難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

額田王姫の 心を知りたくて !

2021年01月14日 | 歴史

 令和 2年4月1日 追記開始
 額田王姫の心を知りたくて!


 蒲生の里での狩りの後の宴会で読まれた、
有名すぎる 万葉歌

 あかねさす 紫野行き 標野行き
  野守りは見ずや 君が袖振る

 原文
 茜草指 武良前野逝 標野行
  野守者不見哉 君之袖布流
 

 恋歌と思っていたのに、厭戦歌だったとは。

『えっ!!?』と思われた方は、
[ 額田王姫へ、君が袖振る?]
ご覧ください。キット、貴方も、額田王姫を大好きになられる
はずです。



 壬申の乱の後、歴史からは、額田王姫の姿が消えて
しまいます。
かろうじて、万葉集に、それ以降の額田王姫の作として、数作が
残されています。
 ここまで来たら、残された数作を読み解きたいと思うのは、
私のような凡人の、予見可能は、浅はかな妄想ですよね。

 この後、どこまで読み解けるか、挑戦だ、挑戦だ。

 額田王姫の晩年に、絡んでくるのは、
 持統天皇(鸕野讃良皇女(うののさららひめ))
 弓削皇子;
 葛野王;孫、娘 十市皇女と、大友皇子の子
 晩年の地;奈良 忍坂近くの、栗原寺



最も謎の歌

 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之
  射立為兼 五可新何本

 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣、わが背子(せこ)が、
  い立たたせりけむ、いつ樫(かし)がもと

 前半の上の句が、まるでひらがな化されていないのですよ
 なぞなぞを解くより、面白そうですね。
この歌の前ふりに、「紀の温泉にいでまししときに」と
あるので、斉明天皇、中大兄皇子が 、658年(白村江の戦い
663年の5年前)に和歌山の白浜に、行幸された時に、
同行していて、作られたと想定されています。
一説として、万葉集の 歌番号8「熟田津に」の後の項に、
歌番号9として掲載されているので、時系列として、
「白村江の戦い」直後の歌とされています。
そうすると、歌の中に惨敗の影があるのか ?

 そもそも何故、歌の後半だけひらがな化され、前半は
そのままにされていたのだろう?
 蒲生の里での歌会の、「武良前野逝」を「紫野行き」に
変訳したように、平安時代に、万葉仮名を、自分に都合が
いいように読み解いて後世に伝えたのですから。
 自分たち(平安時代の藤原氏を中心とした政権)に、何か
都合の悪いことが、書かれていたので、敢えて、訳さずに
放置したのではないか、裏の訳が有るのか?と、想像して
しまいますよね。
 そのように想像すると、何としても、時間をかけても、
意味が知りたいと思うのは、額田王姫ファンの宿命
ですよね !

 謎を解く時間は、私の命が尽きるまでですから、
幾らでもあります。??
もしも、このブログが長期間更新されなければ、ご覧頂いている
皆さんがお引き継ぎください、ぜひとも謎を説いてください。
額田王姫も、きっとそれを望んでいます。
 少し大げさか? (^_^;)

 謎を整理するため、少し仮定を設けていこうと思います。

 1)この歌が作られたのは、和歌山 紀伊の湯(白浜)行幸の
   658年から「白村江の戦い」の663年までと、
   蒲生の里での、狩りの後の669年の宴会までとに、
   分けて考察したいと思います。

 2)額田王姫の初婚の相手は、大海人皇子で、そのあと、
   中大兄皇子に嫁いだ。(男女関係を絞ります。)

 3)当時歌人の、リーダー的存在であり、彼女を慕う、
   ファン(男女を問わず、斉明天皇を含め)が、沢山いた。

 4)ひらがな書きされた、下の句の正誤性に疑いが残るが、
   むしろ、そこまで訳して、上の句がマズイと分かり、
   訳さなかった、可能性を探ってみたいと思います。

 ちなみに、この歌の解釈は、古代史好きには、とても興味が
惹かれる歌ですから、40以上の解釈があるそうです。
 上の句の言葉数; 一般的な 5,7,5 と考えましょうか?

