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書くのみ!

竜宮に棲む人魚(十一)

2006-09-27 15:39:32 | 竜宮に棲む人魚
「このエロ野郎、李瑠から離れろ!」
 後方から罵声が飛ぶ。夏彦が振り向き様、男が襲いかかってきた。
 反射的によけたが、その男の標的は定まっていた。間違いなく敵意は自分に向けられていた。
「李瑠は誰にも渡さない!」
 謎の男の目は血走り、鼻息が荒く、ぞっとするほど興奮している。
 夏彦は身の危険を感じ、手近にあった椅子を武器として持ち構えた。
「誰か、広斗を止めろ!」金子が叫ぶ。
 その男の名は広斗というらしい。
 いったい何者? 恨みを買った覚えはない。
「なぜ俺を狙うんだ?」夏彦は聞いた。
「うるさい、つべこべいわずに李瑠から離れろ!」
 顎がしゃくれた細い目の男。童顔には似つかない若白髪がアンバランスだった。
 制止する男たちを次々となぎ倒し、ひたすら突進してくる。
「つかまえたぞ」
 夏彦の椅子を取りあげ、胸倉をつかんだ広斗は狂喜した。
「離せ!」
 夏彦は抵抗し、取っ組みあいになって壁に激突。二人は横転した。
 広斗は夏彦の上にまたがり、懐からナイフを取り出す。
 こいつ、いかれている。
 夏彦は恐怖を感じた。
 刃先をおろしかけたとき、「やめなさい、広斗!」
 ナイフは夏彦の喉元で止まった。
「私を困らせないで」
 李瑠の一言が彼を抑制させた。
「この男のどこがいいんだよ」広斗の声は今にも泣き出しそうに震えていた。「他の男に取られるのは我慢できない。李瑠は俺だけを愛してほしい」
「いいかげんにしなさい! 何度も説明して、納得してくれたじゃないの」
「嫌だ! 分からないよ」首を振りながら子供のように泣きわめいている。
 すきを見て、つかさず広斗を蹴り飛ばした。彼は勢いよくひっくり返り、手に持っていたナイフを落とした。
 夏彦は走って、彼から距離を置いた。
「勘違いするな。俺はその女とは何の関係もない!」
「うるさい」
 広斗はすぐに起きあがりナイフを持ち直す。「ぶっ殺してやる」またしても執拗に追いかけ、ナイフを振り回した。
「痛っ」
 刃先が夏彦の腕をかすめた。服は切り裂かれ、傷口から血が流れる。
 そのとき、いっせいに周囲の男たちが広斗に飛びかかり、押さえつけた。縄をかけ、動きを封じ込める。しばらくすると観念したのか彼は大人しくなった。
「李瑠、愛している、愛している、愛している……」
 広斗は奇声をあげて繰り返し唱えた。
 そして、縄につながれたまま、黒帯の女たちに連れていかれた。
 夏彦がその男を見たのはそれが最初で最後だった。
 
 李瑠が駆け寄り、「大丈夫?」と聞く。
「ああ、大丈夫だ」
「ひどい怪我だわ。別室で手当てしましょう」
「これくらい平気だよ」
 顔や足にも数カ所、切られたが軽傷で済んだ。腕の傷口は深くて、血が一筋たれていた。
「駄目。手当てしましょう。私のいうことをきいて」優しい口調で説き伏せる。「こちらについてきて」
「分かったよ」 
 彼女の肩を借りて、夏彦は案内の方へ足を進めた。
 細い通路を通り、ある扉の前で「ここがあなたの部屋よ」といわれた。
「俺の部屋?」
 扉が開き、中に入ると、夏彦は見回した。
 狭い部屋にはベッドしかなかった。
「ここに座って」
 とりあえず、そこに腰をおろした。
 引き裂かれた赤いアロハシャツを脱がされ、上半身は裸になった。
 李瑠はシーツの裾を破り、腕の傷口に押し当てて止血した。応急処置としても大雑把に思えた。
