俺は自分の道を信じる。それだけだ。
++++++++++
翌日。
マメ柴と佐々木が大吾のためにささやかなさよならパーティーを開いてくれた。
がらんとした部屋の中で持ち寄ったお菓子を広げ、他愛のない話で盛り上がった。
マメ柴は新太郎に何度電話しても出なかったことを愚痴り、
佐々木は話の途中で携帯から何度か新太郎へ電話を入れた。
しかし、呼び出し音が鳴るばかりで結局電話は繋がらなかった。
夜になり、マメ柴と佐々木は明日の朝も見送りにくると約束して帰っていった。
大吾は温もりのなくなった殺風景なキッチンに立ち、シンクの縁をそっと撫でる。
母が料理を作っていた姿が浮かび、心の中で「ありがとう」と呟いた。
――これからは叔父さんの家で世話になる。お袋、一緒にがんばろうな。
そうして思い出の刻まれた全ての部屋に別れを告げ、カーテンのない窓から空を見上げた。
夜空には美しい満月が輝いていた。
――親父、俺たちのこと、そっから見守っててくれよ。
大吾は月に向かって小さく微笑むと、
内ポケットに入った封筒を確認し、ジャケットを着て玄関を出た。
++++++++++
「新太郎、あんたどうしたの? 具合が悪いなら病院に連れてってあげるわよ」
「いいよ、べつにどこも悪くないし」
俺は頭から布団をかぶったまま答えた。
「変な子ねえ……夕飯はどうするの? もうできてるわよ」
「食欲ないからいい……とりあえず出てってくれよ」
「まったく、どうしたっていうのよ……」
母さんは小言を言いながら部屋を出ていった。
俺は昨日からほとんど飲まず食わずで部屋にこもっていた。
泣き疲れては少し眠り、目を覚ますと罪悪感と苛立ちの中で、先輩のことばかり考えた。
思えば正月の旅行のときから先輩の様子は少し変だった。
酒に酔ったあの時もそうだ。
「新太郎、絶対に忘れないでくれ。
今日見た夜空も、こうして二人で抱き合ったことも、絶対にだ。
いつか俺達が年をとって、何もかも思い出になっても、
この日のことだけは、何度も何度も思い出してくれ。
まるで昨日のことみたいに、こうして手を伸ばせば俺の体に触れられるように、
今日という日はいつだって俺達のすぐ傍にある。いいか、忘れるな。絶対だぞ」
先輩はこうなることがわかってたんだ。
俺は枕元に投げ捨てた携帯電話に目をやった。
昨日も今日も何度も携帯が鳴った。
微かな期待を胸にディスプレイを見ては、
表示されたマメ柴と佐々木先輩の名前に落胆した。
時間が経つにつれ、俺の怒りは罪悪感に変わっていった。
考えれば考えるほど、取り返しのつかない自分の言葉が恥ずかしくなった。
父親も居ない、おばさんまであんな体になってしまった先輩のことを、
俺があんなふうに責めることなんて出来るわけないのに……。
自分のことばかり考えてるのは、俺のほうじゃないか……。
それでも俺は先輩に謝ることができなかった。
電話を握り締め、何度もボタンを押そうとしてやめた。
どうしても先輩の方から先に何か言ってもらいたかったんだ……。
++++++++++
夜になり、風呂に入った。
それから冷蔵庫にあったものを少し食べて、自分の部屋にもどった。
明日の朝、先輩はこの町から居なくなってしまう。不思議と気持ちは落ち着いていた。
俺はもう一度携帯をチェックしたが、先輩からの着信はなかった。
小さなため息をつくと、胃に不快感が広がった。
その時、
「ワンワン! ワンッ!」
コロンが吠えながら部屋のドアを叩いている。
いつものようにドアを開けてやると、コロンはすぐさま窓際まで駆けていき、
閉められたカーテンに向かって執拗に吠えた。
「どうしたコロン、夜なんだからあんま吠えるなよ」
「ワンワンワンッ!」
「何だよ」
コロンは何か訴えるような目で俺を見ると、またカーテンに向かって吠えた。
「もしかして外になんかあるのか?」
俺は窓際に行ってカーテンを開いた。
「あっ……」
空には美しい満月が輝いていた。
「綺麗だなぁ~……コロン、お前これが見たかったのか?」
俺は月が見えるようにコロンを腕に抱いてやった。
「ワンワン!」
「何だよ、そんなに吠えなくてもちゃんと見えるだろ、ほら」
「ワンワンワン!」
「わかったよ、うるさいなぁ。外に連れてって見せてやるから、ちょっと待ってろ」
俺はリードを付けてコロンと外に出た。
少し外の空気を吸いたかったのもある。
玄関を出てふと郵便ポストを見ると、
取り出し口の隙間から黄色い紙のようなものが出ているのに気づいた。
「ん? なんだこれ」
「ワンワンワン!」
中を見るとパンダの絵が載った黄色い封筒が入っていた。
表に住所が書かれていないのを見て、一気に心臓が高鳴る。
裏にはただ一言、「新太郎へ」と書かれていた。
その大人びた綺麗な書体は、紛れもなく先輩の字だった。
つづく。