難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

額田姫王を求めて 平成30年4月 2日目 午前中 (作成中)

2021年02月23日 | 歴史紀行
額田姫王の生きた時代の
   香りを求めて


 談山神社の満開の桜

◎ 2日目 午前中

 平成30年 4月14日(土曜日)2日目 午前中
   晴れ 夕方から小雨

     創作    平成30年4月21日
      校正補筆 令和 3年 2月20日

大和郡山市額田部地区 徒歩散策

額田王姫の故郷 を散策


 額田部という地区をブログさせて頂く前に、此の地区は
これまでに、あまりマスコミに取り上げられることは無かったと
思うのですが、探っていく内、非常に興味を引きつける特異な
歴史と史跡を持っていると思うようになったのです。
 その地区を、何も知らない素人の私が立ち入ることは、
真相究明嗜好の、 歴史マニアに取って、私のような軽くて、
美人好きで、小心者で、恐妻家の歴史好きに、よそ道に
逸れてばかりで、許されない話や、妄想を綴られてしまう
ことが、我慢ならん事と思われてしまうかもしれません。
 前もってお詫びしておきます。 m(_ _)m

 史跡、人物の内容は、ウキペディア等、ネット検索を参考に
させていただきます。


 泊まっている、近鉄 筒井駅 近くホテルから、徒歩で
パナソニック 奈良工場等、大きな工場地区を南下、
西名阪自動車道の高架をくぐり抜けると、
(Googleマップで見てもらえれば、
 すぐ気づかれると思います。)

「何故、此の小さな地区に、これだけの、史跡があるのに、
 情報が少ないの、イヤッ 無いの。?」
「情報誌にも、MAPや観光案内パンプレトにも、
 掲載されていない。と言うより、
 此の地区の地図さえ、飛ばされているじゃん。」

 行かれて、見てもらえば分かってもらえると思うのですが、
そこには、貴重な史跡や、由緒の有りそうな邸宅、
大昔から在ったような、大きな民家農家が立ち並んで
(表現が不適切かもしれません。)います。
 将に農家集落の小道や、落ち着いた田畑が、心の奥に在った、
懐かしさで、訪れた人の心をホンワリと、気持ちよく
安らげてくれます。
 でもその小道は、昔からの集落のため、区画整備等はされず
(出来ず)、その歴史の重みで曲がりくねり、しかも狭い道が
多い為、車のすれ違いに、たいそう気を使わなければならない
事に成り、車幅の広い観光バスなんて絶対無理、初めから
想定していないように、思われるほどの、狭さでした。
 それに、他所から観光に来る人の為の、駐車場なんて、
皆目見かけることができませんでした。
 地元の人達が、観光事業に関わる煩わしさの割に、見返りが
少ないと思われているのが、初めて行った私でも容易に
感じられ。その為に失くしてしまうかもしれない、先祖から、
千数百年以上も引き継がれてきた、大事な歴史、静けさ、
生活の糧や、伝統を守れそうもなく、観光開発の努力なんて、
微塵も関わりを、持ちたく無いという意志が、漂っていると、
気付かされてしまう地区でした。

 そういえば、此の地区は、古代史にあふれた奈良平野の
中ほどに在って、飛鳥の宮や、藤原京、平城京地区から外れ、
斑鳩の里からも外れていました。
 そうです、丁度その中間、通り道、通過地区と思える
場所にあります。
 私が何度か、学校の遠足で、来た時も、観光バスで此処の
そばを通り過ぎるだけの、
「農家の集落田畑が、広がっています。」
とガイドさんに案内された地区だと、僅かに覚えていました。
 でもその時、「あれ、お寺や、立派な古い家が
 有るのに、通過?」

不思議だったことを、思い出しました。

 泊まっている、サンホテル大和郡山から徒歩で20分をかけ、
やっと、最初の散策場所に着きました。
 場所は、近鉄 平端駅から直ぐ側でした。
 歩き始める時に、
「ホテル傍の、近鉄 筒井駅から、
 たった ひと駅か、それなら歩いてもしれてるな。」