 李瑠は夏彦の背中をそっと撫でて、「いい身体をしているわね」と呟く。
「野球をしていたからな」
 普通の会話を返したが、彼女の行為には違和感があった。
 腕に流れついた血をぺろりとなめたからだ。
「おい、冗談はよせ!」
 夏彦は嫌悪感をあらわにして仰け反った。急激に動いた弾みで激痛が走る。
「うっ」
「こんな腕に抱かれてみたいわ」
 李瑠は少しも意に介しない態度で艶めかしく微笑んでいた。
「あの男といい君たちといい、いったいどうなっているんだ。俺は殺されそうになったんだぞ」
「安心して、もうあんな目にはあわせないから」
「なぜそんなことがいえる?」
「あの男はもう終わりよ」
「どういう意味だ!」
「規律を乱す者は用なし、ということ」
 李瑠はにこっと笑い、頬をすり寄せて甘えてきた。「あなたが気に入った。あなたの子供が産みたい」
「やめろ! それ以上、近づくな!」
「私のことが嫌い?」
「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃない!」
「だったら、今すぐ抱いて」
「馬鹿っ! そんなことできるわけないだろう」
「あなた、初めてじゃないんでしょ? 私のこと、もっと知りたくない?」
「やらしい女だな」夏彦は顔をそむけた。「君は何者だ?」
「それを聞いて何になるの?」
「目的は何だ? 君たちがすることはさっぱり分からない。俺はいっこくも早くここから出たい。出口はどこだ!」
 李瑠は無言で微笑んだ。「さぁ、知らないわ」
「しらばっくれるな!」
「大声出さないで」
 李瑠の白い手が夏彦の頬を撫でた。
 駄目だ。この女と話していても埒が明かない。
 夏彦は腕を押さえながら立ちあがり、扉のノブに手をかけた。
「待って、いかないで」李瑠が呼び止める。
 彼は振り返り、「君たちのお遊びにはつきあえないよ。頼むから俺を巻き込まないでくれ」
 李瑠はベッドから立つと、服がするりと床に落ちた。
 全裸を目の当たりにして夏彦は背を向ける。「何をしているんだ? 早く服を着ろよ」
「こっちを向いて。私を見て。こんなにも身体があなたをほしがっているわ。ほら、私を見て」
 背後から李瑠に抱きしめられた。胸のふくらみが、じかに伝わってくる。
 李瑠は耳元で呟く。「考えを捨て、本能のまま、愛しあいましょうよ」そういって耳たぶをぺろぺろとなめた。
「やめろ!」夏彦は彼女を突き放した。「触るな。さっきから、訳の分からないことをいいやがって、頭が変になりそうだ」
 李瑠の身体が視野に入った。
 皮下脂肪のないスリムな身体。だけど胸は豊かで上を向いている。白くてつるりとした肌。
「抱いて……」
 李瑠が迫ってくる。
「くるな!」
 夏彦は後ずさる。どんどん近づいてくる。壁にぶつかる。それ以上、さがれない。
 李瑠は彼の胸元にキスをした。
「あなたの鼓動が聞こえるわ。どきどきしている。私も同じよ」
 李瑠は彼の手を取り、自分の胸に押し当てた。
 嘘だ。鼓動は感じられない。体温さえも全く……。
 夏彦は急いで手をおろす。
「かわいい」
 李瑠は夏彦のズボンに触れ、ファスナーをさげて、下半身をいじり回した。
「意地を張らないで。身体は反応しているわ」
 李瑠は背が高かった。さほど背伸びしなくても彼の唇を捕らえた。
「誘惑には乗らない! 君に何の興味もない!」夏彦は彼女の手を払いのけ、睨みつけた。「俺を、他の男と一緒にするな!」
 一瞬、李瑠は寂しげな目をした。
 だが、すぐさま自信たっぷりの表情に変わり、「あなたは私を受け入れるわ、絶対に」
 そういい残し、部屋から出ていった。
 ガチャリ。鍵をかける音。
 まさか?