 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之
  射立為兼 五可新何本

 莫囂圓隣之
 莫: ボ モ くれ
 囂: ゴウ かまびすしい やかましい わずらわしい
   うれえる なげく
   (この漢字が一番難しそう)
   例語; 喧々囂々(ケンケンゴウゴウ)
      非難囂々(ひなんごうごう)
 圓: エン まるい つぶらか まろやか
 隣: リン となり
 之: シ の この これ ゆく

 大相七兄爪謁氣
 大: ダイ おお タ ダ 尊敬の意を添加する接頭語
 相: ソウ ショウ あい さが たすける
 七: ヒチ なな なの ヒツ 何度も 多くの回数
 兄: ケイ キョウ あに え 親しい友人に対する敬称
 爪: つめ つま ソウ
 謁: エツ まみえる 貴い人に会うこと
 氣: キ ケ いき いき、かおり、けはい、陰暦の1/24の
   1期間

 吾瀬子之
 吾: ゴ われ わが 親しみを込める相手に冠する語
 瀬: ライ せ はやい あさい おさない
 子: シ ス こ ね み おとこ
 之: シ の この これ ゆく

 射立為兼
 射: シャ セキ ヤ いる あてる さす
 立: リツ リュウ たつ たてる 定める 設ける 位につく
 為: イ ため する なす なる つくる 治める
 兼: ケン かねる あわせて 以前から

 五可新何本
 五: ゴ いつ いつつ
 可: カ コク よい べし 聞き入れる 許す できる 
   してよい すべき
 新: シン あたらしい あらた にい
 何: カ なに なん なんぞ いずれ いずく どうして
   どこ どちら
 本: ホン もと おおもと 中心 真実の 本当の


 さあ、直感を最大限に働かして、謎解き開始だ
   (^O^)/

 全体を読んでみて、思いついたことを、書いていきます。
1) 全文の中で、私のような素人でも、読めるのは、
 上の句最後の、吾瀬子之ですよね。
 普通に、「我が背子の」 でいいと思いますよね。
 平安朝の訳は、「我が背子が」 になっていますが、無視。
 そうすると、背子(せこ)は誰でしょう?
 普通に、額田王姫と大海人皇子の子供、十市皇女
 (といちのひめ)と想定できますよね。
 生まれは、653年と想定されています。
 和歌山 紀伊の湯(白浜温泉)行幸時、(658年) 5才
 白村江の戦いの後、奈良へ逃げ帰ってた時は、(663年)
  10才です。
 背子と書かずに、瀬子と書いたのは、背負うほど幼くない
 為でしょうか?
 それなら、5才時と思ったのですが、夕食時なにげに、
女房に、
 「額田王姫が歌で、「我が瀬子の」と歌っているんだけれど、
  母親のとって、何歳ぐらいまでが、瀬子なんだろうね?」

 その後、女房から男ではとても想像できなかった、答えが
 帰ってきました。
 「母親にとったら、我が子は、何歳に成っても子供だから、
 瀬子という思いは、20才までは間違いなく持って
 いたはずよ。」

 そうか、娘を母親から見たとき、小学生はもちろん、中学生
 高校生の我が子は、我が瀬子なのだ。
ようやく、二十歳の成人式の晴れ着を見て、我が背子から
卒業さすんだ。

 という事は、我が背子と読んだ、十市皇女は、紀伊の湯の
5才の時、白村江の戦い後の、10才共に、可能性があると
思えました。

 この 「吾瀬子之」 は上の句の最後ですから、必然的に、
その前の句は、幼い十市皇女に関する話題となりますよね。
 その話題も、今も昔も母親が願うのは、我が背子の、行く末の
幸せを期待した話だと、想像するのが、一番あり得る話と
思うのですが。
 それを頭に入れて、上の句を見ていきましょうか。


