「ひとひらの紅葉揺れるや朝露天」
料理評論家の山本益博の著書に、「味な宿に泊まりたい」(新潮社文庫)という大変魅力的な一冊がある。日本の一流和風旅館のガイドブックの体裁を取っており、行動派山本益博の和風旅館を極める情熱が読者にぐいぐいと伝わってくる好エッセイである。18の旅館での宿泊と食事の体験を軸に構成されており、まず最初は「旅のはじまりは京都から」の炭屋旅館から始まる。『手入れのよく行き届いた庭を横目に眺めながら、廊下伝いに仲居さんの後について部屋へ入った。日本建築のよさをほとんど知らないままに育ってしまった私でも、部屋に通された一瞬に感じるこの静謐なたたずまいを美しいと思う。お膳を中心として、什器類のいっさいがあるべきところに整然とおさまって置かれてある美しさ。それはまた、一分の狂いや隙のない端正なたたずまいでもある。その無駄をはぶいて抑制のきいた部屋は、日本人であるならば美しく思わない人はいないであろう。かっての日本人の生活様式に根ざした文化や美学や思想が日常から失われて久しく、それが一流旅館にはいまだに色濃く残っているということなのだ。四季に応じての部屋や調度品の模様替え、毎日職人を入れて手間隙をかけて季節の風情を維持している庭、檜の香り豊かな風呂、選び抜かれた器と素材を生かした繊細な料理の数々。時間を作り、お金をかけて、その贅を味わう価値がある。・・・』。最後の18番目は「夢はこの宿の常連」というタイトルの同じく京都の俵屋旅館の体験談で締めくくられる。『京都では、俵屋・柊屋・炭屋が御三家と呼ばれている。ともに京都の街中に位置し場所は近い。それぞれ三軒ともユニークで質の高いおもてなしがある・・・』。その中で、山本益博は、もてなしのきめ細かさで言えば俵屋が出色で、俵屋の常連客になることが夢であると語っている。
「味な宿に泊まりたい」には随分とお世話になった。何度も読み返したし、お客様の招待に利用させてもらったり、思い切ってプライベートで利用した旅館もある。少し不満なのは、この本では修善寺の「あさば」がしっかりと紹介されていないことである。山本氏が何故省略したのか真意は解らぬが、それでも付記として、『もし修善寺まで足をのばされるのなら、「あさば」がお奨め。その食事は最近一層磨きがかかり、高品質で無駄がなく洗練され、旅館最高峰の食事のひとつといって過言ではない』と短くコメントはしてくれている。
その「あさば」に、15年ぶりに訪れる機会を得た。創業三百年を超える老舗旅館で当代主で10代目。600坪の中庭に浮かぶ能舞台や建物の外観と心安らぐおもてなしに変りはないものの、部屋のしつらえは確実に新しくメンテナンスがなされており、旅館としての魅力は明らかに進化している。料理は洗練の極みでありながら、客の緊張を溶き解いてくれる優しさと暖かさに溢れている。名物の「穴子の黒米すし」もしっかりと伝統の味を受け継いでいる。「あさば」を語るに多くの言葉は必要あるまい。日本人に生まれてよかったと、つくつ゜く感じることができた一泊だった。最後に、若女将が素晴らしい美人だったことを付け加えておく。(11-11-16)