 慌てて扉のノブを回したが開かない。閉じこめられた。
「おい、開けろ!」
 夏彦は扉を何度も叩き続けた。

竜宮に棲む人魚(十)

2006-09-16 17:43:24 | 竜宮に棲む人魚
 夏彦は席についた。
 目前のテーブルの上には料理が並んでいる。周囲は見知らぬ男たちが食事をしていた。
 頭が割れそうに痛い。こめかみを押さえると、手が濡れていた。服の裾を絞ると水滴がしたたれ落ちる。
 自分の置かれている状況がさっぱり分からない。
「君は誰かと寝ましたか?」 
 輪をかけて妙な質問を投げかけられた。
 左隣に座る、黒縁メガネの男だ。分け目がくっきりとした髪型で堅物の人物に見えた。
「何のことですか?」
「あっ、君は新入りかい?」
 メガネの奥の目が笑った。
 さっきからこの男は何をいっているのだろう。
 夏彦は困惑の面持ちで、「ここはどこですか?」と尋ねてみた。
「実は私も分からないんです。かれこれ一週間ぐらいはここにいますが……」
 メガネの男は曖昧に返答しながら箸で魚料理をほぐした。
「本当に分からないんですか?」念を押して聞く。
「知っていていわないなんて、そんな意地悪しませんよ」
 男は半笑いで答えた。
「よく平然としていられますね」
 皮肉をいったつもりだが彼は気づかず、聞き流されてしまった。
 誰か一人は事情を知っているはずだ。
 じっとしていられず立ちあがる。
「無駄です。誰に聞いても答えは同じ。へたをすると、女たちに止められてしまいますよ」
 食堂を思わせる空間に男女がたむろしている。男たちは和気藹々と食事を楽しんでいた。
 男は服装も席移動も自由だが、女たちは違うようだ。
 数的には女の方が多かった。年齢層は幅広く、民族衣装に似た装いで、番号めいた呼び名を使っている。
 中でも黒帯をしている女たちはやけに男に媚びを売って、丁重すぎるもてなしをする。ところが同性には酷にあたり、その横暴ぶりには目に余るものがあった。
 女同士では上下関係が成り立っていた。
「最初は取り乱しました」またメガネの男が話しはじめる。「ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、誰も教えてくれない。出入り口も分からず、家に帰れなくなった迷子のように不安だった」
 迷子……それにしては食欲旺盛だな。
 指摘したかったがやめて聞き手に回った。
「時間が立つとどうでもよくなってきた。慣れとは恐いものだ」
 痩せた身体を弾ませてメガネ男は笑う。
 笑いごとじゃない。夏彦は彼を見据えた。
「さぁ、座って、君も腹ごしらえといきましょう」
 この状況で食事する気分になれない。男のいうことには同感できなかった。
 だが、ずっと突っ立ていても仕方がないので、ひとまず腰をおろす。
「私は金子秀明、海洋生物学者です。海の水質調査の最中、足を滑らせて海に落ちた。そこまでは覚えています。君も海に落ちたのでしょうね」
「海? 何も思い出せない」
 夏彦はうつむいた。
「かわいそうに肝心な記憶が乏しいようで」
 自分の名前すら出てこなかった。記憶は白に覆われている。
「たぶん、海に落ちたんですよ。ここにいる人たちの共通点はそれなんだ。君も海の付近にいた、もしくは海に落ちたのどれかだ」
 金子はメガネを外し、手元にある布巾でごしごしと拭いた。 
 そうかもしれないし、そうともいい切れない。頷けなかった。 
 真向かいの小太りの男が会話に割り込んできた。「そうそう、俺は漁師で、いつも通り漁船に乗り込んだまではいいが、どういうわけか気づいたらここにいた」
 その場の男たちは顔を見あわせて、頷いている。
 確かに金子のいうことは本当らしい。誰もが茫漠たる境地をさまよっている。
「心配はいらないさ」小太りの男が続ける。「みんな安心していいぞ」
 何を根拠にいっているのだ。その先の言葉が知りたい。
「この世界はまんざら悪くない。男にとっての楽園だから」
「楽園? あんたのいっている意味が全く分からない」
 このおっさんの頭は大丈夫か。真面目に聞いているのがアホらしく思えてきた。
「時期に分かる。君も『赤い部屋』にくるといい。若者にはちょっと刺激が強すぎるかな」
 漁師の小太り男は額を撫でながらにやけていた。
 何か知っているのか?
