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骨董美術の紹介
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梅花 中国美術 王寵 瀧西邊景昭ほか

2015年12月22日 | 掛け軸
梅花 中国美術 王寵 瀧西邊景昭ほか

絹本

(儀塘王溓?)

(瓊素樹秀 趙柔沖?)


 瀧西邊景昭


王寵
読み方:おう ちょう

明代の画家。江蘇省蘇洲生。字は履仁、のち履吉、別号に雅宜山人。諸生となり、度々科挙に応じたが終に及第しなかった。詩・書・画を能くし、書は虞世南・王献之に私淑し一家を成した。画は黄公望倪瓉の法に学び、山水を能くして、文徴明の後第一とされる。また篆刻は文彭と並び称された。嘉靖12年(1533)歿、40才。




彩色山水

2015年12月22日 | 掛け軸
彩色山水

紙 

田能村直入?
Chokunyu Tanomura

日本画, 南画家

1814 ( 文化11 )~ 1907 ( 明治40 )

本名:本姓)三宮、幼名)傅太(伝太)、松太、癡
通称:傅太
字:顧絶
号:直入、小虎、小虎散人、笠翁居士、画仙堂、忘斎、幽谷斎、山樵、青湾漁老、飲茶主人、青椀、青入山樵

【出身地・師系】
豊後国(大分県)出身 師、田能村竹田、篠崎小竹、大塩平八郎

【門下】
山田介堂、田近竹邸、上田琴風、初代三浦竹泉等多数

【所属・任】
日本南画協会設立同人、京都府画学校初代校長

【略歴・作風など】
9歳の頃同郷の画家であった田能村竹田に画を学び、その後、技量を買われて養子となる。
また、1840年頃には大坂で篠崎小竹に儒学を学び、大塩平八郎、富岡鉄斎らと煎茶を通じて親交を深め、画家としても認められ始める。
また、62年には青湾茶会(煎茶の茶会)を発起・主催して絶大な名声を上げている。
68年には京都に居を移し京都府画学校の設立に参画(80年開校)、校長に就任するなど後進の育成に尽力、さらに96年には鉄斎らと共に日本南画協会を設立、近代日本画、南画界に多大な貢献を示した。
画題は山水、人物、鳥獣、動物、草花と多岐にわたりその中でも精密な描写と雄大な迫力生命力を表現した南画山水に秀作が残り、画に漢詩による賛を付した作品が多い。
明治40年1月21日93歳で没す。

〔主な作品所蔵館〕
京都国立博物館/山梨県立美術館/泰阜村立学校美術館/飯田市美術博物館/滋賀県立近代美術館/山種美術館など

〔印 名〕
「白玉水生」 「田癡之印」 「田癡」 「癡」 「白雲青山」 「畑雲洞史」 「観紹氏」 「直入居士」 「直入山史」 「直入山人」 「雲外賞」 「粟?山樵」 「幽谷斎」 「幽谷斎生人」 「一字荘中」 「味外?味」 「友山」 「竹翁」 「竹翁居士」 「小虎」 「臨済正宗四十世」 「大阿羅漢真像五百幅之壹」 など

〔市場評価〕★★★


鶴僊 高田鶴僊 (高田鶴仙)  短冊 6枚 

2015年12月22日 | 掛け軸
鶴僊 高田鶴僊 (高田鶴仙)  短冊 6枚 

絹本

高田鶴僊(高田鶴仙)
Kakusen Takada

日本画

1876 ( 明治9 )~ ( ? )

本名:耕造

【出身地・師系】
東京出身。 師、小堀鞆音、在原古玩

【略歴・作風など】
詳細な歴は不明であるが1901年に「浮世絵の伝統を生かした新しい風俗画」の創生をコンセプトに鏑木清方を中心とした美術団体「烏合会」の創立メンバーに名を連らねている。

〔印 名〕
「鶴仙」など

〔市場評価〕☆