上の画像は、
津市分部、津市櫛形出張所から300mほど西へ行ったところにある、平泉神社です。
この神社付近に分部城があり、室町時代には分部氏がここを本拠地としていました。
分部氏は、長野工藤氏の家臣として活躍したほか、
長野家当主の子を養子に迎えるなどして、
本家との緊密な関係を築いていましたが、
室町時代末期、織田の伊勢侵攻が始まると
分部氏は早々に織田信包に服属しています。
分部氏は、信包の命により、津市河芸町に
伊勢上野城を築き、そちらに本拠を移しました。
織田の滅亡後は、徳川に仕え
関ヶ原の戦では東軍に属して戦いました。
1619年、所替えにより伊勢上野から近江大溝(高島市)に移り、
大溝藩2万石の藩主となっています。
平泉神社(津市分部)
円光寺の紅葉(河芸町)
その分部氏について、
次のような記述を見つけました。
出典は不明ですが、興味深いものだったので紹介します。
「藤原南家工藤氏支流の分部氏は、長野祐藤の子とされる「二郎右衛門高景」が足利尊氏に仕えて伊勢国安濃郡分部村を領したことにより称したのが始まりとされる。」
というものです。
まず「藤原南家工藤氏支流の分部氏は」は
長野工藤氏が藤原為憲を祖とする藤原氏の一族であるので
ここの記述は合っています。
次に「長野祐藤の子とされる「二郎右衛門高景」」については、
長野家2代当主・祐藤の子として
長男 祐房(長野家3代当主)
二男 祐高(雲林院家初代当主)
三男 祐宗(細野家初代当主)
の3人がいたことが定説となっていますが
武家の系図を記録した史料の中には
ここに「高景」を加えているものがあり
「四男 高景」がいたという説が生まれたようです。
が、これをご覧になってお分かりのように
父も兄たちにも、工藤祐経以来の「祐」の字が与えられているので
高景だけが異なることに違和感があります。
最後に「足利尊氏に仕えて伊勢国安濃郡分部村を領した」ですが、
確かに長野工藤氏は建武の争乱の時期より、
足利方に属して戦っていますけれど、
この「工藤高景」という人物も足利方であったかというと
それには疑問があります(後述)。
さらには、分部氏は長野工藤氏が伊勢に来る以前から
この地で勢力を誇っていた豪族で、
その当時の史料も残っていることから、
「高景が分部氏の祖である」とは間違いと考えます。
それでは、
「工藤高景」とはどのような人物だったのでしょうか。
この人は若い頃から活躍しているので、
史料も数々ありますが、それを総じて語ると、
・執権北条高時に仕えていた。
・弓の名手として知られていた。
・建武の争乱では、鎌倉方(北条側)に加わり戦った。
という武将だったようです。
この経歴からすると、
10代後半には父や兄たちとは離れて、
鎌倉で北条氏に仕えていたことになり、
長野工藤の息子ではないように思われます。
北条氏が滅亡したあたりから、
高景の消息は途絶え、
・北条側の武将らとともに捕らえられ処刑された。
・足利尊氏に降伏して許され、家臣となった。
等々の説があるものの、
確実なものはないようです。
そもそもは、高景が長野工藤の一族だとされたところから
分部氏の祖となり、長野家の分家となった、という説が
出てきたものと思われます。
中世の軍記物では、長野工藤一族の者を
「工藤三郎左衛門尉」と書いている場合があり
(「左衛門尉」は先祖の工藤祐経の官職名)
この高景(二郎右衛門)を誤って「工藤二郎左衛門」と
書いたものもあったことから、混同されてしまったようです。
(下に追記あり)
そのような紛らわしい人物もいた、ということを書き留めておきます。
追記)
江戸時代に書かれた「勢州軍記」においては、
「北伊勢工藤の一家は、鎌倉の御家人伊豆の国の住人、工藤左衛門尉祐経の後胤、幕紋は木香三引両である。先祖工藤二郎左衛門高景が元弘元年(1331)のはじめ安濃郡長野を賜ったという。同3年夏北条家滅亡の後、長野に居住して長野家を名乗る。」
と記されています。
工藤高景が活躍した年代とは合っていますが、
この年代には、既に長野工藤氏は伊勢に移っており、
長野城も築城されているので、
この年代に安濃郡を賜った、という記述は誤りです。
前出の「工藤左衛門尉(長野工藤氏)」と高景(二郎右衛門)を
混同している例として挙げておきます。
大河ドラマに登場した工藤祐経は、長野工藤氏の祖先
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