たどり着いた、平端駅の手前に在った踏切を渡りながら、
その遠さに、最初からもう疲れていました。
 いわゆる、田舎道の「スグソコ!」でした。
「あー、電車に乗れば良かった。俺も年取ったなー。」
 踏切を渡った西側と、東側では、最初に道幅の違いが
はっきり解り、誰が見ても地域の雰囲気が違うことに、
気づかさられると思えました。
 何故こんなに違うんだろうと不思議に思い、それが、
額田部地区の、長い歴史を経てきた、特徴だと
思うようになったのは、この地区を歩き終えて
からでした。

五輪塔覆堂(筒井順慶 墓所)
(ごりんとう おおいどう)(つつい じゅんけい ぼしょ)

戦国の武将、筒井順慶の墓所に来ました。
 古代史好きの私には、中世の武将にはあまり興味が
無かったのですが、額田部地区の中ではなく、
その傍にある、この(墓所)史跡が何故か気になり、
訪ねてみました。


 筒井順慶(1549〜1584)享年36歳
 今から、500年も前に亡くなった武将を、ずいぶん
手厚く葬って居られると、感心してしまいました。
 もちろん、観光のためでも無いのでしょうから、
中世の日本にあって、現在に至るまで、此の地区の
人達にとって、大事にされるべき人物で在ったと
想像できますね。


 筒井順慶て、そんなに地元の人に慕われていたのか?

 旅行後になってから気になりだし、
(そういうことは旅行前に、予め調べておけ!)
「すみません。」

 筒井順慶のことを、調べてみました。

  
古代に、都が奈良から、京都へ移ってしまってからは、
歴史の表舞台には、少しも出てこなっくなった此の、
大和地区にあって、群を抜き、筒井順慶関連の伝承は
際立っていました。

 父の病死のため、わずか2歳で筒井城、家督を相続。
元々 この大和地区は天皇系との縁が多いせいか、守護職が
置かれていなく、僧兵を擁した興福寺や、筒井家を
始めとした地元の群雄が乱立割拠して、各地域を
取り仕切っていたようです。
 筒井族も、元々 興福寺の宗徒が大名化した家筋で、
その為なのでしょうか、残されている順慶の人物画が、
僧侶の衣装なんですね。
 その群雄の一部族として、小競り合いや、離合集散を
幾度も繰り返し、地区としての安定は、無かったようです。
 そのスキを突いて、大和地区の外部から、松永族が
侵攻してきて、順慶の居城 筒井城を攻められ、とうとう
城を追われてしまいました。
 しかし諦めず、苦労して取り返す、また取られるを、
数度にわたり繰り返したようです。

  

 この後も、松永氏とのドロドロの戦いが続き、それに、
織田信長、15代将軍 足利義昭、武田信玄、明智光秀が、
まとわり関わりあって戦いを繰り返し、そうこうしている
内に、筒井順慶と同じように、織田家の家臣に、入り込んで
いた松永氏が、信長に謀反を起こし、信貴山城に
籠城してしまいます。

 この松永氏を信長の命令で、順慶が討ち滅ぼしたのです。
戦いの後、流石は僧侶である順慶は、自害した松永久秀の
遺骸を回収し、達磨寺に手厚く葬ったと言われています。
 まだまだ続きます。 ちょっと休憩!!(5月17日)


 将に、日本の戦国時代真っ盛りに、順慶が属したのは、
畿内、尾張を征した、織田信長だったんですよね。
 私は少しも知らなかったのですが、順慶自身が信長の
家臣として、長篠の戦いをはじめ、多くの戦いに参戦し、
殊勲を立てています。
 もちろん、命の危機にさらされながらも、幾多の武勇を
極めています。


