茜は旅館に通されると、電話の前に連れていかれた。
「約束だぞ。親に電話するんだ」
夏彦から受話器を渡され、いやおうなく受け取る。
「今すぐに?」
「そうだ、今すぐ!」
「あとにするわ」
「駄目だ!」彼は首を振り、「こういうことは早く知らせておいた方がいいんだ」という。
困った。どう切り抜けよう。逃げられない。
彼が目を光らせている。
「分かったわ。かけるからあっちにいってて」
「ああ」
夏彦を向こうへ追いやった。離れてもこちらを伺っている。
受話器を置くと、彼は戻ってきた。「どうだった?」
「ちゃんと親に電話かけたよ。明日帰る、と伝えた」
「よし」夏彦は満足げに頷いた。
彼は気づいてない。まんまと騙すことができた。警察に連絡でもされたら、たまったものじゃない。
茜は一一七の時報にかけて会話する振りをしたのだ。
「今日はゆっくり休めよ」
頭を撫でられ、髪がくちゃくちゃになる。
「ちょっと!」
子供扱いされたが怒りは沸かなかった。悪気はない彼の性格がつかめてきたから。
「じゃあな」
夏彦は仲居を呼び、「まかせるよ」と一言。どこかへいってしまった。
ほっとした。でも本当にこれで良かったのかな。
茜の気持ちは複雑だった。
二階に案内され、純和風の一室に入った。正当な客ではないのに、「ごゆっくり」といわれ、遠慮がちに会釈する。
予想外な展開に戸惑っていた。
一人には十分すぎる部屋。真ん中でぽつんと正座し、手持ち無沙汰でテーブルにあった和菓子を食べた。
かなりずうずうしい奴。茜は自分ながらに思った。
時計を見ると、午後八時を差していた。
落ちつきなく、立ちあがり窓を開ける。風鈴の音色とさざなみが重なって耳に心地好い。
あいにく風景は暗くてよく見えないが、昼間なら青い海を一望できてきれいだろう。
そのとき、内線の電話が鳴った。相手は夏彦からだ。
一階の食堂に呼ばれ、いってみると彼が待っていた。食堂の席に向かい合った。
見渡すと、他には宿泊客が三組ほど食事をしていた。
新鮮な幸と暖かいご飯と味噌汁がテーブルに乗った。
茜は生唾をごくんと飲み込む。朝から、きちんとした食事をとっていない。空腹だった。
「遠慮することはないぞ。あとで代金はきちんともらうからな」
夏彦はニカッと笑う。
「うん。いただきます」茜は手を合わせた。
彼はすばやく食事を平らげ、また茜を残して立ち去ろうとする。
「待ってよ」彼を呼び止めた。「ありがとう」
彼は微笑んで「おやすみ」といった。
一瞬、どきっとした。
口は悪いのが面倒見の良い憎めない人だ。ひとりっ子の茜は、兄のような存在ができたみたいで嬉しかった。
部屋に戻ると、中央に布団が敷いてあった。着物姿のふっくらと肥えた中年女性が茜を待っていた。女性はにっこりと微笑んだ。
慈愛に満ちた顔で迎えるその女性は、夏彦の顔にそっくりだった。
「暖かいお茶を飲みますか?」
隅に寄せてあるテーブルの上に急須と湯飲みがあった。
「あのう、もしかして、夏彦君のお母さんですか?」
「はい、この旅館の女将もしています」
「今日は、突然、お邪魔してすみません。お金は後日、必ず持ってきますので……」茜は深々と頭をさげた。
女将は笑うとますます夏彦に似ていた。
「明日の着替え、そこに置いておきましたから。夏彦から渡すように頼まれたの。あの子のお古だから返さなくていいから」
少しよれついた白いTシャツが布団の横にたたんである。
「ありがとうございます。洗ってお返しします」茜は再び頭をさげた。
親切だけど恩着せがましくない。細かい気配りと思いやりを感じた。
「名前、聞いてもいい?」
「澤井茜です」
「東京からきたんですってね。夏彦から聞いたわ」
「墓参りをしようとここにやってきました。大王崎に父の実家があって……今ではもう空き地になっていますけど」
あえて家出のことは伏せた。たぶん夏彦から聞いていると思うが。
「あなたのお父さん、この辺に住んでいたの?」
「はい」
「澤井って、もしかして澤井徳二さんのことじゃ……」
「父のことご存じなんですか?」茜は驚いた。
「やっぱりね。あなた、徳ちゃんにそっくりだもの」女将は声高らかに笑った。「徳ちゃんとは幼なじみでね。子供の頃、近くの浜で泳いで遊んだ仲よ」懐かしむように目を細める。
