お松のルーテル日記

キリスト教会(プロテスタント)での学びや聖歌隊での活動、
趣味の小説執筆や読書、サイクリングなどに関する日記

継続

2012年11月30日 | キリスト教会
夜勤明けに上野へ。
夜勤人間の僕にとって朝方はサラリーマンの夕方にあたります。
仕事が終わっても、そのまままっすぐに家に帰るのは何と無く淋しい・・・という。

アメ横には朝からやってる飲み屋がありますが、下戸の僕には関係ありません。
だからドトール。
ドトール、個人的にはスタバよりぜんぜん好きです。
コーヒーもスタバより美味しい気がするし・・・。

それより何より、アメ横の鈍詰まり、御徒町にあるドトールには昔から同じ店員さんがいて嬉しいのです。
僕がサラリーマンだった頃からいる男性店員さんで、見た目はハゲ頭のちょっと怖い感じ。
しかし彼はとても気遣いのできる、良い店員さんなのです。
僕はどんなお店でも店員さんとは「なあなあ」にならないようにしていますので、少ししか会話をしたことはありませんが・・・。

こうやってドトール一筋にやっている彼をみると、リーマンを辞めてからというもの数々の職を渡り歩いてきた自分が少し恥ずかしくなります。
うん、こういう気持ちを喚起できたこと、今朝の収穫だなぁ・・・。

アーメン

次はピンクのブタ

2012年11月30日 | キリスト教会
ちゃくちゃくと進化・深化する我が愛車、ケロちゃん号。
後輪に念願だったカウル(?)を装着。
行き付けの自転車屋さんの廃車群の中から見つけて、貰いました。
これがあると雨の日や雨後の泥道を走ってもはねっ返りが背中に付きません。

このケロちゃん号、まだまだ完成には至りませんが街を走れば反応は様々です。
子供には男女を問わずウケるみたい。
今日も母娘の娘さんの方が、
「あ、カエルがいっぱい♪」
と喜んでいただきました。
少年数人の集団からも、
「カエルだ、カエルだ」
と連呼いただき、
内心「よしよし、ウケてるウケてる」と喜ぶわたくしでした(笑)

成年層になると反応にもバラツキが・・・
意外に反応があるのはむしろ男性の方で「なんだそりぁ?」って感じが多い。
女性はというとだいたいがお澄まし顔でそのままスルー・・・。
おばちゃんは見たとたん「ニッコリ」と微笑んでくれる感じ。

一番反応が顕著なのは街でたまに行き交う出勤前とおぼしきキャバ嬢(多分)さん達で、

「あー、かわいい!」と素直に騒いでくれます。

そういった様を見ては喜んでる僕は変なオジサンだなぁ~と自分でも思います。
ホントは2台目を購入して今度はピンクのブタ号を作りたいのです。
安い中古車を探したりしてるのですがピンク色ってなかなか無いです。

新車、買うかなぁ~・・・。
お金もったいない気もするし・・・。
うむむぅ~・・・。
アーメン。。。

無題

2012年11月27日 | キリスト教会
バイトの夜勤明け、
少し考え事があり不忍池まで来てしまいました。

自分の中ではかなり重めの問題で、普段この日記にも書きません。
ちょっと恥ずかしいし・・・。
他のブロガーさんにしても多分その筈だと思ってます。
それぞれに持つであろう人生の修羅場、重荷。
何でもかんでも打ち明けるのが良いとは限らないのは言うまでもないことです。

僕は、これまでにかなりたくさんの重荷を棄ててきてしまったので割りと身軽ではあります。
良かれあしかれは別にして、です。
それでもやはりあるにはある訳です。
これは、執着ともいえるでしょう。

それは、子供です。

僕は普段「もう結婚なんてたくさん!」と公言してます。
でも、これは半分は負け惜しみなのです。
自分のいまの収入、立場、健康、様々なことを考えあわせると、どだい無理なはなしです。

