お松のルーテル日記

キリスト教会(プロテスタント)での学びや聖歌隊での活動、
趣味の小説執筆や読書、サイクリングなどに関する日記

道行く人々

2012年11月26日 | キリスト教会


昨日、教会の花壇を撮った写真です。
種から育てるのではなく、活花を買ってきて根っこごと植えています。
1ヶ月は生きてくれるらしいです。

この花壇は商店街のある駅前通りに面していて、多くの人々の眼を楽しませてくれています。
(実際、評判もいく、カメラに納める人も多数おられます)


教会の庭で作業をしたり歓談をしていると道行く人々がジーーッと見ているのが判ります。
中には「ほんとは興味ある・・」という感じの若い子もいたり。

多くの教会(そして神社仏閣もそう)がそうですが、門は常時開放されています。
くわしく聴いたわけではないのですが「来るものは拒まず」の姿勢なのだと思っております。

僕なんかは「みんな、入っておいでよ~♪」と心から思います。
普段から教会には別に入信することなく長年礼拝に参加したり勉強会に参加されている人たちがいますし。
(長い人は10年以上の方も。入信しない理由はきっと人それぞれだと思います)
僕は、この教会のそういう点が気に入っています。
熱心に入信をすすめるのも「信仰のあらわれ」かもしれませんが、今の時代は慎重にしなければならないと考えています。

理由は簡単で、あまりにも仏教系・キリスト教系を問わず、新興宗教の犯罪が多いからです。
こんな世情じゃ「すぐ入信しなさい」なんて言ったって無理というもの。 それが人情です。
もちろん、「うちはそんな奴等とは違う!」という自負はあります。
ありますが、そんなもん第三者には見えないし、知りえないしことなのです。

このような「縛り」が気安い訪問を妨げている・・・・。

いま、世の中は多くの悩みでいっぱいです。
自分自身がそうでしたから判るんです。
みんな、ものを判断するうえでの「基準」が見えなくなっています。

何を基準に正邪を判断するのか。
法律・憲法なのか、政府なのか、学校の先生なのか、両親なのか・・・・。

これは、シンプルなようでいて、実はとても難しい問題なのだと僕は思っています。
これが定まらないと不安だし、ことある度に人は迷い、苦しむことになるのです。

念のために言っておくと、信仰を得ても「同じ」だと思えます。
信仰とは、そもそもは実に個人的な概念であり、人それぞれ、ということは実に孤独なものなのです。

その代わり、大きく見れば「同じ方向を向いている仲間」は得られます。
教会には是非がありますが、この点は僕はとても良い点だと思っているのです。

人間ひとりでは生きていけません。
信仰は、つきつめるとひとりでするものですが、弱い人間はなかなかそれが出来ません。
その点、先輩や仲間がいると訊けるし、助けてもらえますので大変便利(?)かもしれません。
(もちろん、反対に教会・組織ゆえの問題も内包しています)

僕自身はこの教会に来て、助かりました。良かったと心底思ってます。
だから、世の中にはこの教会に来れば「僕と同じように思う人もいるかもしれない」という思いがあります。

しかし、それをどうやって、上述したように「道行く人々」に伝えるのか・・・・。

わからない。 わからない。

これがいま僕の抱える最大の問題なのです。

アーメン