空の色の変化に伴い、気温は二、三度さがり、風の速度も弱まってきた。
沈みゆく夕日に照らされ、孤独な影が長くのびる。
赤く染まった横顔は沙織の面影をダブらせ、夏彦はしばし見入っていた。
土が盛りあがった所は海鳥の墓だ。その前で少女はずっと屈んでいた。
もうじきに夜がくる。
この子はいつまで、ここにいるつもりなのだろう。
「おい、まだいたのか」
夏彦は声をかけた。少女はわざとらしく振り向かない。
「さっきのこと、怒っているのか?」
なおも少女は無視を決め込む。
夏彦は微笑んだ。
同じだ。沙織も機嫌をそこねると、なかなか喋ってはくれなかった。
「おい、そこの家出娘!」
少女は驚いた顔でこちらを向いた。どうやら『家出』という言葉に反応したようだ。
やっぱりそうか。
「もうすぐ日が暮れる。早くおうちに帰りなさい」
今度は顔を逆方向に向けた。
「聞こえているんだろ。見た感じ学生だな。今頃、父さんと母さんが心配して家で待っているぞ」
「いったい何ですか? 大きなお世話だわ。親は心配してませんから大丈夫です」 冷たく交わされた。
「かわいくねーな」そう口走ると、少女は睨んできた。「悪い、冗談だ。マジで危ないから帰った方がいい」
「ほっといてください」
少女は立ちあがり、歩き出す。
「待てよ。そっちは崖だ!」
「どこにいこうと私の勝手でしょ。あなたには関係ないわ」
「早く帰らないとお化けが出るぞ」夏彦はからかった。「うらめしや~」胸元でだらしなく両手首を垂らし、幽霊のまねをする。
「幽霊なら怖くない。いつも見慣れているから」
夏彦は声を出して笑った。「ガキだな」
「冗談じゃないよ。本当なんだから」
少しおどかしてやろうと、
「そういえば最近、この辺で怪しい奴がうろついていた。今は幽霊より人間の方が怖いぞ。事件を未然に防ぐために警察に連絡するしかない」
「ちょっと」少女は焦った様子で「お願い。それだけはやめて」と懇願された。あまりの必死さに夏彦の方が怯んだ。
「だったらいわれた通り、まっすぐ家に帰るんだな。もう、家出なんかするんじゃないぞ」
夏彦は腰に手を当ててたしなめた。
少女は目をぱちくりさせて今にも泣きそうな顔。その不安げな様子が少々気の毒に思えてきた。
「どこからきた?」
「東京」
「だろうな。何となく言葉のイントネーションで分かった。俺、東京の大学にいっていたんだ」
「へぇー、そうなの」共通点を見つけ、少女の声が高くなる。
「中退したけどな」オチをつけるのを忘れなかった。だが、少女はくすりとも笑わなかった。依然、警戒心は解けない。
「東京行きの切符、買ってあるんだろう?」
少女は首を振った。「お金、ないから」
「今日はどうするんだ? 泊まるあてはあるのか?」
少女は俯いてしまった。それが返事だった。
「まったく無謀な家出だ。仕方がない。今晩、俺の所にこいよ」
「軽く見ないで! 知らない人にのこのこついていくような女じゃないわ」
夏彦は慌てて「違う。俺の家は旅館なんだ」
「旅館?」
「そうだ。旅館に泊まらせてあげるんだよ。勘違いするな。誰がおまえみたいな家出娘、相手にするもんか!」
「家出娘、呼ばわりしないでよ。きちんと名前があるんだから」
「名前は?」
「茜」少女は口を尖らせていった。
「茜、いくぞ」
夏彦は手招きする。
「待ってよ、勝手に決めないで。誰も助けてくれなんていってないわ。あんたに頼むくらいなら野宿の方がマシよ」
そういって少女はあかんべーと舌を出す。
「あんた呼ばわりか。俺だって名前があるんだ。夏彦、という名前が」
少女は視点は定まらず、落ちつかない。不安定な気持ちが伝わってくる。
「第一、こんな所で野宿できるわけがないだろう。無理をするなよ。いいから俺の所へこい!」
少女は頑固として拒否した。
「よし、分かった。警察に連絡するしかないな」
ズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出し、ちらつかせた。
「ストップ! いくわ」
「素直でよろしい。旅館についたら、明日家に帰る、と親に連絡しろよ。分かったな」
少女は不服そうにして頷いた。「旅館はどこ?」
「ここから見えているよ。あの白い屋根だ」
夏彦は指をさした。
少女は戸惑いながらもついてきたがまた足を止めた。
「今度はどうした?」
「やっぱりやめておく。タダより怖いものはないというし。それに迷惑かけたくない」少女は遠慮がちにいう。
「誰もタダとはいっていないぞ」
「お金がないのを承知でいってくれたんでしょう」
「所持金はいくらある?」
「二百円くらい」
「なんだそれ」夏彦はあきれた。「今どき、大した飯も食えないじゃないか」
少女はふくれっ面で「もう結構です」と背中を向けた。
「前払いで二百円もらうよ。残りは後日返しにきてくれたらいい」
「二百円?」少女は振り返った。
「二百円で泊まれる旅館は俺のところだけだ」
少女は吹き出した。それが本来の表情であるのだろう。
「おまえ、笑うとかわいいよ」
茜は赤くなって真顔に戻る。
「私は、おまえ、じゃない!」
「分かったよ。茜、いくぞ」
旅館の前で少女を待たせて、夏彦だけが旅館に入った。
「実は、頼みがあるんだ」
さざなみ旅館のおかみをしている母、美江は、怪訝そう目で見つめた。
「どうしたの? かしこまっちゃって」
「外に女の子を待たせてある。その子を今晩だけ泊まらせてやってほしい。明日絶対に帰らせるから」
「ちゃんと説明してちょうだい」
「家出してきたらしいんだ。野宿するといい張っている。危ないからここに連れてきた」
美江は溜め息をついた。
「どうしてそんな子を連れてきたの!」
「沙織と似ていたんだ。ほっとけなかった」
美江は少し考えて「分かったわ。一晩だけよ」と承諾した。
沈みゆく夕日に照らされ、孤独な影が長くのびる。
赤く染まった横顔は沙織の面影をダブらせ、夏彦はしばし見入っていた。
土が盛りあがった所は海鳥の墓だ。その前で少女はずっと屈んでいた。
もうじきに夜がくる。
この子はいつまで、ここにいるつもりなのだろう。
「おい、まだいたのか」
夏彦は声をかけた。少女はわざとらしく振り向かない。
「さっきのこと、怒っているのか?」
なおも少女は無視を決め込む。
夏彦は微笑んだ。
同じだ。沙織も機嫌をそこねると、なかなか喋ってはくれなかった。
「おい、そこの家出娘!」
少女は驚いた顔でこちらを向いた。どうやら『家出』という言葉に反応したようだ。
やっぱりそうか。
「もうすぐ日が暮れる。早くおうちに帰りなさい」
今度は顔を逆方向に向けた。
「聞こえているんだろ。見た感じ学生だな。今頃、父さんと母さんが心配して家で待っているぞ」
「いったい何ですか? 大きなお世話だわ。親は心配してませんから大丈夫です」 冷たく交わされた。
「かわいくねーな」そう口走ると、少女は睨んできた。「悪い、冗談だ。マジで危ないから帰った方がいい」
「ほっといてください」
少女は立ちあがり、歩き出す。
「待てよ。そっちは崖だ!」
「どこにいこうと私の勝手でしょ。あなたには関係ないわ」
「早く帰らないとお化けが出るぞ」夏彦はからかった。「うらめしや~」胸元でだらしなく両手首を垂らし、幽霊のまねをする。
「幽霊なら怖くない。いつも見慣れているから」
夏彦は声を出して笑った。「ガキだな」
「冗談じゃないよ。本当なんだから」
少しおどかしてやろうと、
「そういえば最近、この辺で怪しい奴がうろついていた。今は幽霊より人間の方が怖いぞ。事件を未然に防ぐために警察に連絡するしかない」
「ちょっと」少女は焦った様子で「お願い。それだけはやめて」と懇願された。あまりの必死さに夏彦の方が怯んだ。