「そうでしたか」
父の知り合いに遭遇した。偶然ではあるが実家の近くなのでありえない話ではない。
「徳ちゃんは仕事の関係で東京にいった、と聞いたことがあるわ」
「はい。でも、父は四年前に亡くなりました」
女将は暗い表情になり、「そう、残念だわ。元気な人だったのに……もう一度、会いたかった」
茜は申し訳ない気持ちになった。
女将は空気を取りなすように、「今日は暑かったから汗をかいたでしょ。小さな旅館だけど露天風呂があるのよ。入っておいで」
その言葉に、茜は控えめに頷いた。
都心から離れ、大王崎特有の味わいの良さに振れたとき、茜の決心は揺らぎつつあった。
夜空を見ながらの露天風呂は最高だ。自分は運がいい。ずっと運が悪いと思ってきたが。
茜は手足をのばしてリラックスする。人情だけでも十分なのに、温泉がいっそう心を温めた。
湯気に包まれながらとろりと目を閉じる。
『おまえ、笑うとかわいいよ』
ふと、夏彦の言葉を思い出し、口元がほころぶ。
この何年間、笑った記憶がない。自分をかわいいといってくれる人もいなかった。お世辞でも褒められたらいやな気はしない。
いつでも逃げ出すことはできたのにそうしなかったのは、夏彦の包容力に甘えたから。
ときどき見せる彼の優しさにどっぷりとつかりたいと思ってしまった。
誰かに甘えることができたのは父以外ではじめてのこと。
この町の人たちは不思議な癒しを持っている。危なげな心をそっと軌道修正してくれる力がある。
でも駄目だ。茜は頭を振った。
本来の目的を見失ってはいけない。幸せな思いを打ち消した。
短い髪はタオルでこすったらすぐに乾いた。風呂上がりは浴衣を着て、はだけそうになる裾を押さえた。
旅館の通路は外につながっている。大きくはないが日本庭園がほどこされてあり、木々がライトアップされて明るかった。
夜風は爽快だ。空を見あげると、満月に近い月の光が地上を照らしていた。
「父さん」
急に心細くなって呼んでみたが、徳二は現れなかった。
明日からどうしよう。
先のことを考えると、また不安が募ってきた。
「約束だぞ。親に電話するんだ」
夏彦から受話器を渡され、いやおうなく受け取る。
「今すぐに?」
「そうだ、今すぐ!」
「あとにするわ」
「駄目だ!」彼は首を振り、「こういうことは早く知らせておいた方がいいんだ」という。
困った。どう切り抜けよう。逃げられない。
彼が目を光らせている。
「分かったわ。かけるからあっちにいってて」
「ああ」
夏彦を向こうへ追いやった。離れてもこちらを伺っている。
受話器を置くと、彼は戻ってきた。「どうだった?」
「ちゃんと親に電話かけたよ。明日帰る、と伝えた」
「よし」夏彦は満足げに頷いた。
彼は気づいてない。まんまと騙すことができた。警察に連絡でもされたら、たまったものじゃない。
茜は一一七の時報にかけて会話する振りをしたのだ。
「今日はゆっくり休めよ」
頭を撫でられ、髪がくちゃくちゃになる。
「ちょっと!」
子供扱いされたが怒りは沸かなかった。悪気はない彼の性格がつかめてきたから。
「じゃあな」
夏彦は仲居を呼び、「まかせるよ」と一言。どこかへいってしまった。
ほっとした。でも本当にこれで良かったのかな。
茜の気持ちは複雑だった。
二階に案内され、純和風の一室に入った。正当な客ではないのに、「ごゆっくり」といわれ、遠慮がちに会釈する。
予想外な展開に戸惑っていた。
一人には十分すぎる部屋。真ん中でぽつんと正座し、手持ち無沙汰でテーブルにあった和菓子を食べた。
かなりずうずうしい奴。茜は自分ながらに思った。
時計を見ると、午後八時を差していた。
落ちつきなく、立ちあがり窓を開ける。風鈴の音色とさざなみが重なって耳に心地好い。
あいにく風景は暗くてよく見えないが、昼間なら青い海を一望できてきれいだろう。
そのとき、内線の電話が鳴った。相手は夏彦からだ。
一階の食堂に呼ばれ、いってみると彼が待っていた。食堂の席に向かい合った。
見渡すと、他には宿泊客が三組ほど食事をしていた。
新鮮な幸と暖かいご飯と味噌汁がテーブルに乗った。
茜は生唾をごくんと飲み込む。朝から、きちんとした食事をとっていない。空腹だった。
