近年、軍事について語ることがタブー視されるという風潮が薄れ、世間一般に防衛談議が為されるようになった。このこと自体は大変歓迎すべきだろう。
が、それに伴い、どうにも我慢出来ないような状況が生起するようにもなってきた。言葉の定義が曖昧なままに使われ、しかもそれがあたかも「確立された真理」であるかのように一人歩きしていることである。
表題の「プロの兵隊」にしてもそうだし、他にも「日本は海に囲まれているから守るのに有利」、あるいは「現代戦では制空権がなければ勝てない」「大規模紛争の可能性が低くなったから戦車は不要」etc・・・
これらの言葉を聞くたびに気分が悪くなる。殊に、表題の「プロの兵隊」という言葉を聞くたびに怒りにも似た不快感がこみ上げる。この言葉を、賢しげに国防の重要性を説く割には自分自身が辛苦を背負うのは嫌だと考えている輩が、自分が辛苦から逃避するためのエクスキューズとして安易に使うからだろう。「現代戦ではプロの兵隊でなければ使えない」というやつだ。
さて、言葉の定義と表題に書いたが、この言葉を定義すること自体が私自身にとって無意味であると思われるので、個人的に何故「この言葉が曖昧である」と考えているのか、その論拠となる部分を述べていきたい。
まず、プロといっても大きく分けて2つの使われ方がある。「その仕事によって生計を立てている」という場合と、「能力が非常に優れている」という二つの部分だ。先に挙げた使われ方をする場合、前者ではあるまい。明らかに後者である。
さて、では聞こう。「プロ」と呼べるにはどの程度の能力が必要とされるのか。それにはどれくらいの年月と訓練が必要か。採用方式の違いによって能力にも違いが出るのか。
年数について言えば、自衛官(現役、元ともに)が良く口にする。多い意見だと「4年かかる」という意見であり、元北部方面総監の志方氏だと10年と言う。
さて、ここで疑問に思うだろう。「果たしてどちらが正しいのか」と。
私の意見はこうだ。「どちらも正しいと言えるし、どちらも意味がないとも言える」
何故か。これは「どの程度までの能力を必要とするか」を語らなければ全く意味がないからである。前者は、所謂「士としての任務を完璧に遂行するためにかかる年月」言い換えれば「この程度の年月かけなければ次のステップに向かえない」というレベルに達するための所要年月だ。一方、後者は「下士官として一人前」のレベルに達するまでの所要年月である。つまり、求めるレベルを明確にしなければ「何をもってプロというのか」という基準を決められないのだ。
さて、ここで明らかになったのは「年月をどれだけかけなければプロになれないか」という議論が、実は全く無意味だと言うことだ。求められる能力がどの程度なのか決めなければ全く意味がないし、逆に「短期間で養成出来る能力しか持たない兵士の組み合わせで軍務を遂行する」という方針、つまり軍のシステムに兵士をあわせるのではなく、逆に兵士の能力に軍のシステムをあわせるという発想の転換によって、いとも簡単に「プロの兵隊」に求められるレベルが変動してしまうからだ。
更に付記すれば、自衛隊の場合は歪な人事システムにより、どうしてもより高レベルの能力を求める傾向にある。前述の「士にとって一人前レベル=次のステップに向かえる=下士官になる」は、ある意味「最下級の兵」の資質としては逆にオーバースペックといえる。
以上、「プロの兵隊」という言葉に秘められた曖昧さを幾分か示してみた。(言いたいことのニュアンスが旨く伝えられないが)最後にまとめとして言うと、「プロの兵隊」とは人事システムのみならず、軍というものの構造そのものを総合的に判断した上でなければ使うべきではない言葉だと言うことだ。少なくとも、「現代戦ではプロの兵隊でなければ使えない。だから徴兵制は無意味だ」などという安易な用法は排除されるべきだろう。
が、それに伴い、どうにも我慢出来ないような状況が生起するようにもなってきた。言葉の定義が曖昧なままに使われ、しかもそれがあたかも「確立された真理」であるかのように一人歩きしていることである。
表題の「プロの兵隊」にしてもそうだし、他にも「日本は海に囲まれているから守るのに有利」、あるいは「現代戦では制空権がなければ勝てない」「大規模紛争の可能性が低くなったから戦車は不要」etc・・・
これらの言葉を聞くたびに気分が悪くなる。殊に、表題の「プロの兵隊」という言葉を聞くたびに怒りにも似た不快感がこみ上げる。この言葉を、賢しげに国防の重要性を説く割には自分自身が辛苦を背負うのは嫌だと考えている輩が、自分が辛苦から逃避するためのエクスキューズとして安易に使うからだろう。「現代戦ではプロの兵隊でなければ使えない」というやつだ。
