難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「太平洋戦争」 「白村江の戦い」 敗戦後の考察 その2

2021年01月10日 | 歴史

 「太平洋戦争 終戦後のドサクサ」との
   類似性を考察する。 その2

   (令和2年11月24日 補筆中)

昭和20年10月 2日 GHQ 占領国最高機関
     東京市 皇居前 大手町 第一生命ビルに設置

 GHQ廃止後に発表された、データーで、7年間の占領
期間中、 米兵に殺害された日本人が 2536人、
傷害を負わされた日本人は3012人とされています。
 あの漫画家の手塚治虫も、(米兵に)街角で殴り倒された。
また、米兵に日本人女性が襲われる事件が 2万件といわれ、
強姦の際に、日本の警察官が事実上の見張り役になる
場合もあった。
 (ウキペディアより)

 (わあー、こんな話は知りたくなかった!!) (;_;)

 GHQ 言論統制「プレスコード」実施
「掲載禁止、削除理由の類型」―占領軍批判、検閲への言及、
本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目もあった。
 その中の主な物は
米兵の(日本婦女子)暴行事件
米兵のプライベートに関して、面白くない印象を与える記事
進駐軍将校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事
食糧事情の窮迫を誇大に表現した記事
連合軍の政策を非難する記事
国内における各種の動きにマッカーサー司令部が介在
 しているように 印象づける記事
 等であった

(ウキペディアより)

 つまり、「プレスコード」は米国に取って都合の悪いことは、
決して報道してはいけない、絶対命令だった訳です。
GHQの存在していた期間の上記内容の報道は、日本人には、
一切知らされていなかった。そして、GHQ廃止後も、
その記録が公に されることは無かった。

 それで、戦中 戦前派が、GHQ統治時代、米兵ヤンキーに
むごいめに会っていたはずなのに、GHQ廃止後も、その嫌な
記憶を 元にした、ニュース映画、小説や、映画などは、
作られていないんだ。

 映画界には。
終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影する
ことが 禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に
置かれた。

 そのせいで、小さいとき大阪に住んでいた、私は、
映画館に、よく親に連れられて、映画を見たのですが、何故か、
あの都心の焼け野原の光景が、スクリーンには出なかったんだ。
大阪の代表的な場所は、国鉄(JR)の大阪駅から、天王寺駅
までの、 焼け野が原、特に、桜宮駅、京橋駅から鶴橋駅までに
見える、 大阪城横の、砲兵工廠跡の、辺り一面壮絶なガレキの
山ですよね。

 オサナゴコロに、妙な違和感が有ったのですが。
その壮絶な光景は、大人の人の話に出て来ず、新聞や、
雑誌にも、 映画館で観るニュースにも出て来ず、無視された
風景になっていたの ですから。
GHQ「プレスコード」の、せいだったんですね!
GHQがあの壮絶な光景を封印していたんだ。!!

 該当する項目が有れば、そちらで話を広げてみようと思った
のですが、 年表に適当な項目が見当たりませんので、ここで、
砲兵工廠跡の話を少し 広げてみようと思います。

 幼いときの私は、国鉄の城東線、省線(現 JR大阪環状線)に
大人に 連れられて乗ることが多く、この焼け野原を見て、
「ここは何でこんな事になっているの ?」
と、連れの大人に聞いてみたのですが、大人はみんな
少し暗い顔をし、「戦争で空襲にあったからや。」
「ここには、大砲なんかの武器を造る工場やったから、
 米軍に目着けられたんや。」
と、
「そして、一番酷い空襲は、8月14日やった。」
「そや、終戦の日の前の日やで。」
「でも、日本がもうすぐ手を挙げるのは、解っていた
 はずなのに、 何でか、その前の日に、大空襲しくさって、
 そのせいで、 沢山亡くなったんやで!」
 と ( ̄ー ̄)
教えてくれるぐらいで、あまり焼け跡の話を続けては
くれませんでした。
 戦争に負けるということは、本当に、本当に、
辛いことですね。

