第6話/元祖ぴーなっつ人形・後編

2006-09-09 11:52:47 | Weblog
殻つき落花生の忠臣蔵より松之廊下の場面
 お雛様を作って以後は単品の人形を作っていたが、8年間の空白の後は何か群像の大作にチャレンジをしてみたくなってきた。
 大作というと「忠臣蔵」しか思い浮かばないところがおじさんと呼ばれる年令になってしまっている証拠で悲しい。
 最初息子に落花生でニワトリを作ったときから数えると中断の期間もあったが10年近い日が経ち、幼稚園児だった息子は中学生になり、まだ若い父親だった私はもう40才の峠を越えていた。

 とにかく忠臣蔵にとりかかることにしたが、大作を作るにはそれなりに気力が充実していなければ完成はおぼつかないと、その気力を試すために、登場人物が一番多い吉良邸の門前に勢ぞろいした四十七士の場面を作作ってみることにした。
 お雛様を作ったときの経験から、衣装は特徴的な白い襟と袖だけにして、その襟には資料を元に一人ずつ名前を書き込み、それぞれに刀、槍、弓などの得物を持たせると殻つき落花生たちはすっかりその気になってそれぞれの役割を演じ始めた・・・。
 正確に言えば、落花生が演じ始めたと言うより私がその気になってきたのであって、より気力がみなぎって来た。
 気力がないと作れないのではなくて、作っているうちに気力が湧いて来るのだった。
 数日かけて人形が揃うと、次には昔の映画の資料から吉良邸の写真を探し出して背景を作ってみる。

 四十七士の勢ぞろいの場面で自信を付けた私は、振り出しの松の廊下の場面に戻って物語の順を追って忠臣蔵の名場面を作り始めた。
 毎日夜になると、仕事場を片付けて人形師となって忠臣蔵作りに励み、9場面の忠臣蔵が出来上ったときにはまた半年以上の月日が過ぎていた。
 これを机の上に並べて眺めていると、自分だけでなく誰かに見せたくなって来る。
 友だちを呼んで見せているうちはいいが、展覧会を開いて世間の人に見てもらいたくなってきたから、人形作りはもう病気である。

 殻つき落花生で作ったユニークな人形は、どこかの民芸品でありそうな気もするが、私はまだ見かけたことがない。
 いっぱい作って展覧会をするときには「元祖ぴーなっつ人形」を名乗ろう。
 もし「昔からこんな人形はどこどこの地方でありましたヨ」なんていわれたら、そのときは「本家ぴーなっつ人形」に変更すればいい。
 しかし、展覧会を開こうとすれば親指にも満たない小さな人形のことで、相当の数を作らねば会場を埋めることが出来ず、間を置くことなく次のテーマに取りかかった。

 そんなとき、福井県から一通の小包が届いた。
 見知らぬご婦人からだったが、中には1冊のアルバムが入っていて、そのアルバムにはピーナッツ人形の写真がびっしりと貼られていた。
 同封の手紙によると、私が30歳代のなかばに出した「手づくり遊び」(保育社・カラーブックス)という著書に発表した例のお雛様とその他のピーナッツ人形にとりつかれてすっかり病気にかかってしまった人のようである。
 福井のご婦人は元々は私の人形を参考にしたかも知れないが、落花生以外の素材は自分の工夫がされていて、また作品も民話をテーマにしたシリーズ作品で、完全に自分の世界を造り上げていた。
 この分では本家の方も福井のご婦人に負けそうである。