さて、言葉の定義と表題に書いたが、この言葉を定義すること自体が私自身にとって無意味であると思われるので、個人的に何故「この言葉が曖昧である」と考えているのか、その論拠となる部分を述べていきたい。
まず、プロといっても大きく分けて2つの使われ方がある。「その仕事によって生計を立てている」という場合と、「能力が非常に優れている」という二つの部分だ。先に挙げた使われ方をする場合、前者ではあるまい。明らかに後者である。
さて、では聞こう。「プロ」と呼べるにはどの程度の能力が必要とされるのか。それにはどれくらいの年月と訓練が必要か。採用方式の違いによって能力にも違いが出るのか。
年数について言えば、自衛官(現役、元ともに)が良く口にする。多い意見だと「4年かかる」という意見であり、元北部方面総監の志方氏だと10年と言う。
さて、ここで疑問に思うだろう。「果たしてどちらが正しいのか」と。
私の意見はこうだ。「どちらも正しいと言えるし、どちらも意味がないとも言える」
何故か。これは「どの程度までの能力を必要とするか」を語らなければ全く意味がないからである。前者は、所謂「士としての任務を完璧に遂行するためにかかる年月」言い換えれば「この程度の年月かけなければ次のステップに向かえない」というレベルに達するための所要年月だ。一方、後者は「下士官として一人前」のレベルに達するまでの所要年月である。つまり、求めるレベルを明確にしなければ「何をもってプロというのか」という基準を決められないのだ。
さて、ここで明らかになったのは「年月をどれだけかけなければプロになれないか」という議論が、実は全く無意味だと言うことだ。求められる能力がどの程度なのか決めなければ全く意味がないし、逆に「短期間で養成出来る能力しか持たない兵士の組み合わせで軍務を遂行する」という方針、つまり軍のシステムに兵士をあわせるのではなく、逆に兵士の能力に軍のシステムをあわせるという発想の転換によって、いとも簡単に「プロの兵隊」に求められるレベルが変動してしまうからだ。
更に付記すれば、自衛隊の場合は歪な人事システムにより、どうしてもより高レベルの能力を求める傾向にある。前述の「士にとって一人前レベル=次のステップに向かえる=下士官になる」は、ある意味「最下級の兵」の資質としては逆にオーバースペックといえる。
以上、「プロの兵隊」という言葉に秘められた曖昧さを幾分か示してみた。(言いたいことのニュアンスが旨く伝えられないが)最後にまとめとして言うと、「プロの兵隊」とは人事システムのみならず、軍というものの構造そのものを総合的に判断した上でなければ使うべきではない言葉だと言うことだ。少なくとも、「現代戦ではプロの兵隊でなければ使えない。だから徴兵制は無意味だ」などという安易な用法は排除されるべきだろう。
なんと言おうと、現代戦で徴兵制は役にたたないのは明白。お前みたいなヒキーじゃなく、プロがそう言ってるんだよ!!!!
目指すって発想は、国内で見かけないですねぇ。
武器やその他の装備、技術からすると
現代では辛いんでしょか
日本のドクトリンや想定する状況で任務を果たせる隊員を
要請するには最低4年は必要であることは貴殿も認めている
とおりであり、その点からすれば徴兵制はやはり実施不可能
だと思いますが。
論旨としては「徴兵制は不可能という点は認めるが、議論に
おいてプロの兵隊とは何か、日本におけるプロの兵隊とは
どのような存在か、まで遡って考えて議論すべき」という
ことでしょうか?
↓
少なくとも、「現代戦ではプロの兵隊でなければ使えない。だから徴兵制は無意味だ」などという安易な用法は排除されるべきだろう。
その言葉を使った議論は意味が無い。というか、お互いの脳内の定義が
異なっている場合、かみ合っているように見える議論でも、結果は全く
違った方向性になりえる。
自分の頭の中での定義を前提としての議論や決め付けは意味が無いんじゃ
無いか。って事で良いのかなぁ。(修正前の文章しか読んで無いけど)
ただ、この辺をきっちりとやる場合。その言葉の一つ一つに対しての
詳細な説明をする必要が出てきてしまうので、「曖昧な言葉の定義」って
言うのは、それはそれで便利なんですけどね。日常使う分には。
ただ、その用語の定義が曖昧である(相手によって受け取り方が違ってくる)
って事を自覚した上で使うなら良いのですが、使っている当人自体が
その言葉が曖昧な意味でしか捉えていないにも関わらず、その事を自覚も
せずに使用しているというのは、滑稽とも言えますが・・・
日本語が難しいよママン。
法律で以て妨げる理由は無いということでは?
以前だれかが仰っていた「錬度の高い兵隊とそうでない兵隊の違いは損耗率だ」というのを思い出した。
亡国の危機に対し一人でも人手が欲しいときに法律で縛っていては自らできる手段の選択肢を減らすことになる。