 此処まで、殆ど知らなかった順慶の経歴を調べてきて。
「あっそうや、筒井順慶といえば、
 洞ヶ峠(ほらがとうげ)やんか。」
 
 関西に住む私達にとって、
「洞ヶ峠を決め込みやがって!!」といえば、
 日和見主義の代名詞として、筒井順慶を想像していました。
 でも、今回彼を、ウィキペディアなどで調べて初めて、
その言葉の意味の間違いや、経緯を知り、順慶のその数奇な
運命に驚きました。 
 もともと順慶を、信長に紹介し、信長一派に入れたのは、
誰あろう、明智光秀だったのです。「驚きですね。」
その恩義と共に、数少ない戦国時代の知性派武人同志として、
友好的親交を重ねていたようです。

 信じられないような出来事、本能寺の変が起こりました。
明智光秀が、信頼していた、筒井順慶など信頼できる武将に、
前もって
 乙巳の変の、鎌足と中大兄皇子との
 談山(かたらいやま)の密議で相談する。

と云うこともせず、信長を「敵は本能寺に在り!!」
謀反の奇襲をかけ、自害させてしまったんですよね。

 この後の歴史経過は、光秀伝記になってしまいますので、
はしょりますが。
 畿内の武将は皆、明智光秀を謀反人と見て、誰一人も
馳せ参じてくれるものはなく、武田、上杉、毛利、伊達等、
遠くの武将に援軍を強く要請すれど、連絡をくれるものも
無い、そうこうする内に、毛利攻めに行っていた、
織田の本軍が、秀吉に、率いられて畿内へ帰ってくる
という情報が流れ、唯一期待できる、筒井順慶が援軍に
加担してくれるのではと、明智光秀は、京都と浪速、
岡山への通り道で、大和から来る道の交差点に
なっている、「洞ヶ峠」で、順慶の援軍を心待ちに
していたようです。

 待って居られても、信長暗殺の意義が解らず、むしろ
信長には、自分を念願の、大和守護職に拝命してもらった、
恩義を持っていたわけで、その信長に謀反を起こして
しまった、明智光秀に加担する筈は、はなから
無かったんですよね。
 孤立無援の明智軍は、山崎の戦いで、秀吉軍に破れて
しまうんですよね。
 ここで不思議と思ってしまうのは、明智ほど頭のいい武将が、
何故、先も読まずに、謀反を試みてしまったんだ、ということ
ですよね。
 天下統一までを考えていたのなら、畿内の盟友に前もっての
相談も無く、単独で行動をしてしまったのは、
戦国史に無知な私でも、
「それは駄目だろう」と想像してしまいますよね。
 明智が如何に、ワンマンな信長のイジメに、追い詰め
られてしまい、立ち止まって、周りを見る余裕が、
無くなっていたと云うことでしょうね。
 ですから、洞ヶ峠という言葉は、ことの成り行きを、
少し離れたところで見ていて、都合のいい方を見極める
というよりも、自分にとって、都合のいい出来事が
起きないかと、待ちわびることなのでしょね。
「少し寂しくなりますね。」

 明智が「山崎の戦い」で敗れ去る直前(2日前)に、
筒井順慶は秀吉に、
「貴方の云うことは、何でも言うことを聞きます。」と云う、
誓詞を送り、辛うじて、秀吉側に残れることが
出来たようです。

 秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。
 それ以後、これまでの精神的負担からか、胃炎を患って
いたようです。
「山崎の戦い」の後、直ぐに信長の跡目争いになって、
秀吉と家康の戦いになり、権力争いに巻き込まれ、
無理を押して出陣したのがたたり、大和に帰還して、
程なく 36歳で病死しています。

 私は順慶の伝記を、ほとんど知らなかったんですが、
何かすごく中身の濃い、人生だったんですね。
 調べていくうち、彼が必死で、守ろうとしていた、筒井城が、
泊まっている、ホテルの直ぐ傍を走る、近鉄 橿原線の筒井駅を
挟んですぐと分かりました。

