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竜宮に棲む人魚(七)

2006-03-30 04:18:56 | 竜宮に棲む人魚
 茜はしばらく外で涼んでいた。
 すると、裏口からバットを持った夏彦が現れた。数回素振りをしたあと、彼女の存在に気づき、近づいてきた。
「浴衣、似合ってるよ。少しだけ色気が出ている」
「ぜんぜん思ってないくせに」茜は頬を膨らませた。
 夏彦は声をあげて高らかに笑う。「暗い顔して、ホームシックにでもかかったか?」
「違うわ。夜風にあたっていただけ」
 夏彦は「ふ~ん」といい、距離を置いてまたバットの素振りをはじめた。
「野球好きなの?」
「ああ、中学では野球部にいたからな。俺、けっこううまかったんだぜ」
「ふ~ん」
 茜は興味なさげに頷いた。
「ところで両親はなんかいっていた?」
「何が?」
「さっき、親に電話しただろ!」
「あっ……」
 茜は口ごもる。電話はしていない。かけたふりをしただけ。彼は茜の言葉を待っている。何かいわなければ怪しまれる。
「心配していなかったよ。いなくて清々している感じだった」
 平静を装い、その場しのぎの嘘を重ねた。
「馬鹿! これだからガキは困るんだ。我が子を心配しない親なんていない。強情張ってないで明日は家に帰れよ」
「帰りたくない!」本音が漏れた。
「おいおい、約束しただろ」
「もう、どうでもいいよ」
「何があったか知らないけど、生きてりゃいいことはあるさ。そんなに思いつめるな」
「生きててもいいことなんか何もない。いっそのこと、死んだ方がいいわ」
「馬鹿!」
 夏彦はバットを落とし、罵倒を浴びせた。
「馬鹿、馬鹿いわないで」茜は反論する。
「馬鹿だから馬鹿っていっているんだよ!」
「あなたに何が分かるっていうの」
「ちょっとこい!」
 腕をつかまれた。
「痛い、離して」
 強引に腕を引っ張られた。
 
 二人は夜道を早歩きをし、灯台が見える丘にたどりついた。
 夏彦は茜の手を放し、立ち止まる。彼は海を見つめるばかりで無言だった。
 突拍子すぎる夏彦の行動に戸惑う。茜は言葉のとっかかりがつかめないまま、彼の後ろ姿を見据えていた。
 赤や黄色の灯台の光が二十秒間に一周し、波打ち際に細長く映している。
 波は心地よいリズムを立てて洗い、海面に浮かぶ漁火が幻想的にともっていた。
「きれいだろ?」
「うん」
 連れてこられたのは不本意だが、確かにいい景色であった。
「妹が好きだったんだ、この丘から見える灯台の風景」
 不意に妹の名を出し、ますます意味が分からない。
 この人、何を考えているんだろう。
「俺には一人の妹がいた。名前は沙織。今頃、二十歳になっている」
 旅館にそれらしき人物は見あたらなかった。それに、言葉の端々が妙に引っかかる。
「今、どこにいるの?」気になって質問してみた。
「海の中」
 淡々と話す夏彦の口振りから、本気と冗談の境目は計りかねた。
「もしかして死んだ?」
 茜はストレートに聞いた。
「分からない」夏彦は首を振る。「死体はあがらなかったから」
 そして、思い出すように言葉を吐き出した。
「二年前の夏、沙織は海にいったきり戻ってこなかった。俺の中では、沙織が十八歳のままで止まっている」
「一緒にするな、と怒られそうだけど、私と同じ、家出じゃないの?」
「一緒にするな」
「ごめん」
「そうだな。海の中よりそっちの方がいいよ。茜と一緒の、家出であってほしい」
 夏彦は力なく笑い、そうつけ加えた。
「沙織の墓はまだない。親は諦めて墓をたてることを望んでいるが俺は反対している。墓をたてたら、沙織が死んだことを認めたことになるじゃないか。でも、俺は矛盾している。いつもここへきては祈っている。まるでこの海を墓と見立てているみたいに……」
 何だろう、この気持ち? 
 影と影が重なりあったような感じ。
 彼も心に傷を負っている。少し見る目が変わった。
「俺は、生きていて欲しいんだ」
 その言葉は妹に向けられたものか、茜に向けられたものか結局分からなかった。
 
 翌朝。茜は新聞を借りて、全面に目を通した。殺人事件の記事に注目したが、自分が関わった事柄は載っていない。朝のテレビニュースでも伝えていなかった。
 あいつは死んでいないのか?
 不安の入りまじった安堵の溜め息を漏らした。
 男物のゆったりした白いTシャツに着替える。これは夏彦からの借りものだ。
「お世話になりました」
 茜は女将と仲居に礼をいった。
「気をつけてね。これ、電車の中で食べて」 
 女将は握り飯をつくってくれた。
「ありがとうございます」
 茜は荷物を持ち、外へ出た。
 バイクにまたがった夏彦が待っていた。赤いアロハシャツが風にひらめていた。彼は「よっ」と手を挙げて挨拶した。
「駅まで送ってやるから早く乗れよ」
 黒色のヘルメットをこちらに向けて投げてきた。茜はキャッチする。
 バイクは赤と黒のツートンで、ガソリンタンクが太陽に照らされ光っていた。
 茜はヘルメットをかぶり、後席に乗った。夏彦のへそ辺りに手を回し、力を込める。
「おい! そんなにしがみつくなよ」
「だって、落っこちたら大変でしょ」
「大丈夫大丈夫、俺の運転手だぜ」
「だから怖いの」
「馬鹿! さぁ、いくぞ!」
 ブルンブルン。排気音が鼓膜に響く。エンジンの振動が身体を伝い、バイクは急発進した。
「きゃっ」
 茜は歓喜の悲鳴をあげ、彼の背中にしがみつく。
 変化に富んだ海岸線を駆け抜けると、個性的な島々と無数の真珠筏が見えてきた。
 カーブ手前で減速し、車体を倒すときの遠心力で外に引っ張られる。直線道路に入り、加速とスピードが出る。風に吸い込まれていく体感。
 こんな感じは初めてだ。このままずっと走っていたい。
 世の中にはまだ知らない感動が満ち溢れている。そのことを彼が教えてくれた。
 今までの悩みは吹き飛び、死という文字さえ頭から消えていた。
 再びこの土地に訪れたい。たったそれだけの理由で、生きることへの執着が起こった。
 人はささいなことで死ぬこともあるし、生きることだってできる。
 私、この人のことが好き……。
 茜の胸は熱くなった。
 絶望から芽生えた一筋の光。それは恋。
 夏彦に惹かれつつある自分を認めた瞬間だった。