2) 莫囂圓隣之
 莫: ボ モ くれ
 囂: ゴウ かまびすしい やかましい わずらわしい
   うれえる なげく
   (この漢字が一番難しそう)
   例語; 喧々囂々(ケンケンゴウゴウ)
      非難囂々(ひなんごうごう)
 圓: エン まるい つぶらか まろやか
 隣: リン となり
 之: シ の この これ ゆく

 この行の解釈に、粋人の40以上ある解釈の内のいくつかに、
「夕月の」と、解釈する説があるらしいです。
 どの字をどう読んだら、「夕月の」に成るのかが分かり
ません。

 意味も何も気にせず、字の意味の通りに訳してみます。
 暮れに煩わしい丸その隣の チョット無理か?

 額田王姫が、どのように声を出して、歌ったかを想像して
みましょうか。
 ; も ; ご ; え ; り ; の
 続けると、 もごえりの; (我が背子が) もご襟の
と読めるんですが。
 少し無理が有るかもしれませんが、小さい子が、大きな服を
着て、 「モゴモゴ(モコモコ)して歩いている。」という
言葉は今の世なら、よく使いますよね。
 飛鳥時代では、モゴモゴという言葉は、通じたのでしょうか?

 大相七兄爪謁氣
 大: ダイ おお タ ダ 尊敬の意を添加する接頭語
 相: ソウ ショウ あい さが たすける
 七: ヒチ なな なの ヒツ 何度も 多くの回数
 兄: ケイ キョウ あに え 親しい友人に対する敬称
 爪: つめ つま ソウ
 謁: エツ まみえる 貴い人に会うこと
 氣: キ ケ いき いき、かおり、けはい、陰暦の1/24の
   1期間

 音だけを取り込んでみます。
 大; た 相; そう 七; な 兄; け
 爪; つ 謁; え 氣; き
 続けると; 「たいそうなけ つえき」 と読めますね。

 意味がもう一つ、読めないですね。 何処かが何箇所か
 違うということですね。 時間を掛けましょう!

 意味を気にせず取り敢えず、組み合わせてみましょうか。
 大; た 相; あい 七; な 兄; え 
 爪; つめ 謁; みえ 氣; き
 「たあいなえ つめみえき」
無理か?

 先は長いですよ。
 大; たい 相; そう 七; な 兄; え
 爪; そう 謁; みえ 氣; き
 「たいそうなえ そうみえき」
 「たいそう萎え そう見えき」

これは少しいけるかも。
 「もご襟の たいそう萎え そう見えき 我が背子の」
これでどうだ!

 下の句を探っていきましょうか。
 平安朝の訳は、
 射立為兼 五可新何本
 い立たたせりけむ、いつ樫(かし)がもと

  射立為兼
 射: シャ セキ ヤ いる あてる さす
 立: リツ リュウ たつ たてる 定める 設ける 位につく
 為: イ ため する なす なる つくる 治める
 兼: ケン かねる あわせて 以前から

 音だけを取り込みます.
 射; い 立; たて 為; ため 兼; けん
 「いたてためけん」

 なんのこっちゃ、違いますね。
 時間は幾らでもあります。 想像を巡らしましょう。
 下の句の限定事項。
1) 額田王姫が、自分の子を読んでいるのですから、当然 女言葉。
2) 当然自分の子は、可愛い! 事を強調したいよね。
3) 斉明天皇や、大海人皇子、中大兄皇子がその側で、見ている。
4) 紀行地の、紀伊の湯 白浜の景観や、自然も読み込みたいと
  思いますよね。
5) 5才の子は、親の思わぬ、行動や仕草をしますよね!
6) あっ! 紀伊の湯に、十市姫を連れて行ったのですよね?