 この福井からのアルバムに刺激をされたせいでもないが、私の人形作りも一層ピッチが上がって来た。

 忠臣蔵のあとは古典落語のシリーズにかかることにして、BGM代わりに6代目円生を聞きながらスケッチを描き起こして落花生を選ぶ。
 呼び止められて振り向いたポーズの落花生、色白の美女を演じてもらう落花生、いかにも頑固な大家さんといった落花生などスケッチの中の役割にあわせて落花生をピックアップし、ひとつ1つ虫ピンをつけて立つようにする。
 髷をつけ、顔を描いて表情を出し手足を付けてポーズをつける・・・文字で書くとこれだけのことだが、手作業は遅々として進まない。
 人形が出来上ると背景を作ることになるが、<湯屋番>という噺の舞台となる昔の銭湯の形、<三方一両損>のお白州などの時代考証にも時間がかかり、毎晩夜のふけるまで制作に取り組んでやっと十五景の古典落語の世界が出来たときにはいつの間にか老眼鏡を必要とする歳になっていた。

 あらためて出来たものを眺めてみると、全部マゲ物ばかりになっていてこれではいかにもジジ臭い。
 明日からは少し目先を変えてみよう。

 白雪姫、メリーポピンズ、スターウォーズなど子どもにもわかる映画の場面にくわえて若者向けに落花生のラブコメディー風の人形など展覧会場を埋めるのに必要な数の500体の人形と背景を作り終えたときは、忠臣蔵を作りかけてからもう3年が過ぎていた。
 
 日中はイラストレーションの仕事をこなし、仕事を終えてから夜3~4時間だけの人形師だから3年もかかってしまったが、1985年4月やっと念願の展覧会を銀座の伊東屋ギャラリーで開催することが出来、展覧会の案内状には作家の田辺聖子さんが推薦文を寄せて下さった。
*当時私は牛坂浩二という別のペンネームで田辺さんの小説の挿し絵を描いていた。

 ちなみに、銀座の伊東屋のギャラリーは貸しギャラリーではなく、ギャラリーの使用料は不要なだけでなく、案内のハガキも作ってもらえたが、前年の夏ころまでに持ち込まれた展覧会希望のうちから、審査をクリアした展覧会だけが伊東屋の企画展として開催される仕組みで、ここで展覧会を開くにはそれなりのグレードを必要としていた。

 展覧会の飾り付けに来てくれた息子はすでに高校2年生になり、娘も中学3年生になっていて、子どもの頃から毎日見ていた落花生の人形がそんなに面白いのかと覚めた目で見ていたが、「ぴーなっつ人形一座旗揚げ大公演」と題した展覧会は初日から連日大入りの大々成功だった。

 新聞各紙の展覧会案内を見てきてくれた人たちは1週間の会期のうちに2度3度と別のお友だちを伴って会場に足を運んでくれたり、最終日に来てくれた人でたまたま表の看板を見て入ってみたが、こんな面白い展覧会を子どもにも見せたいから何とか日延べが出来ないか・・・と言われたり、次回の展覧会の案内をぜひ下さいと芳名帳に記帳をしてくれた人も多く、私自身は大いに自己満足出来たが、「あんたとこの亭主もお金にならないことばかりやっていて困ったものね、この作品も売らないんでしょう・・・」と、私にとって耳の痛い話を女房にしていく知り合いの客もいた。

 私にとって、この人形たちは只の人形ではなく、長年つき合って来た友人のような気がして売ってしまうことは出来なかった。

 展覧会で人形たちを一度衆目にさらしてしまうと、憑きものが落ちたように急速に熱がさめ、5才だった息子が高校生になるまで夢中で作り続けた落花生の人形だったが、燃え尽き症候群とでも言おうか、次回の展覧会を待って下さっている多くの熱心なお客さんの期待を裏切ることになるが、もう一度新たな作品で展覧会をするという気力はもう起きなかった。
  
 それから4年後に三宅坂にある国立劇場の資料展示室で前回の作品のうち古典落語シリーズをもう一度展示したことがあったが、以来10数年、あのときの作品は段ボールに納まって工房の隅に追いやられたままになっているが。
 浅野内匠頭も長屋の熊さんも白雪姫も、いつかもう一度点検修復をして日のめを見せてやらねばなるまい。
 
白雪姫


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