今、目の前に見えていることも、見えて居ないことにしなければ
ならないんだ!!
子供にすら、本当のことが伝えられないのだ。

 開高健が1959年(昭和34年)発表した小説
『日本三文オペラ』を私は、高校時代にこの本を
見つけてきて、読み、漸く、 私の疑問の一部は解けた様に
思えました。
 その中に出て来た、当時にアパッチ族 と呼ばれていた、
焼け跡の鉄くずから、お金になりそうな物を、夜中に拾い集め、
スクラップ業者に売り、それで生活をしている人達の話が
出てきて、
「そうか、近所に住んでいた、ニイチャン、オッチャンが、
 こそこそ、相談していたのは、このことやったんや!」

 その後、しばらくして、よく近所の駄菓子やで、飴玉を
奢ってくれたのを、思い出しました。
私自身も、砲兵工廠跡ではなかったかもしれませんが、
鉄くず拾いに、 連れて行ってもらえた記憶が微かに
あるのですが。
 キヨシお兄ちゃん、飴玉ありがとう御座いました。
 <この項目推敲中 ご期待下さい。> 

 東京ではどうでしたか?、貴方の町では?  
 この話を調べながら、思い当たったのですが、私は、
戦災の廃墟後の光景を、私の住んでいた、大阪の町しか
記憶にないのです。
そしてその理由が、GHQによる「プレスコード」報道管制の
為で、 映像としての記録を、消しさられていた為と初めて
知りました。

 だから、私は、空襲がもっと多く激しかった、東京の惨状や、
広島 長崎の惨状の光景を視覚として思い出すことが、どうしても
出来ないのです。
 各地区のそれぞれの、惨状が、映像として、全国的に
伝えられず、 記録として残されていない為なのですね。
 実際にその光景を目にした、地元の人しか解らないのです。
日本各地の、その惨状を映像記録として、共用していないから
異なった地域の人同士が、戦後の悲惨な話をすると、共通する
後景が違うものですから、話がどうしても、カラ滑りするん
ですね。
 私は、同世代の方と、戦後の話をする時に何故か 話が
上滑りをするのを不思議に思っていたのですが、
GHQの「プレスコード」情報統制のせいだったのですね。
そのせいで、終戦後の悲惨な惨状が日本人に共有されて
いなかったんですね。
 終戦記念日になると、よく空襲後の、焼け野が原の光景が
放送されますが。それは、米国のフイルムが多く、日本の
物は殆ど見た記憶がないのですが、
 皆さんはどうですか?
 全国各地のそれぞれ、酷い被害があったはずなのに、それが
フィルムとしての媒体で記録されていないなんて‥‥。
戦後の醜い光景を知らない、今の若い世代に、うまく、伝える
事が出来ないですよね。でも、もしかしたら、カメラ好き
記録好きの、我ら日本人、もしかしたら、もしかしたら、
誰かが、???
「是非とも、是非とも、インターネットで、公開して下さい!」

 このブログを書いていて、
「そういえば、関西に住んでいるのに、大阪城公園には、
 暫く行っていないな。」
「砲兵工廠の後はどうなっているか、見に行ってみるか!」

久しぶりに、難波の宮跡も見て、その側の、大阪歴史博物館も
見学することにしました。

 地下鉄 谷町線で、谷町4丁目で降り、NHK大阪放送局
(JOBK)の隣にある、 大阪歴史博物館へ、
(難波の宮跡、大阪歴史博物館につきましては、別ブログで)
只、近代大阪展示場では、懐かしい風景に出会え、母が
生きている間に、 連れてきてやれば良かったと、
強く後悔を感じました。
 きっと、懐かしさで、涙を流し、立ち去ろうとしなかった
かもしれません。
 大阪に縁がおありになった、特に戦前の大阪に御縁のあった、
親御さんをお持ちの皆さん、是非お連れになって下さい。
キット涙を流して喜ばれると 思います。強く強く
お勧めします。

