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骨董美術の紹介
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神武天皇 明治天皇御製 源朝臣重則拝寫 芝仙謹寫

2015年12月15日 | 掛け軸
神武天皇 明治天皇御製 源朝臣重則拝寫 


絹本


芝仙謹寫


橿原神宮

祭神: 神武天皇
     媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)
     (日本書紀にでてくる神武天皇の皇后)
場所: 橿原市久米町934

明治8年に奈良県が当時の教部省に対し、神武天皇即位の地である橿原宮の旧地に神宮創建の請願を行いました。
それが認められたのが明治22年。そして翌23年に明治天皇から下賜された京都御所の賢所(かしこどころ)と
神嘉殿(しんかでん)をもって本殿と拝殿として創建されました。

 
 橿原のとほつみおやの宮柱
   たてそめしより国はうごかず

 橿原の宮のおきてにもとづきて
   わが日本(ひのもと)の国をたもたむ
                  

              明治天皇御製

橿原の とほつみおやの 宮柱みやばしら たてそめしより 国はうごかず

これは、我が国体の尊厳と国礎の鞏固にして動かざることを述べて、感恩報謝の意を
歌われたものと拝察申し上げます。
橿原の遠つ御租則ち、神武天皇が天下を平らげて大和の橿原の地に宮柱を太敷ふとしき建
てて皇居を造営し、以て建国紀元一年の基をお開きになられてからこの方、
二千五百六十九年(明治四十二年の御製)の久しき今日まで、国の礎は微動だにせず、
真に尊い国柄ですがこれと申し上げるのも全く皇祖、神武天皇の御恩によることで、
何とも感謝に堪えない次第であるとの大御歌です。
顧うに、建国以来二千余年の間には、いろいろ重大な事変もあり、外寇もあり、或いは
藤原氏の専横となり或いは幕府の執政となって幾変化して来たけれども、神国日本は、
八面玲瓏として東海の天に屹然せる富士の霊岳の千古万古変わらざるそれの如き有
様です。




児島高徳の図 春仙

2015年12月15日 | 掛け軸
児島高徳の図 春仙


絹本


児島 高徳(兒嶋 、こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる、備前国児島郡林村出身[2]の武将。従五位下・備後守を賜る。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。
元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。
江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師と同一人物とする説や、高徳を地元の山伏勢力出身と見る説もある。


大正時代の初めに文部省の『尋常小学唱歌』の一つとして編まれた。

詩吟「児島高徳桜樹に書するの図に題す」斎藤監物