難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「太平洋戦争」 「白村江の戦い」敗戦後の考察 その1

2021年01月10日 | 歴史

「白村江の戦い」敗戦後
 「太平洋戦争 終戦後のドサクサ」との
   類似性を考察する。 その1

    (令和2年11月17日 補筆中)

 このブログは、1300年前に、その当時、世界最強の大国
唐と朝鮮半島で、盟友、百済の存亡をかけた戦をし、百済の、
白村江で、今の世代の我々から見れば、当然の結果と思える
通りに、唐と新羅の連合軍に、大敗してしまい、辛うじて
生き残った兵は、百済の敗残者を救って、共に命カラガラ
倭国へ逃げ帰りました。
(念のため、倭国=日本の古い名)
逃げ帰った後、その敗戦後に、何が起こり、日本がどうなって
しまったのかを、探り、想像することを目指しています。

 「え? それで何故、これから、太平洋戦争の終戦後を、
  述べようとしているの?」
 

 当然の、疑問だと思います。
特に、戦後のバブル世代以降の方には、あの、太平洋戦争
終戦後の、大混乱、大屈辱を、身を持って、経験をされて
いないのですから、理解して頂くのは、とても、難しいと
思います。
 でも、知って欲しいのです。日本人の身に起こった惨めで
辛い 昭和20年8月15日 からの不幸を。
 戦争に負けるということの惨めさを。
 そして、それを知った上で、1300年前の、
「白村江の戦い」敗戦後に戻り、考察することで、きっと、
日本書紀に記載されていない、当時の日本人の心が、
例えようのない不幸が、見えてくると思うのです。

 このブログの筆者(ワタクシ)は、終戦のドサクサに
生まれた、いわゆるベビーブームの段階世代です。
当時幼なかった私にも、辛い嫌な思い出は、沢山あります。
 そして、私の母親や、近所のオッチャン、オバチャンから
聞いていた、他の人に言えなかった、辛い話が沢山沢山
あります。
 それが全て、戦争に負けるとこんな目に遭うんだと分かる
話だらけです。
今回、このブログで、やっとその一端を話せる機会が来たと
思っています。
 別にイキガッテいる訳ではなく、次の世代の人に、これからの
日本の為に是非とも、知っていて欲しい話なのです。
 この、ブログを制作中に、大正12年 生まれの私の母が、
平成29年3月18日、その94歳の壮絶な人生に、別れを
告げました。
 彼女は将に、終戦後のドサクサを生き、苦しみ這いずり
回った、まさに終戦時の犠牲者でした。
 その母が亡くなり、母から聞いていた終戦時の話を組み入れて
ブログを綴っていきたいと思って居ます。

 このブログを御覧頂いておられる、戦中派、戦前派の皆様、
貴方が経験された、その辛い思い出の数々、貴重な経験を
少しも知らずに、気楽に過ごしている今の若い世代に、
少しでも知ってもらいたくはありませんか?
 今の若い人に貴重な体験を伝えるには、もう余り時間が残って
いません。
貴方は貴方しかご存じでない、その貴重な辛い話を、今の世代の
若者にどう伝えればいいか、戸惑っておられるのでは
ありませんか?
「こんな事は大したことじゃないし、ありふれた事だし。」
そう思って、人に伝え残されたことが沢山あるのでは
ありませんか?
先輩方、その思いの一つ一つを、このブログのコメントに
残して下さい。
 若い世代が少しでも、たった一人でも、それを見て、心に
留めてくれれば、それだけでも、いいじゃー無いですか。
それは、この国の将来に取って、きっと大切なことだと
思うのです。
 貴方の貴重なコメントを期待しています。

 まず終戦後の年表を作ってみました。
懐かしい事柄が幾つも幾つも、でてきました。
そして、忘れて居た大事な大事な事柄も。



 太平洋戦争 終戦後

昭和20年 8月15日 終戦

    正午 天皇陛下の玉音放送
     「終戦の詔勅」朗読

  