 意味深な笑みの理由を、夏彦は知る余地もなかった。
 黒帯をした女の一人が目配せをし、手招きしている。顔がほころばせ、席を立ったのは小太り男だった。
 二人は手をつないで、そのままどこかへと姿を消した。
 恋人同士? いや、そうではない。
 夏彦は直感でそう思った。
 視線を移すと、ショートヘアの少女が作業服を着た男に絡まれていた。
 どうして誰も助けてあげないんだ。
 夏彦は助けにいこうと立ちあがる。
「いかなくていい」
 金子に止められた。
「あの子、嫌がっているじゃないか!」
「ここでは正義感を振りかざす必要はないんだ。そういうところだ。好きにやらせておけばいい」
「ふざけるな!」
「君もそのうち分かる」
 金子といい争っている合間に、ショートヘアの少女が側まできていた。夏彦は肩を叩かれた。何かを訴えようと、口をぱくぱくさせている。
 何がいいたい? 助けなかった俺を責めているのか? どうしようもなかった。
 夏彦は目をそらす。
 少女は黒帯の女にたしなめられ、渋々とその場から離れていく。何度もこちらを見返していた。
 今度は白髪まじりの男に話しかけられた。「君、大丈夫かい?」
 夏彦は男を見つめた。
 中肉中背の白髪頭の男は弱々しく会釈する。
「あのとき、バイクに乗っていたのは君だろ? この赤い服が見えたんだ」
「バイク?」夏彦は聞き返した。
「事故のことだ。覚えていないのか?」
 俺はバイクに乗って事故にあったというのか?
 しばらく考え込んだ。
「すまない、人違いだったようだ」
 白髪頭の男はばつが悪そうに身を引く。
「あんた、俺のことを知っているんだろう。詳しく教えてくれないか」
「いや、私は何も知らん。すまなかった」
 男はしどろもどろになって、逃げるように遠ざかっていった。
「おい、待ってくれよ」
 夏彦はむしゃくしゃしていた。
 席に座り、テーブルにあったワイングラスをつかもうとする。そこには赤い飲物が入っていた。手を動かした拍子に激痛が走る。
「痛い」
 なぜか右指が動かない。無理に動かすと痛くて吐き気がした。手の怪我も、身体のだるさも、白髪の男がいっていた事故によるものなのか?
「あなた、大丈夫?」
 突然現れた美しい女性が横の空席に座った。
「指が痛いんだ。折れているかもしれない」
「手伝うわ」
 女は箸を持ち、白身魚の刺身を夏彦の口元に運ぶ。彼は戸惑ったが、口を開けて食べさせてもらった。
「私は李瑠よ。あなたの名前は?」
「夏彦」
 すんなり名前を思い出した。
「夏彦、いい名前ね」
 男たちの側には必ず女がついていた。寄り添い、親しそうに喋っている。
 その中でも、李瑠と名乗る女性がひときわ美しかった。
 彼女はワイングラスを片手に中身を揺らし、口に含んだ。そして、夏彦の頬に触れ、口移しで飲ませた。
「何をするんだ」
 夏彦は驚いて、はねつけた。
 怒った顔を見て、李瑠は声を立てて笑う。「照れ屋さんなのね」
「もういい、近寄らないでくれ」
「あらあら、怒った顔もかわいい。私がいろいろしてあげる」
 李瑠は再び、箸とワイングラスを取った。夏彦の腕に豊満な胸をすり寄せる。
「どういうつもりだ?」
「あなたが気に入ったわ」
 女は頭を夏彦の肩にあてて甘える素振りを見せた。
「やめてくれ」
 夏彦は避けて、嫌悪の目で見た。
「まあ、恐い」
 そのころ、テーブル席の前では、黒帯の女たちが踊り狂い、服を脱ぎ始めていた。

竜宮に棲む人魚(九)

2006-09-06 23:20:07 | 竜宮に棲む人魚
 茜は目を開けた。
 鍋から立ちのぼる湯気を夢うつつで見つめ、首を傾げる。
 今現在、自分がどこにいるのか分からなかった。
「意識が戻ったわ」
 気がつくと、人影が茜を見おろしていた。その角度から、自分は地べたに座り込んでいるのだと気づく。
 身体を起こそうとすると、痛みは走った。頭痛とともに吐き気がして口を押さえる。
 ふわふわして、力を入れても定まらず、その場にへたばってしまう。
「大丈夫?」
 声の主は手を貸してくれた。握ると温かい手で、小さくても力強く、茜を支えてくれた。
 もう片方の手を壁に添えて立ちあがった。
 すると、女の子であることに気づいた。背は低く、胸はペチャンコ。表情はまだあどけない。小学校の高学年くらい。
 その横にはもう一人、気づかってくれる女性の姿があった。女の子とは対照的で、しっかりとした骨格にうっすらとできた小じわと剥がれかけの赤いマニキュアが成人であることを示していた。年齢は三十代前半だろう。
「歩ける?」
 女性に聞かれ、茜は首を縦に振った。
 親子でも姉妹でもない。友人にしては歳の幅がいきすぎている。
 二人はうしろ髪を束ね、金と銀の糸を織り込まれた長い布を巻きスカートのような形で肩にかけておろしていた。民族衣装に近い。
 変な恰好だわ。
 茜は黙って見据えた。
 ところが、そういう自分も彼女たちと同じ格好をしていた。誰かに着替えさせられたようだ。しかも靴を履いておらず、素足だった。
 いつから気を失っていたのだろう。前後の記憶が不透明。それに髪は湿っていて、体はかすかに磯の香りがした。
 はっとして周りを見渡す。
 事故に出くわし、海の中に落ちた……。
 そこまでのことは思い出したが、状況を判別する能力が乏しい。
 もし海に落ちたのであればなぜこんなところにいるの?