「遠慮することはないぞ。あとで代金はきちんともらうからな」
夏彦はニカッと笑う。
「うん。いただきます」茜は手を合わせた。
彼はすばやく食事を平らげ、また茜を残して立ち去ろうとする。
「待ってよ」彼を呼び止めた。「ありがとう」
彼は微笑んで「おやすみ」といった。
一瞬、どきっとした。
口は悪いのが面倒見の良い憎めない人だ。ひとりっ子の茜は、兄のような存在ができたみたいで嬉しかった。
部屋に戻ると、中央に布団が敷いてあった。着物姿のふっくらと肥えた中年女性が茜を待っていた。女性はにっこりと微笑んだ。
慈愛に満ちた顔で迎えるその女性は、夏彦の顔にそっくりだった。
「暖かいお茶を飲みますか?」
隅に寄せてあるテーブルの上に急須と湯飲みがあった。
「あのう、もしかして、夏彦君のお母さんですか?」
「はい、この旅館の女将もしています」
「今日は、突然、お邪魔してすみません。お金は後日、必ず持ってきますので……」茜は深々と頭をさげた。
女将は笑うとますます夏彦に似ていた。
「明日の着替え、そこに置いておきましたから。夏彦から渡すように頼まれたの。あの子のお古だから返さなくていいから」
少しよれついた白いTシャツが布団の横にたたんである。
「ありがとうございます。洗ってお返しします」茜は再び頭をさげた。
親切だけど恩着せがましくない。細かい気配りと思いやりを感じた。
「名前、聞いてもいい?」
「澤井茜です」
「東京からきたんですってね。夏彦から聞いたわ」
「墓参りをしようとここにやってきました。大王崎に父の実家があって……今ではもう空き地になっていますけど」
あえて家出のことは伏せた。たぶん夏彦から聞いていると思うが。
「あなたのお父さん、この辺に住んでいたの?」
「はい」
「澤井って、もしかして澤井徳二さんのことじゃ……」
「父のことご存じなんですか?」茜は驚いた。
「やっぱりね。あなた、徳ちゃんにそっくりだもの」女将は声高らかに笑った。「徳ちゃんとは幼なじみでね。子供の頃、近くの浜で泳いで遊んだ仲よ」懐かしむように目を細める。
「そうでしたか」
父の知り合いに遭遇した。偶然ではあるが実家の近くなのでありえない話ではない。
「徳ちゃんは仕事の関係で東京にいった、と聞いたことがあるわ」
「はい。でも、父は四年前に亡くなりました」
女将は暗い表情になり、「そう、残念だわ。元気な人だったのに……もう一度、会いたかった」
茜は申し訳ない気持ちになった。
女将は空気を取りなすように、「今日は暑かったから汗をかいたでしょ。小さな旅館だけど露天風呂があるのよ。入っておいで」
その言葉に、茜は控えめに頷いた。
都心から離れ、大王崎特有の味わいの良さに振れたとき、茜の決心は揺らぎつつあった。
夜空を見ながらの露天風呂は最高だ。自分は運がいい。ずっと運が悪いと思ってきたが。
茜は手足をのばしてリラックスする。人情だけでも十分なのに、温泉がいっそう心を温めた。
湯気に包まれながらとろりと目を閉じる。
『おまえ、笑うとかわいいよ』
ふと、夏彦の言葉を思い出し、口元がほころぶ。
この何年間、笑った記憶がない。自分をかわいいといってくれる人もいなかった。お世辞でも褒められたらいやな気はしない。
いつでも逃げ出すことはできたのにそうしなかったのは、夏彦の包容力に甘えたから。
ときどき見せる彼の優しさにどっぷりとつかりたいと思ってしまった。
誰かに甘えることができたのは父以外ではじめてのこと。
この町の人たちは不思議な癒しを持っている。危なげな心をそっと軌道修正してくれる力がある。
でも駄目だ。茜は頭を振った。
本来の目的を見失ってはいけない。幸せな思いを打ち消した。
短い髪はタオルでこすったらすぐに乾いた。風呂上がりは浴衣を着て、はだけそうになる裾を押さえた。
旅館の通路は外につながっている。大きくはないが日本庭園がほどこされてあり、木々がライトアップされて明るかった。
夜風は爽快だ。空を見あげると、満月に近い月の光が地上を照らしていた。
「父さん」
急に心細くなって呼んでみたが、徳二は現れなかった。
明日からどうしよう。
先のことを考えると、また不安が募ってきた。