 ノイズが多く聞き難かった事もあり、意味がよく理解
出来ない人が多かったと、多くの先輩から聞いています。
玉音放送の後に、アナウンサーが内容を、何度も何度も
繰り返し、その意味についての解説もあり、ようやく、
放送の内容の意味を、
 <日本が負けたんだ>と言う事を、理解した
人も多かったようです。

 私の母も、嫁ぎ先の、朝鮮の 京城で広場に召集が掛かり、
整列させられて聞いたらしいのです。
 でも放送されている、その意味がノイズだらけで、
よく分からず、次にどうしていいかを、広場に来ていた人は、
皆んな戸惑っていたらしいのです。
 すぐ後で、アナウンサーが何度も、降伏する旨を、連合国に
連絡したと聞かされ、 整列していた、広場の人達が、最初は
小さな声で、「戦争が終わったんだ。」
だんだん大きな声になってきて。
「負けたんだ。」と聞こえだし。
だんだんと、皆その場を離れていった、そうです。

  8月28日 連合国 先遣隊 厚木に到着。

 先遣隊から、日本政府へ、これから日本本土へ進駐してくる、
戦勝気分に驚喜(狂気)している、米兵の、欲求の捌け口を、
至急整えろという、要望→命令がある。

  8月28日 特殊慰安施設協会(RAA) 発足
        資金調達などに、池田勇人らが尽力。
        総計 5万人以上の婦女子

        一般新聞に、求人広告 内容を知らず
        応募した婦女子多し。

 特殊慰安施設協会(以後 RAA)がどういった組織で、
何のために造られたかを、ご存じの方は、最早少ないのでは
ないでしょうか。
 特に、バブル世代以降の若い方には、皆目見当もつかない、
話だと思います。
 昭和22年生まれの筆者も、その記憶はもちろん、実体験も
ありません。
 近所のオッチャン、オバチャン、私の母親から聞いた話し
程度です。
でも、私が幼いときに、その話を近所のオバチャンから初めて
聞かされた時、 途中から泣き出したと、そのオバチャンから、
聞かされていました。
 その話の内容は、「… … … … 。」 
すみません、やはり私には、その話を書く勇気はありません。
インターネットで、「特殊慰安施設協会」を、
是非 検索して下さい。



 新聞広告を、政府は出しました。


特殊慰安施設協会の広告・毎日新聞1945年9月4日

 
    特殊慰安施設協会の広告 

(内容)・毎日新聞1945年9月4日  

毎日新聞1945年9月4日には

「急告−特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス 東京都京橋区銀座七ノ一 特殊慰安施設協会」

  東京新聞同日には

「キャバレー・カフェー・バー ダンサーヲ求ム 経験の有無ヲ問ハズ国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム最高収入  特殊慰安施設協会キャバレー部」

 といった広告があり、当時は連日 出されていた[24]

              --ウィキペディア よりーー

 あの私達が信頼している大手報道機関、
毎日新聞、東京新聞が 広告を 連日掲載したんだ。
広告の内容を理解していなかったなんて、言い訳にはならないと
思いますよね。
 特殊慰安施設の意味と役割を十分解った上、広告掲載の
必要性を理解して、掲載されたと思います。
むしろそうあって欲しい限りです。

 実は、今年94歳で他界した、母が、京城から必死の思いで
帰国し、すでに夫が、南太平洋諸島で、戦士しているのも
知らせてもらえず、一家を支えて、生活に困っているとき、
この広告を見たようで、応募しようかと、同じ時期に、
京城から、帰国していた親友の、京子さんに相談したら、
「アカン!アカン!、あれは米兵相手の、売春婦やで。」
と教えてもらい、応募するのを止めれたからよかった
けれど、危なくえらい目に遭うとこやったと、よく
話していました。