 海に落ちたのは夢だったのか? ならば怖い夢。今もなお夢は続いているのかもしれない。
「私は、みづほよ。こっちは由美子さん」
 おませな女の子は自ら名乗り、隣の女性も紹介した。残念ながら教えてもらっても不信感は消えない。
 茜はきょろきょろと目を動かした。
「Tag31 、すぐに料理を運べ!」
 いきなり怒鳴られて茜はびくっとする。振り返ると中年女が仁王立ちでこちらを見ていた。
 31?
 不可解な番号と指図は自分に向けられている。茜は困惑した。
「ぼけっとするな、早く動け! 我らの手足となって働くのだ!」
 苛立ちを募らせた中年女は目尻をあげて大声を出す。
 問いかけようとする間を遮ったのは、みづほだった。「命が欲しかったら命令通りに動いて」周りに聞こえないように耳打ちする。
「こらっ、無駄口をたたくな!」
 ただならぬ雰囲気を感じ取って、茜はのっそりと動き出した。
 少々、身体がふらついていたが歩けそう。
 魚料理が盛られた食器を持ち、みづほと由美子のあとに続く。不本意だったが命令に従うしかない。
 広間に出た。中央に長方形のテーブルが十列ほど並び、間隔を保って椅子がある。少数の男たちが席についていた。
 先方の見よう見まねで動き、テーブルの上に次々と料理を置いて回る。
 質問や勝手な行動は許されない。監視される威圧感がまとわりつく。茜は女中のように働いた。
 男より女の数が増さっていた。統一された女の身なりとは異なり、男性陣の服装はまちまちである。
 男は丁重にもてなされ、雑談をかわし、膳立てに口をつけていた。特別扱いされているのは歴然としていた。
 注目すべきは、色分けされた女性の腰ひもだ。食事を運ばされ、差別的待遇の者は白帯。その他は黒帯だった。
 黒帯女のほとんどが年輩者。男にぴったりとくっついて芸者のまねごとみたいな態度を取っている。さきほど怒鳴っていた中年女も黒帯だった。
 茜は白帯。親切にしてくれたみづほと由美子と名乗る二人も同様に白だ。白帯は比較的、若い層といえる。
 察するに、腰に巻かれた帯は上下関係を示しており、白帯は下等な立場に位置している。
 
 厨房とは逆側の扉から、一人の美しい女が現れた。
 由美子が茜の横に近寄って「あれが李瑠よ。頭を下げて」と小声で教えてくれた。
 黒帯の女たちも姿勢を正し、いちように礼をしている。茜も頭を低めにし、上目でうかがう。
 あの人が李瑠……。
 贅肉のない、均等の取れた身体。背は高く、胸を張って堂々と歩く姿はモデルみたい。
 漆黒の髪はかすかに揺れて、後れ毛は襟足に束ねている。
 東洋的な顔立ちできめ細かい肌にほんのりと化粧がのる。ふっくらとした唇に紅をさし、色白が際立っていた。口角を軽くあげて笑みを浮かべていた。
 一枚の薄い絹布をまとっているが、色別された腰ひもはなく、裾はワンピース状に広がっていた。
 細い眉がぴくりと動き、妖艶な流し目を送る。他の女とは別格の風貌。女帝の貫禄もみなぎっている。
 一度見たら忘れられない美女だ。それを象徴するかのように、男たちは食事をする手を止め、魅了されていた。
 なんて美しい人なのだろう。
 茜もしばらく目が離せなかった。
 李瑠は辺りを見渡している。そのとき、由美子は小声でまた呟く。「李瑠は今、自分の男を物色している」
 物色?