 難波の宮跡を出て、最近少なくなった、サラリーマン街の
喫茶店で、 昼のサービス ランチを食べ、「アイスコーヒ。」
ではなく、「冷コー。」を普通に注文できて、
ヒト安心でした。
 だって、関西では、私の子供の頃は、アイスコーヒは、
コーヒー味のアイスキャンデーでしたからね。
 (;_;)
 私の現役時代は、よく次の仕事の段取りを考えるために
(サボルために (^_-) )、サラリーマン街の喫茶店を
利用したのですが、需要が少なくなったためか、店の数が、
本当に少なくなってしまいました。
 この日も、お得意先(日本紡績検査協会)が近くに在るので
現役時代よく通っていた、 喫茶店に久しぶりに、行いて
みたのですが、看板だけを残して、店が無くなっていました。
「さみしい!」 ((((゜д゜;))))
 閑話休題!

 大阪城公園へ。
 天守閣は今回はパスし、グーグルマップで調べながら、
外堀沿いを、 玉造口(たまつくりぐち)から城内へ入って行き。
そのコースに観光バスの駐車場があり、そこから降りてくる
団体客の大半が、外国人で、自国語を大きな声でシャベル
元気な観光客に、揉みくちゃにされながら、「これなんだ?」
という顔をかき分け、途中にあった、本願寺の蓮如上人碑を
お参りし、手を合わせていましたら、
(なんだ、何してるんだ、この男前の日本人は?)
と外人観光客は思ったのか、何人もの、スマホで、
カシャカシャと撮られてしまいました。   ^_^
内堀沿いを大阪城 青屋門へ、
そこから外濠を越え、右に曲がっていくと、砲兵工廠跡碑に
たどり着けました。
 砲兵工廠跡の敷地は、昭和50年代の後半に、取り壊されて、
大阪城ホールや、体育グランドに整備されており、
戦後長く放置されていた、太平洋戦争の残骸跡は、夢幻の如く
消滅壊滅して いました。

 砲兵工廠跡記念碑


 探すのが難しいくらい、ヒッソリと作られていました。
 興味がある人は、私以外、誰もいないようで、悲しい。

 <砲兵工廠 化学分析所跡>

 環状線に乗っていて、大阪城が見えるとき、ガレキの中に、
さみしくたたずんでいた煉瓦造りの工場です。
何の建物か、何も案内板らしい物は無いようでした。
今後どうするか、決まっているのでしょうか。?

 久しぶりに、大阪城公園に行き、その変容振りに
驚かされました。
 小学校の遠足で、何回か来た記憶が有り、その時の印象とは、
とても⇒まるで 変わっていました。
その公園の中には、子供の頃にはなかった、建物や、施設が
沢山できておりました。
ブログを改めて、報告したいと思います。
 その中に特に、ブログをしたいのは、
「大阪国際平和センター」です。
 平成29年6月 推敲 校閲中

 GHQ「プレスコード」 紙芝居まで検閲!! (・・;)

 当時の子供達の文化媒体であった紙芝居では、
一番楽しんでいた「黄金バット」の
「髑髏怪人」(がいこつかいじん) というキャラクターを、
「スーパーマン」のような「たくましい 金髪碧眼の
白人キャラクター」に一時期変更させている。
しかしこれは、子供達に全く支持されることなく無視された。
 (ウキペディアより)

 私がまだ幼いときに、近所を回っていた紙芝居で、
見物代を兼ねていた、スルメをスクナイ小遣いで買って、
「黄金バット」を観ていた記憶が甦りました。
確かに前に見た時は、黄金バットはドクロの顔の髑髏怪人
だったのに 急に、背の高い白人の主人公に、変わっていて、
「オッチャン、黄金バットが、ドクロから白人に変わったん?」
と見ている皆んなで聞いたら。
「何でやろな?」と話を逸らしていました。
暫くして、やって来たとき、黄金バットは、白人から、
元のドクロ怪人に 戻っていました。
 オッチャンが、「やっぱりドクロ怪人の方がええやろ。」
変なところからゴチャを入れられたそうやと、話していました。
紙芝居屋のオッチャン達、頑張ってくれたんや、ありがとう!
そして心底驚きました、GHQが子供が楽しみにしている
紙芝居まで、検閲していたとは!!
 皆さんはご存じでしたか?

