北村西望 悠々 虎銅像 2016年02月29日 | 骨董美術品 北村西望 悠々 虎銅像 (共箱裏には修復箇所があります。) (台には共箱はありません。) 北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。 日本を代表する美術家のひとり。代表作に大作の「長崎平和祈念像」がある。文化勲章受章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。日本彫刻会では西望の功績を称え同会展覧会における最優秀作品に「北村西望賞」(単に「西望賞」とも)の名を冠している。
旭日章 受賞記念 銅製 湯沸 小野作 2016年02月29日 | 骨董美術品 旭日章 受賞記念 銅製 湯沸 小野作 薄い銅製で重量はとても軽いです。(特に鉄瓶と比較して) 旭日章 旭日章は、1875年(明治8年)4月10日に、日本で最初の勲章として勲一等から勲八等までの8等級が制定された。翌1876年(明治9年)には旭日章の上位に大勲位菊花大綬章が新設され、1888年(明治21年)にはさらにその上位に大勲位菊花章頸飾が置かれた。また、同じ1888年(明治21年)には、勲一等旭日大綬章の上位に勲一等旭日桐花大綬章が追加制定され、旭日章は9等級で運用された。2003年(平成15年)の栄典制度改正では、勲等の表示をやめ、桐花大綬章を旭日章の上の桐花章とするなど、大幅に整理され、旭日章は6等級で運用されることとなった。また、制定以来、旭日章の授与対象は男性に限る運用が行われていたが、この栄典制度改正の際に男女等しく授与される勲章となった。 旭日章は、「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者」に授与すると定められ(勲章制定ノ件2条1項)、具体的には「社会の様々な分野における功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた者を表彰する場合に授与する」とし、内閣総理大臣などの職にあって顕著な功績を挙げた者を表彰する場合に授与される(「勲章の授与基準」[1])。詳しくは#授与基準を参照。 2003年(平成15年)に行われた栄典制度改正[2]により、「勲○等に叙し旭日○○章を授ける」といった勲等と勲章を区別する勲記及び叙勲制度から、「旭日○○章を授ける」という文章に改正された。なお、改正時の政令附則により、改正前に授与された者は改正後も引き続き勲等・勲章とを分けた状態で有しているものと扱われる。 旧制度では、勲一等旭日大綬章の上に勲一等旭日桐花大綬章を持ち、「同種類の勲章の同一の勲等の中でさらに上下がある」という特殊な運用形態がとられていた。この勲一等旭日桐花大綬章は、旭日章八等級の制定の13年後に旭日章の最上位として追加制定されたものである。当時の宮中席次によれば、金鵄勲章の功級は同じ数字を持つ勲等より上位に位置づけられており、これに従い功一級金鵄勲章は勲一等旭日大綬章よりも上位にあったが、勲一等旭日桐花大綬章だけは例外的に功一級より上位に位置づけられていた(勲一等旭日大綬章は「第1階第18」、功一級は「第1階第14」、勲一等旭日桐花大綬章は「第1階第13」)。
大日本文政年整鋳 村田整 2016年02月28日 | 骨董美術品 大日本文政年整鋳 村田整 此の作家は、江戸時代後期、江戸に生まれ、神田龍閑町に住し、 通称を総次郎、別号に整北玉叟と号した。 置物・花瓶・水盤・仏具等、多様な作品を残し、 中でも、新宿花園神社の唐獅子一対(文政4年 造立)は代表作、 また、仏具一式が国立博物館に展示されています。 彼の名が一躍世に知られたのは、文化12年東照宮二百年忌に際して、 将軍家斉及び紀州候より、日光山に進献する幣串の台の製作を命ぜられたからである。 本姓は木村氏で、田村家の後見となり両氏を合わせ村田と言う。 門人には、木村渡雲と栗原貞乗等が居る。 田川武の門人で、鋳金家(蝋型鋳造の名手)として一家を成した人物です。 初代整(1761年8月13日 生まれ、1837年11月24日 没)の後は、 子供が幼かった為、養子で弟子の木村渡雲(岩手県出身)が二代目整となり、 後に、初代の子(仙次郎)が三代目整となっています。 辞世の句に、『極楽も地獄もままよ死出の旅ここは追分ちょっと一杯』