 次の句を読んで、関連から解明。(甘い考え ^^;

 五可新何本
 平安朝の約では
 いつ樫(かし)がもと

 五: ゴ いつ いつつ
 可: カ コク よい べし 聞き入れる 許す できる 
   してよい すべき
 新: シン あたらしい あらた にい
 何: カ なに なん なんぞ いずれ いずく どうして
   どこ どちら
 本: ホン もと おおもと 中心 真実の 本当の

 平安朝の訳では。
 五; いつ 可; か 新; し 何; が 本; もと
 「いつかしがもと」
 無理はないよね? かしかどうかは疑問だよね。
私の訳した、上の句と平安朝の下の句を組み合わしてみますね。

「もご襟の たいそう萎え そう見えき 我が背子の
い立たたせりけむ いつ樫がもと」

「……… ??」

「ナンノコッチャ? 意味が通じてない!」
 下の句の、射立為兼の意味だよね?
身の丈に合わない大きな服を着て、随分しょんぼりしている
私の子供が、???????、いつ樫の下にいる。

 ポイントは、射立為兼の意味に
絞られましたね。

 令和コロナ騒動に振り回され、このブログに集中
できませんでした。
今日 6月19日から再挑戦します。
とは言っても、この歌は難しいですね。
 目線を変えてみたいと思います。

 十市姫から、見てみましょうか。
1) 母親の、額田王姫と、飛鳥の宮から随分遠い、紀州の
 白浜まで馬車に揺られて、連れてこられたわけですよね。
2) 5歳と仮定して、今の幼稚園児の歳ですよね。
3) 到着まで何日掛かったんでしょうか?

 疲れ切っていると、想像できますよね。

 射立為兼
 射: シャ セキ ヤ いる あてる さす
 立: リツ リュウ たつ たてる 定める 設ける 位につく
 為: イ ため する なす なる つくる 治める
 兼: ケン かねる あわせて 以前から 

 こんな読み方はどうでしょうか。
 射; い 立; たちて 為; おり 兼; かね 
 「いたちておりかね」
 「い立ちて おり兼ね」
 立ち続けることが出来なく。
 これだ! (^○^)

 訳を全文並べてみます。

 「もご襟の たいそう萎え そう見えき 我が背子の
  い立ちて おり兼ね いつ樫がもと」

 とても重そうな、もこもこの襟の服を着て、
  大層辛そうに見える、私の子の
  立ち続けることが出来そうにない、いつ樫の木の下で。

 この和歌を読んだ、額田王姫の心。
 長い旅で疲れている我が子に、重い大きな襟の服を着させて、
 樫の木の下で、立っていることも出来なさそうで、
 とても可愛そう。

 よし、意味は通じた !
 あれ ? ーーーーー?
 これなら別に、歌の真意を知られたくなくて、平安朝が訳を
 途中までしかせずに置いた、理由がわかりませんよね。

「ただ何となく面倒くさくて。」
 それはないよね。
私の訳が間違っている ?
可能性から、「いつ樫の木の下で」 ですよね。

 まだまだ時間が掛かりそうですー




 万葉集に出てくる、当時60才前後の、額田王姫 最後の歌。
 持統天皇時代の問題児、弓削皇子と、交わした真意不明な歌。

 吉野宮に居た、弓削皇子から、額田王姫

 古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉之
  三井能上従 鳴済遊久

 古に 戀ふる鳥かも ゆづるはの
  御井の上より 泣き渡り行く


 額田王姫が、弓削皇子の歌に答えた歌

 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥
  蓋哉鳴之 吾念流碁騰

 古に 戀ふらむ鳥は ほととぎす
  けだしや鳴きし 我がおもえるごと


 弓削皇子が、額田王姫からの返歌に答えて、松の枝を折り取り
 送られてきた時に、再度返歌を。

 三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞
  君之御言乎 持而加欲波久

 み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも
  君がみ言を 持ちて通はく
 



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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


 




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