 10月10日 戦後映画の第1号 「そよかぜ」公開
  主演 並木路子 霧島昇 挿入歌「リンゴの歌」

♪ 赤いリンゴに唇よせて だまってみている青い空
♪ りんごはなんにもいわないないけれど
♪ リンゴの気持ちはよくわかる
♪ リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

 この歌に、励まされ、慰められて、失っていた希望を、
見いだし思い出せた 日本人は、きっと多かったと思います。

 「リンゴが物言うか! リンゴが物言うたら、
 果物屋のおっさんが、うるそうてかなわんやないか。」
「責任者出て来い!」
「責任者さんが出て来はったら、どうすんの?」
「あやまったら、しまいや。」
(人生航路 歌謡漫才)

 私は、幼いとき、この漫才の放送を、家の、真空管ラジオで、
初めて聞いたとき、そのあまりのおかしさに、笑いが
止まらなくなり、 お腹を抱えて、笑い転げ、お腹が痛くなり、
それでも止まらず、 涙を流しながら、笑い続けたのを、
懐かしく思い出します。

 その時以来、私の人生で、それ以上に気楽に笑った記憶は
ありません。
 もしかしたら、人見知りで、気の小さい私が、成人して、
定年に成るまでの永い会社員として、産業構造変革の為
(重厚長大⇒短小軽薄)、一度会社を変わりましたが、
43年間、営業職を続けられたのは、
「あやまったら、しまいや。」の 言葉が、私の脳裏に、
焼き付けられていたからかもしれません。

 余談ですが、営業職や、対人関係の職種に就いておられる方、
この言葉を、ゼヒ参考にして下さい。
私がまだ、経験不足で、色々なトラブルに、苦しんでいるとき、
先輩から、
「そんなんあやまったら、しまいや。
 あやまるのに、頭を下げるのに お金は要らんから、
 楽なもんや!」
「もちろん、あやまらなくても良いように真面目に全力で、
 取り組んでいれば、 お客様に此方の誠意は、
 必ず分かって貰えるぞ。」

と言ってもらい、それからの営業が随分、心軽く進められたと
思います。

 「リンゴの歌」が、打ちのめされた当時の多くの日本人の
心に入り込み、 心の癒しになったと思えます。
 母から聞いた話ですが、買い出しに、列車に乗って、
田舎に行った時、そこに乗っていた、女学生の一団が、
「リンゴの歌」を 歌いだし、列車に乗っていた皆も
つられて歌い出し、とても気持ちが楽になった思い出を
話してくれました。
 また近所のオッチャンも、
「復員してきて、家に帰省するため乗った満員の列車で、
 まだ聞いたことが無かった、「リンゴの歌」
 女学生の一団が、歌いだし、こんな歌が、日本で流行って
 いるんだと 知らされ、不安で、落ち込んでいた暗い気分が
 一掃され、 とても勇気が湧いてきた。
 そして、当時落ち込んでいた俺や、皆の心を、 これから
 新しい未来を切り開くんだという、前向きな気持ちに、
 持って行ってくれた将に、主役は、彼女達 女学生だった。」

と話して、教えてくれました。
「当時の日本に、希望の光を灯してくれた女学生さん、
 有り難うございました。
 今どうされていますか?」  (^-^)v

 戦後期、若い元気な女学生に、同じ様に、励まされ、
元気を貰えたという話を他のオッチャン、オバチャンからも、
沢山沢山聞いています。
 何か、女学生さんを、後押しするような思い、力が
あったのでしょうか?
 皆さんはどうですか。?