 その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
 茜が突っ立っていると、「かわいいじゃないか」と濁声が聞こえてきた。
 灰色の作業着を着た男がやらしい目つきでこちらを見てくる。
「なぁ、おじょうちゃん。俺といいことしようか?」
 すくうように抱きしめられ、茜は身を縮める。服をまくりあげ、尻をわしづかみにされた。
(助けて)
 出ない。声を出そうとするが音となって出てこない。
 誰もが見て見ぬ振り。みづほと由美子さえ、顔をそむけている。
(誰か、助けて)
 叫びは心の奥にこだまする。目で訴え、必死で抵抗するが男の力にはかなわない。
「拒んでいるのか、かわいいな」
 男はうれしそうに唇を奪おうと顔を寄せてきた。
(いやぁぁぁ)
「離してあげなさい」
 急に男の手が止まり、力が弱まった。
「李瑠の頼みならそうするよ」
 茜は解放された。
「あとで私がお相手してあげるわ」
「そういうことなら」
 男は引きさがってもとの席に戻る。
 つかまれた尻の感覚がおぞましく残っている。茜は男から遠ざかるが怖さで震えは止まらなかった。
 李瑠は目を細めて優しく微笑みかけてきた。
 助けてくれたの? この女性は味方? 

 何気なく、男たちの席に目をやると、夏彦がいた。
 彼は茜の存在に気づいていない様子。
 私はここにいるよ。
 足はとっさに動いた。
 茜は手を振る。それでも彼は遠い目をして視線は素通りしていく。
 近づいて彼の肩に手を置く。彼は振り返る。きょとんとした目で首を斜めにした。
 どうして?
 態度は初対面のようによそよそしかった。
 茜だよ。忘れてしまったの?
「おい、Tag31、何をしている! 自らの意志で動くな! さっさと仕事に戻れ!」
 夏彦と話がしたい。
 茜は命令を無視し、彼から離れずに詰め寄った。
 黒帯女は茜につかみかかり、「奴隷の分際で男に媚を売るのか!」目が光り、殺気立った。
 凄みのある睨みに、茜はおびえた。
『命が欲しかったら命令通りに動いて』
 みづほの言葉を思い出す。あのとき把握できなかったが今になって分かった。
 怖い。殺される。
 茜は厨房に戻るしかなかった。与えられた仕事をこなしながら、ちらちらと夏彦の姿を目で確認した。
 一方、彼はこちらを気にすることはなく、周囲の男たちと会話していた。
 もどかしげな手つきで箸を持とうとしている。どうやら手に怪我を負っているようだ。
 心配で見つめていると、またしても黒帯女が背中を押して邪魔をしてくる。
 彼の横に李瑠が座った。箸を受け取り、彼の口元に食べ物を運んだ。そしていきなりキスをした。飲物を口移ししたのだ。
 彼も驚き、李瑠をはねつけていた。拒絶した態度は茜を安心させた。
 今の状況に浸り切っていない証拠だから。
 直後、男たちに声が飛び交った。また何ごとかと思うと、女たちの歌声が響き渡った。
 四人の黒帯女が歌にあわせて優雅な舞いを披露しはじめたのだ。その激しい動きで服がはだけ、胸があらわになった。
 男たちは目の色を変え、手をたたき、歓声をあげ、口笛を吹く者さえいた。
 踊り子たちは狂ったように踊り続ける。隠すこともやめることもしない。
 あれは故意に見せているに違いない。茜はそう直感した。
 それを皮切りに、異様な光景が展開していく。男女が抱きあい、胸をまさぐり、濃厚な接吻がかわされた。
 誰も驚かない。なかば普通のことのようにおこなわれている。
 恥じらいはなく、性行は続いた。
 みづほも由美子も軽く触られているが、歯を食いしばって耐えている。
 どうなっているの? 疎ましく思う方が変なのか。
 まるで不思議の国のアリスの奇妙な世界に迷い込んでしまったかのようだ。
 表情を揺るがしているのは茜と夏彦の二人だけ。まともな精神状態ではいられない。
 茜は混乱し、気持ちを落ち着かせるのに必死だった。