「子供が欲しいなどと、犬猫欲しいくらいの感覚で言っては駄目だ」と自重してる部分もあります。
だからあまり言わないようにしてるのですが。

本当は欲しい。
将来のいつ、はたして可能かなんて解らないし自信もないのですが、
今がんばって、死なずに生きているその訳は、実はそんなところにある・・・
というのを自覚しています。

実際はとても悲惨な状況下で暮らしていても、僕が笑いながらすごしているのもその自覚・・というか期待ゆえなのです。

「子供できたっておまえが親じゃ不幸だろうに・・」
という声も、自分の心の中から聞こえてしまいます。
無理だ、と。
やめておけ、と。

でも、しかし、これはなかなか。
あきらめきれません。
杉の子(教会の保育施設)の子供や、先輩信者のお子様たちと遊んでもらっている内にこの執着は大きくなるばかりなのです。

苦しい苦しい。
アーメン

道行く人々

2012年11月26日 | キリスト教会


昨日、教会の花壇を撮った写真です。
種から育てるのではなく、活花を買ってきて根っこごと植えています。
1ヶ月は生きてくれるらしいです。

この花壇は商店街のある駅前通りに面していて、多くの人々の眼を楽しませてくれています。
(実際、評判もいく、カメラに納める人も多数おられます)


教会の庭で作業をしたり歓談をしていると道行く人々がジーーッと見ているのが判ります。
中には「ほんとは興味ある・・」という感じの若い子もいたり。

多くの教会(そして神社仏閣もそう)がそうですが、門は常時開放されています。
くわしく聴いたわけではないのですが「来るものは拒まず」の姿勢なのだと思っております。

僕なんかは「みんな、入っておいでよ~♪」と心から思います。
普段から教会には別に入信することなく長年礼拝に参加したり勉強会に参加されている人たちがいますし。
(長い人は10年以上の方も。入信しない理由はきっと人それぞれだと思います)
僕は、この教会のそういう点が気に入っています。
熱心に入信をすすめるのも「信仰のあらわれ」かもしれませんが、今の時代は慎重にしなければならないと考えています。

理由は簡単で、あまりにも仏教系・キリスト教系を問わず、新興宗教の犯罪が多いからです。
こんな世情じゃ「すぐ入信しなさい」なんて言ったって無理というもの。 それが人情です。
もちろん、「うちはそんな奴等とは違う!」という自負はあります。
ありますが、そんなもん第三者には見えないし、知りえないしことなのです。

このような「縛り」が気安い訪問を妨げている・・・・。

いま、世の中は多くの悩みでいっぱいです。
自分自身がそうでしたから判るんです。
みんな、ものを判断するうえでの「基準」が見えなくなっています。

何を基準に正邪を判断するのか。
法律・憲法なのか、政府なのか、学校の先生なのか、両親なのか・・・・。

これは、シンプルなようでいて、実はとても難しい問題なのだと僕は思っています。
これが定まらないと不安だし、ことある度に人は迷い、苦しむことになるのです。

念のために言っておくと、信仰を得ても「同じ」だと思えます。
信仰とは、そもそもは実に個人的な概念であり、人それぞれ、ということは実に孤独なものなのです。

その代わり、大きく見れば「同じ方向を向いている仲間」は得られます。
教会には是非がありますが、この点は僕はとても良い点だと思っているのです。

人間ひとりでは生きていけません。
信仰は、つきつめるとひとりでするものですが、弱い人間はなかなかそれが出来ません。
その点、先輩や仲間がいると訊けるし、助けてもらえますので大変便利(?)かもしれません。
(もちろん、反対に教会・組織ゆえの問題も内包しています)

僕自身はこの教会に来て、助かりました。良かったと心底思ってます。
だから、世の中にはこの教会に来れば「僕と同じように思う人もいるかもしれない」という思いがあります。

しかし、それをどうやって、上述したように「道行く人々」に伝えるのか・・・・。

わからない。 わからない。

これがいま僕の抱える最大の問題なのです。

アーメン