「だったらいわれた通り、まっすぐ家に帰るんだな。もう、家出なんかするんじゃないぞ」
夏彦は腰に手を当ててたしなめた。
少女は目をぱちくりさせて今にも泣きそうな顔。その不安げな様子が少々気の毒に思えてきた。
「どこからきた?」
「東京」
「だろうな。何となく言葉のイントネーションで分かった。俺、東京の大学にいっていたんだ」
「へぇー、そうなの」共通点を見つけ、少女の声が高くなる。
「中退したけどな」オチをつけるのを忘れなかった。だが、少女はくすりとも笑わなかった。依然、警戒心は解けない。
「東京行きの切符、買ってあるんだろう?」
少女は首を振った。「お金、ないから」
「今日はどうするんだ? 泊まるあてはあるのか?」
少女は俯いてしまった。それが返事だった。
「まったく無謀な家出だ。仕方がない。今晩、俺の所にこいよ」
「軽く見ないで! 知らない人にのこのこついていくような女じゃないわ」
夏彦は慌てて「違う。俺の家は旅館なんだ」
「旅館?」
「そうだ。旅館に泊まらせてあげるんだよ。勘違いするな。誰がおまえみたいな家出娘、相手にするもんか!」
「家出娘、呼ばわりしないでよ。きちんと名前があるんだから」
「名前は?」
「茜」少女は口を尖らせていった。
「茜、いくぞ」
夏彦は手招きする。
「待ってよ、勝手に決めないで。誰も助けてくれなんていってないわ。あんたに頼むくらいなら野宿の方がマシよ」
そういって少女はあかんべーと舌を出す。
「あんた呼ばわりか。俺だって名前があるんだ。夏彦、という名前が」
少女は視点は定まらず、落ちつかない。不安定な気持ちが伝わってくる。
「第一、こんな所で野宿できるわけがないだろう。無理をするなよ。いいから俺の所へこい!」
少女は頑固として拒否した。
「よし、分かった。警察に連絡するしかないな」
ズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出し、ちらつかせた。
「ストップ! いくわ」
「素直でよろしい。旅館についたら、明日家に帰る、と親に連絡しろよ。分かったな」
少女は不服そうにして頷いた。「旅館はどこ?」
「ここから見えているよ。あの白い屋根だ」
夏彦は指をさした。
少女は戸惑いながらもついてきたがまた足を止めた。
「今度はどうした?」
「やっぱりやめておく。タダより怖いものはないというし。それに迷惑かけたくない」少女は遠慮がちにいう。
「誰もタダとはいっていないぞ」
「お金がないのを承知でいってくれたんでしょう」
「所持金はいくらある?」
「二百円くらい」
「なんだそれ」夏彦はあきれた。「今どき、大した飯も食えないじゃないか」
少女はふくれっ面で「もう結構です」と背中を向けた。
「前払いで二百円もらうよ。残りは後日返しにきてくれたらいい」
「二百円?」少女は振り返った。
「二百円で泊まれる旅館は俺のところだけだ」
少女は吹き出した。それが本来の表情であるのだろう。
「おまえ、笑うとかわいいよ」
茜は赤くなって真顔に戻る。
「私は、おまえ、じゃない!」
「分かったよ。茜、いくぞ」
旅館の前で少女を待たせて、夏彦だけが旅館に入った。
「実は、頼みがあるんだ」
さざなみ旅館のおかみをしている母、美江は、怪訝そう目で見つめた。
「どうしたの? かしこまっちゃって」
「外に女の子を待たせてある。その子を今晩だけ泊まらせてやってほしい。明日絶対に帰らせるから」
「ちゃんと説明してちょうだい」
「家出してきたらしいんだ。野宿するといい張っている。危ないからここに連れてきた」
美江は溜め息をついた。
「どうしてそんな子を連れてきたの!」
「沙織と似ていたんだ。ほっとけなかった」
美江は少し考えて「分かったわ。一晩だけよ」と承諾した。