 因みに、この京子さんは、母が京城で知り合い、一生付き合い
続けた親友で、母と同じように、京城に移住していた家に
嫁いできていたそうです。
その親友の家に朝鮮人の泥棒が入り、襲われて、命を無くし、
本人の葬儀の日の最中 読経中に突然
「うるさいなあ、しずかにしてよ。」
と、棺桶から声がかかり、その後の騒動が、とても面白
かったと、式に参加していた、母がよく話していました。
 当時の医療事情では、死亡確認が不確かな部分があり、
このような事は珍しい事では、なかったそうです。
 母から聞いていた、その後の京子さんの身の上話は、
とてもとても面白く、NHKの朝の連続小説より、
おもしろくて、戦後の女性の、生き様として、凄い
小説になるような女の人だと思っています。
 そんな嘘のような話をすると、このはなしを聞いた人は、
皆、「へーソオ!」で終わるのですが、
どうしても、京子さんの事で話しておきたい事があるのです。
 私は母に連れられて、何度か、京子さんにお会いして
いるのですが、いつ会っても、同じ若くて優しいお顔
だったという、思い出なのです。
 最後にお会いしたときの記憶は、母が60歳の時で、
その時も京子さんは30歳中頃のお顔立ちに見え、
女優の様に綺麗に思えました。
 後からその話を、母にしたところ、
「変われへんよね、京城の葬儀の時から、
 一度死んだからやと思うんやけれど。」

残念ながら、私と京子さんとの音信はありません。
母の葬儀の時、連絡できればと思ったのですが、
探し当てることは出来ませんでした。
 時々話が脱線します。ご容赦下さい。
  <閑話休題!>


 戦争に負けると言う事は、どういう悲惨と屈辱が待ち受けて
いるかを、 是非 知って下さい。
「特殊慰安施設協会」についての、貴重な思い出をお持ちの方、
是非 コメント下さい。後世に教訓として残しましょうよ!
   m(_ _)m

「特殊慰安施設協会」の設立当事者の方は、もう皆さん、
口を閉ざして、 辛いその思いを、お墓の中に持って行かれて
しまわれたのでしょうか?
でもその方の話を、聞かれた方がおられましたなら、その話を
是非コメントで お教え下さい。
私は、その設立の経過を関連書を読み、関係設立者が、
今自分がやらねば と言う苦渋と決断を読み取れ、決して
侮蔑する気持ちは毛頭もありません。
 勿論、賛美することは、私が、近所のオバチャン、
オッチャンから 聞いた話の、あまりの酷さ、重さから、
到底出来ないのです。
 でも、無謀な、米兵ヤンキーから、負けた我が国の婦女子、
子供、幼児の 防波堤に成るシステムを造って下さった、
その努力と信念を、 真摯に評価しています。

  8月30日 マッカーサー到着。

 パイプをくわえて、爆撃機から降り立った時の、日本人を
バカにした見下すような目つきは、とても印象的でしたよね。
でも後から、書かれた、回想録では、爆撃機の機中で、自分を
狙って、襲撃があるかもしれないと、聞かされて、周囲を
気にしながら、 ヒヤヒヤして歩いていたらしいです。
だから妙にキョロキョロと していたんだ。 (*´д`*)

douglas macarthur japan
「何や只の恐がりやんか?」

  9月 2日 米船 ミズリー号船上にて、降伏文書調印。

  9月 5日 「東京ローズ」逮捕

  9月15日 「日米会話手帳」科学教材社より刊行 
        360万部のベストセラー

 戦争に負けて、米兵ヤンキーが遣ってきて、必要なものは?
庶民が切実に考えたのは。

「あっ、俺英語知らん!」
「そもそも敵国語やゆうて、学校で習って無いがな。」
「今日は。」て、英語でどう言うんや?」

この本が発行されたことを聞きつけて、焼け残った、本屋に、
頼み込んで、ヤットコサ手に入れたと、近所のお兄ちゃんに
聞きました。


  9月27日 マッカーサーと昭和天皇の会談
        以後10回会談



 10月    戦後初の宝くじ発売 一等10万円

  ーーその2 に続くーー


 10月 2日 GHQ 占領国最高機関
  東京都大手町 第一生命ビルに設置 
 ≪報道規制、言論統制が始まります。≫ 




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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。



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