「あれ、この場所、神社の中に仏像の祠が
 あるところも含まれてるやん!」
「あの仏像、筒井城内というのも関係しているんだろうか?」
「又この地区を、歩いてみなければ!!」

 筒井順慶の人生を勉強して来て、確執を繰り返してきた、
松永久秀のことが、気になり出しました。
 この項のブログが終われば、調べてみたいと思っています。

 筒井順慶の本を、大阪梅田の大型書店「紀ノ国屋」「丸善」
で探したのですが、探し出すことは出来ませんでした。
「洞ヶ峠」のマイナス印象が強いためかもしれませんねえ。
   (追記校閲 30/06/18)

場所:奈良県大和郡山市長安寺町
     近鉄橿原線 平端駅 徒歩5分ぐらい。



来迎寺(ライコウジ)

 宗 派:浄土宗
 御本尊:阿弥陀如来

 五輪塔覆堂の散策を終え、踏切をもと来た西側に渡り、
大きな農家の連なる、小道を、辿っていった所に、
村の寺院としては、とっても立派なお寺がありました。


 この額田部地区の寺院の詳細を、ネットで検索したのですが、
確実な情報を、見つけることが出来ません。
 でも立派な由緒ありそうな寺院が沢山あるのです。
ここで、伝えられている由緒や教えは、どんなもの
なのでしょう?

「あれ?」
 ここで私自身が、仏教の歴史、宗派の経緯や、一番大事な
人の心を救う為の、教えがカスんでしまって、見えなく
なって居ることに、気づかされてしまいました。

 仏教が中国から伝来し、どのような教えなのか、どういう
経路で、広がっていったのか??

「みなさんはどうですか??」


 広い駐車場がありました。
 参拝される檀家の方が多いと云うことでしょうね。

 きっとシッカリトした教えと、伝統を引き継がれて
いるのでしょうね。


 立派な大きい山門があり、参道をシッカリトした、
双璧が続いていました。

 山門の中も拝見したかったのですが、私のようなものに
解放して頂いているかが、分かりません。
またお尋ねする伝手(つて)も........

場所:奈良県大和郡山市額田部北町687



 
 来迎寺から、道なりに融通寺に向かって、歩いていましたら、
道の向こうから、自転車に乗って、制服の女子高生が、
ゆっくりと!!

「あっ、もしかして?」
 そうだ私が今日この、額田部を散策しているのは、
寺院だけを見に来たのではない。

 私の近くまできて、道の小石がじゃまをしたのか、
前からくる、男前の私に、気を取られたのか、
バランスを崩しかけ、ペダルから足をはずし、
少し立ち止まりました。
 そして、私と目が合い、少し恥ずかしそうな笑みを
浮かべて、立ち去ってゆきました。  (*´ω`*)

 この額田部地区から、日本書紀に登場する日本の歴史を変えた
女性が二人も、出て居ます。
 一人が、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)=推古天皇で、
もう一人が、額田姫王(ぬかたのおおきみ)です。
 その、ゆかりのある姫にお会いしたくて、今日この地区を
散策していたのです。
 今回の散策の甲斐がありました。

 皆さんも、「その逢った、姫はどうなの?」 と思って
おられるでしょう。

 少し小柄で、面顔は、......?
 あっれー、散策を終えて、すぐにこの項目を書いておけば
良かった。
 無念、少しボヤケてきています。
 でもその面影は、私の想像している、
 額田姫王その人でした。
 古代史探索を、続けてきてよかったー ♪
       <平成30年6月15日 追項作成中>



大阪北摂地震 雑考
 H.30.06.18 朝8時前、ひげ剃りをしているとき、
突然震度5弱の地震に襲われました。
 思い返せば、20数年前の阪神大震災の時も、九州出張日で、
鏡に向かって、ひげ剃りをしていたときでした。