 列車の中で、「リンゴの歌」を歌った、女学生の皆さん、
その時の心意気、光景を、是非教えて欲しいのです。
 もうあまり時間がありません!!
 日本一般庶民の、戦後復興の力の源の一つが、
あなた達、女学生と思うのですが?!!
 このブログをご覧の方で、お母さん、お祖母さんが、
この女学生達と、思われた方は、是非一度聞いてみて下さい。
 その話が、集まればキットとても素晴らしい、NHKの
昼ドラマに成ると思うのですが。
 いや、昼ドラマにしてほしいのです。
                   

 11月 2日 日本社会党結成

 11月 9日 日本自由党結成

 12月15日 GHQ 国家と神道の分離を指令。

昭和21年   1月 1日 昭和天皇 「人間宣言」

  1月 4日 公職追放令 GHQより発表

  2月 1日 第1次農地改革実施

 GHQ の指令によって行われた日本農業の改革で、
不在地主の全貸付地と,在村地主の貸付地の保有限度
(都府県で平均一町歩,北海道で四町歩)を超える部分を
国家が買収し,小作農に売り渡し自作農化した。
 戦前の、農村部における貧富の差は、農作者の作地が
農作者自身の物か、小作農者で、他の地主の物かで、大きく
左右していた。
 この事が、日本における、貧富の差の元凶と考えた、
GHQ が、その対応策として、全国的に実施された。
 その法案が、「農地改革法」農地開放作と言われた。

 その時設定された、農地価格が、剰りに安く、
小作農者(小作人)を 喜ばした。
 逆に言えば、農地地主(庄屋など)を、路頭に迷わした。
 中学時代、歴史の時間に、先生からこの事を教わり、
「GHQ が日本でやってくれた数少ない良いことやった。」
仰っておられました。

 このブログを作るため、農地改革を改めて、調べて
みたのですが、 良かったことは、農村部における貧富の差を
縮められたことが、 やはり一番だったのですが、
反面、農地の細分化を進めてしまい、 日本の農業力を弱め、
他の農業国との価格競争力が、対抗できないほど、
弱める 元凶になっているという事らしいです。
 この農地改革を調べるうち、私は、思いもしなかったことを
知りました。
それは
 次のブログで教えられました。

 「仏教の教えと瞑想~原始仏教の世界」
  http://www.bukkyouoshie.com/
 より抜粋
 GHQによる農地改革が導入される前は、日本の仏教寺院は
「寺社領(じしゃりょう)」という土地を保有していました。
寺社領とは、寺院が自ら開墾した土地や、信者さんから
寄進を受けた土地です。
 これらの土地に小作人が住まわれて、その代わりに作った
農作物の一部を、寺院に提供することをしていました。
小作人は、生活できる「家屋」と「仕事」があり、
僧侶は「純粋な精神生活」をしながら、食べるための「食料」が
最低限、得られていました。
いわば、寺院と小作人による共存共栄のシステムです。

このシステムが、戦前までの各地区の精神的なより所としての
お寺さんが形成されていたと思われるのですが。
 このシステムが GHQ に壊されてしまい、通貨経済システムに
取り込まれてしまい。
地区のお寺さんが、食べていくために、ビジネスを
せざるを得なったということです。

 葬式(戒名)、祈祷、観光、あるいは不動産業といった
ビジネスは、 戦後、盛んになった仏教のビジネスです。
戦前はそれほどメインには、なり得ないものでした。
しかし仏教がビジネス化することで、本来手放すはずの
「欲望」「煩悩」を手放すことができなくなります。
 そうか! それで今の、お寺さんの姿があるんだ!
心のより所を、お寺さんに求められなくなり、新興宗教に
走ってしまう人が多くなったんだ。

 ジャーどうすれば??
 お寺さんの悩みは大きいようですね。

 どうして、この農地改革にコメントしているか
 といいますと。

 実は、農地の所有方法を定めた、律令制度が制定されたのが、
このブログのメインテーマの「白村江の戦い」の後、日本の
政治体制を整えるために、出された、飛鳥淨御原令と
大宝律令(701年制定)なのです。
これは、歴史の時間に習いましたよね。
 そして農耕地を増やすために、三世一身法をヘて、
墾田永年私財法(742年)が 制定され、
開墾された農地は、開墾した者の物と決められ
たんですよね。それを、GHQ が気楽にアッサリぶち壊した
わけです。
 663年唐に、白村江で大敗し、何とか国をまとめるために、
制定した制度を1300年後、米国に破れて、潰されて
しまった訳です。

