宇田みおこ(実生子)の佐倉ひまわりだより 

天国の福田敬子先生 ご機嫌よろしゅうございます。

アメリカン航空 169便で、福田敬子先生の遺灰が、成田に到着された。母(関 秀)と一緒に空港で出迎えた。東京からは、田辺陽子さんが、出迎えに来ていた。28日に福田先生のお別れ会が東京で開かれる。
 
福田先生は、シェリーに(43年間サンフランシスコ一緒に暮らしていたルームメイト ご自身もDr.で元大学教授)自分の遺灰を日本の親族のもとへ渡して欲しいと遺言を遺していたのだ。厳密には、遺灰の半分を日本の親族のもとへ、半分はシェリーへ。
 
実は、私が何もわからない10代の頃、サンフランシスコの福田先生とDr.シェリーの家にご厄介になっていた時のことがトラウマとなり、アメリカ本土には2度と行くまいと心に決めていた。しかし、今日シェリーに会い、私の心の棘が、溶けてなくなったのを感じた。本当に、ふわっと心が軽くなったのを感じた。
 
車椅子にのって福田先生の遺灰を大事そうに膝の上にのせているシェリーの姿を見て、涙が溢れそうになった。憔悴しきったその姿には、私の憶えているシェリーの(溌剌としていて自身に満ち溢れていた)面影は、みじんもなかった。福田先生を失ったことへの深い悲しみが、彼女から生きる気力を奪ってしまったようだった。
 
福田先生のご遺族が到着するまでの小一時間ほどシェリーと話した。福田先生のこと、サンフランシスコでの葬儀のこと、シェリーがいつか一緒に入るお墓のこと。墓石のデザイン画を愛おしそうに私に見せ、説明をしてくれた。福田先生を日本語で「お姉さま」と呼んでいたと、涙を浮かべながらお話してくれた。
 
一連の不祥事続きの日本柔道会。先生は、最後まで胸を痛めて痛そうです。
 
私が講道館女子部に通っていた時には、指導部の先生は女性だけであった。暴力も暴言もなかった。ただ、私が通っていた時代は、ソウルオリンピックの前で、女子柔道がオリンピックの種目競技になる前である。
 
柔道がオリンピック種目となり、オリンピックがいつ間にか商業化され利権が絡み、派閥争いがはじまった。利権が生まれれば、既得権が生まれ、既得権者はそれを当然のごとく感じ始め、既得権を守ることに固執する。そして、その既得権を虎視眈々と狙う者たちがいる。なにもこれは、柔道界だけの問題ではないが。。。
 
柔道は、もはや日本のお家芸でははく、JUDOとなった。その証拠に国際柔道連盟には、日本人の理事はいない。講道館、全柔連の体質に合わない柔道家たちは、男女を問わず世界へ活躍の場を求めはじめている。
 
福田敬子先生もその一人であり、女性として初めて活躍の場を世界に求めた初めての柔道家であった。そして、異国の地でとても愛された初めての女子柔道家である。
 
つよく、やさしく、美しく。サンフランシスコの墓石には、刻まれている。。。
 
先生が梅の花を好きだった理由。シェリーに聞きましたよ。先生は、ず~と、私たちの胸の中で生き続けます。シェリーのこと、天国から見守っていてください。
 
それでは、福田敬子先生 ゆっくりと日本の地でおやすみなさいませ。
そして ご機嫌よろしゅうございます。
 
 
 
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