 大阪北部地区地震の件を、ブログ立ち上げておきました。



融通寺

宗派:融通念仏宗

 来迎寺から大きな農家の道を歩いて、
 5分ほどの所にありました。




 ウェブで検索したのですが、申し訳ないのですが、
融通寺の詳細が分かるページに、たどり着けませんでした。
 やはり、日本仏教のことを少しでも勉強しなければと、
大阪梅田の図書店 紀ノ国屋で、参考書を購入しました。

PHP研究所 仏教宗派がよく分かる本 
  作者 永田 美穂

 イラストを多く使って、日本仏教の初歩的なことが、
私のような、ど素人でも、分かった気にさせてくれる本でした。
 そういえば、仏教伝来は中学の時、歴史の時間に、
教えていただいたことを、ぼんやりと、半分居眠りを
しながら、「清水先生、すみません。」
 聞いていた記憶が呼び起こされてきました。
 そもそも、中学生にとって、仏教に関心のある生徒なんて、
居たんでしょうか?
「すみません、言い訳です。」

住所:大和郡山市額田部北町936


額安寺 五輪塔

 (がくあんじ ごりんとう)または
 (かくあんじ ごりんとう)
 聖徳太子が興したとされる、額安寺の墓所 
 通称;鎌倉墓(かまくらばか)


 大きく立派な、五輪棟があり、それぞれが、鎌倉時代から、
額安寺を復興した、忍性を始めとする、歴代の高僧の墓石です。


 五輪塔の他にも、一般的な墓石もありました。




 鎌倉時代からの、墓所と言うことは、それ以前の、
聖徳太子が興された、飛鳥時代から、鎌倉までの墓所は
どうなっているんでしょう?
 すみません、つまらないことが気になる性分で。


住所:大和郡山市額田部北町1184

額田部窯跡

 鎌倉時代、額安寺の再興に際し、屋根瓦を焼くための
窯後とされています。






 これだけ大がかりな昇り窯を、三基も作られていることに
 驚いています。
 僧 忍性の政治力が想像できそうですね。

場所:大和郡山市額田部北町 
    額安寺五輪塔 すぐ側


地福寺

 写真をご覧の通り、崩れかけた廃寺(?)になっていました。



 検索をかけたのですが、何故此のような廃寺になって
しまっているのか、
 由緒伝来は? 出て来ません!?
 故事探索は難しいですね(楽しいですね)

額安寺

 (通称:かくあんじ)
 宗派:真言律宗
 山号:熊凝山(くまごりさん)
 御本尊:十一面観音様

歴史 (額安寺 ウェブページを基本に記載します。)
  (お寺さんは嘘をつかないですから。)

 621年 聖徳太子が創建した、「熊凝精舎」を
 聖徳太子死後、跡地に建立


 額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)推古天皇のふるさと
額田部の氏寺、額田寺と呼ばれていたようです。
 現存する、国宝「額田寺伽藍並条里図」から、南北200m、
東西300mの金堂、講堂、塔等を擁する、大寺院で
あったようです。


 都が、平城京(奈良)から、鳴くよウグイス(794年)
平安京(京都)に遷都すると、此の地区の額田部族の
勢力が衰え、それに伴い、額安寺も衰退したようです。


 奈良から京都そして、なお遠い、鎌倉に遷都し、
そのせいで、なお一層衰えたようです。

 鎌倉時代後期(1240年)に、額田部族出身の僧 忍性により
再興されたようです。
 額安寺五輪塔が創られ、一定の勢力が在ったのではと
思えます。

 僧 忍性をネットで検索したのですが、とてもすごい人生を
送った僧なんですよね。

 生 1217年~1303年 臨済宗 寺院:極楽寺

○ 貧民()やハンセン病患者等の、社会的弱者の
  救済に尽力

○ 鎌倉幕府から親任を受け、鎌倉の僧の中心僧になる。

○ あの法華宗 日蓮から、雨よ降れの祈雨法と法論を挑まれ、
  負ける。
  念仏を唱えて、雨が降ればこんな楽なことはないよね。
  日蓮に負けた後、挫けることなく、此の後も忍性は、
  弱者救済と、祈雨法を続けています。
  弱者救済のその内の一つ、鎌倉桑ヶ谷の病屋に病人を集め、
  20年間で、46,800人を、治療したと記録されています。
  日蓮さんは何人治療したんだっけ?
  800年以上も前、弱者救済は途方もない努力と苦難が
  伴ってきたと、容易に想像できるのですが、当時の
  人達にとって、どのように意義付けられて、
  いたんでしょうね?