 太平洋戦争の戦後史が書かれた本を、読むと必ず、出てくる
フレーズがあります。
「初めて、他国に破れて。」

1300年前、唐に破れた、白村江の戦いはどうなったの??
GHQのマッカーサーと同じ様に、唐から郭務悰
占領統治するために、大軍で、遣ってきていたんですよー。


  2月    日本占領の最高機関 極東委員会発足

  2月19日 昭和天皇全国各地に、巡幸を開始される。

  2月17日 預金封鎖、新円切り替え

  4月10日 新選挙法による総選挙実地

  5月 3日 極東国際軍事裁判 開廷

  5月17日 女性代議士 国会初登庁

  5月24日 「はたちの青春」公開 初めての
        キスシーン映画

  8月 9日 国民体育夏季大会(国体)開催

  8月 9日 特殊会社整備委員会、発足 財閥解体

  8月14日 敗戦から1年目 首相、閣僚を召された
        お茶会での、昭和天皇のとても辛いお話。

「終戦記念日に当たって、私はかって(大正9年の春)
 太宰府を 訪れたときに聞かされた、あの有名な
「白村江の戦」の故事を思い出した。
 あのときは百済の再興を援助するべく、日本軍が出動したが、
 唐と新羅との連合軍に完敗してしまった。
 その後で、当時の天智天皇が おとりになった国内整備の
 経論を、文化国家建設の方策として偲びたい。」

 (中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」芙蓉書房出版
  より抜粋)

 H.29.5.15 書店で、山本直人著「敗戦復興の千年史」
 展転社 刊 を 手に取り、その内容が私が探し求めている事に
余りに近いため、 購入しました。

 その中に、昭和天皇は終戦のその時、どのように考えられて
おられたのかを、 知りたいと、前々から、思っておりました、
その答えの一つに とうとう辿り着けたと感じました。
 そして、そのお茶会の空気を想像するとき、思わず身震い
するほどの、 冷たい空気と、静寂を想像してしまいました。
 恐らくその場にいた、閣僚の中に、「白村江の戦い」を
理解できない、 聞いたこともない人が、多かったのではと
容易に想像できたからです。
 だって学校で、教えられていなかったのですから。
教科書にも、一切記載されていないのですから。
 そして、我々日本人にとって、とても悲しいことに、
その大国との戦いに負けると、どうなってしまうのかを、
想像する事すらできない、歴史に無学な輩が、無教養な閣僚が、
日本を戦争に導き、予め決まった通りに、大敗戦に導いて
しまい、 日本中を焼け野が原にしてしまったのです。

 そして、よく太平洋戦争の、開始責任が問題にされる
のですが、 昭和天皇は反対されておられ、御前会議の際も、
陛下自らの発言は 謹まれるのが、恒例なのですが、
あえて戦争を回避する方法は無いかと、問いただされて
おられた、との話しが伝わっており、これとともに、
戦争末期に、戦争終結を、御前会議で自ら閣僚に問い
かけられ、反対する、 陸軍大臣が、
「本土決戦、一億玉砕」を唱える中、 その無謀さを
問いつめ、説得されたという話とともに、これは、
天皇の戦争責任を回避するためではないかと、
情報操作かと思っておったのですが、 大国と戦をすると
いうことは、負けるという可能性を理解し、そして、
負けたときにどれほどの、悲惨さが押し寄せてくるかと
いう事を、 「白村江の戦い」からその後の、
日本の惨状を、理解されておられたからの 「お言葉」
と、知ることができました。

 天智天皇が、「白村江の戦い」で負けた後、1年も
しない内に、 やって来た、唐の使者、郭務悰に、会って、
頭を下げさせられた時と 同じように、
GHQのマッカーサーに会見に赴き、頭を下げなければ、
ならなかった。
 そして、彼は軍服、此方は、背広で上から見おろされる
ツーショットの記念写真。
 昭和天皇は、天智天皇の故事から、覚悟をされて
おられたのではないでしょうか?。

 11月 3日 日本国憲法 公布

 12月 8日 シベリア引き揚げ第1船 舞鶴入港



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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。



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