○ 摂津多田院(多田神社)の別当に就任
  えっ!、私の住んでいる兵庫県川西市にある
  神社ジャー無いですか!!

  多田院本堂で、蒙古襲来の弘安の役の時、幕府から、
  依頼され、異国退散祈祷を行っています。
  「知らなかった!」

  異国退散を祈願し、蒙古軍を台風で壊滅させたのは、
  日蓮が祈願したから、だけじゃあ無かったんですね。

○ 摂津 四天王寺の別当に任命
  えっ!、あの四天王寺さんの偉いさんに
  なっておられたんだ。

○ 忍性 87歳で死去。
  25年後、後醍醐天皇より、忍性菩薩の尊号を勅許される。
  鎌倉幕府だけではなく、反対勢力の後醍醐天皇からも、
  認められたんだ。

 今回の散策を行わなかったら、忍性のことは、皆目
知らずにいたと思います。皆さんも、映画や、歴史小説に
出てくる、日蓮しか発想に無いのでないですか。
 そして私と同じに、雨乞いの祈雨の法の時、破れた
情け無い、権力者に媚びるだけの、坊さんの一人として、
僧 忍性を名前も知らず認識しておられた、のでは
ないでしょうか。

 でも略歴を見て、私は、これまでのお経を上げておられる
だけの、お坊さんでは無く、もっと高次元の、困って
おられる人の救済を実践されていた、お坊さんが、
既に鎌倉時代に居られたんだと云うことを知り、
驚きと敬意が沸き起こりました。


 鎌倉時代後期に、忍性により再興されたが、
戦国時代になると、大和の国に攻め込んできた、
武士集団に焼き討ちされ、荒廃したようです。
 その後、織田信長に寺領180石を没収され、
豊臣秀吉には、寺領一町歩と引き替えに、なんと
四天王寺に、五重塔を譲らされてしまったのだそうです。
さぞや悔しかったでしょうね!

 えっ!と言うことは、今の大阪四天王寺の五重塔は、
額田寺の物だったんだ!!


所在地:大和郡山市額田部寺町36
TEL: 0743-59-1128

推古神社
 聖徳太子の時代の、女帝 推古天皇が祀られて居ます。

 実は、此の神社の存在を知らず、額安寺の散策を終え、
次の川西町へ、歩いていましたら、村などによくある、
あまり大きくない神社の鳥居が在りました。
 その鳥居の額束を見ましたら、「推古神社」の名前が
あるのに驚き、早速、お参りさせていただきました。


 少しモッコリとした森の手前に本殿?が在りました。

 後から、ブログで調べて分かったのですが、
(今回は後から調べてが多すぎます。すみません。)
 その森は、前方後円墳で、その上に建てられて
あるようなんです。
 当日は、その森が、古墳だとは、つゆ考えが及ばず、
見逃してしまいました。




 両脇に狛犬が飾られている、ごく普通の村の鎮守様と言う
 感じでした。



 ブログに「額田部推古神社夏祭りのお渡り・.....」
が在りました。
 古からの伝統をが引き継がれた、お祭りと思えました。
スケジュールが合えば、一度拝見させていただきたいと
思いました。

近くを流れる、佐保川沿いから、額田部地区を望む。


 此の後、佐保川を渡り、まほろば公園を通り、
「ファミリー公園前駅」から近鉄橿原線で、
ひと駅の「結崎駅」へ

   (2018年7月9日 編集)




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  古代史感のすれ違い

   
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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。




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