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異論・反論・Obsoletion

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『反対派批判派』批判

2005-06-22 00:00:00 | しあわせって?
見解の押しつけについて述べる。


例として人権擁護法案を取り上げるが、別にこれに限った事ではない。

『反対派批判派』は、文字通り『反対派』を批判する人達だ。
その特徴として『賛成派』とは名乗らない。そして
『反対派』の主張があまりにも *酷い* と言うのがその動機らしい。
(人権擁護法案の場合)押し並べて法律に一家言ある。


『反対派批判派』は『反対派』の事が分かっていないのではないだろうか。
『反対派』は『反対派批判派』の様に法律には詳しくない。
しかし、漠然とした不安があるのだ。

例えば、人権が社会保険庁の事務費の様に拡大解釈されるのではないかという不安だ。
(事務費の使途には何等問題が無いと考える人がおられるかもしれないが、
ここでは事務費の使途には不適切な物が含まれているものとする)


『反対派批判派』であれば、法律論で社会保険庁の事務費の規定には問題
(後に挙げた物(**)は不適切であるとする)があり、
人権擁護法案の規定には何等問題が無い事がきっと理解できるのだろう。

しかしながら法律に詳しくない『反対派』にはそれが分からないので、
もっと泥臭い方法を用いる。その方法とは、
不安に思った事をひとつひとつ取り上げ、それを否定させる事だ。


自然言語で記述してある法文は、数式のように明快に証明することなど出来ない。
そのため、いくら法律に詳しくとも『賛成派』や『反対派批判派』の見解は
あくまで個人的な解釈でしかないし、万が一彼らの見解が誤っていたからといって
誰も責任など取れないだろう。

法解釈は、公権力の権限を持った者が行わない限り、個人的見解でしかない。
そのため『反対派』は、その鋒先を『賛成派』でも『反対派批判派』でもなく、
『法案提出者』に向けている。もとより『反対派批判派』と議論する気など無いのだ。

『反対派』からすれば、たとえ善意からの行為であっても、
『反対派批判派』は自分の見解を押しつけるありがた迷惑な存在でしかない。
『反対派』としては『法案提出者』に公式な場で否定してもらう必要があるからだ。

これには二つの意味がある。一つは、『反対派』の不安を解消する為で、
もう一つは、運用時に恣意的な解釈をしないように牽制する為でもある。


--
また私は一見突飛で常識的にあり得ないと思える懸念も排除すべきではないと考える。

なぜなら「(**)事務費で職員官舎(社宅)を建設することはありますか?」とか
「(**)事務費でゴルフボールを購入することはありますか?」や
「(**)事務費でライオンキングのチケットを買いますか?」
という質問は、常識に囚われていては絶対に出来ないからだ。
(『反対派批判派』は、本当にこれらの事をも想定した上で結論を出したのか?)

もし、これらの回答が「あり得ます」となれば、それを問題とすべきだし、
「あり得ません」との公式な記録が存在するにも係わらず
社宅を建設したりしたのなら、社会保険庁の責任を問うことが出来る。

馬鹿馬鹿しいと思える事を *実際に* 行う人を一概に非難すべきではない。
彼らがトリックスターであるかどうかは、常人には判断できないのだ。


---
意見というのは、最善のものが充分に素晴らしくさえあれば
2番目以降の意見など、どうでも良くなる性質のものだ。

しかしながら『反対派批判派』は、意見が100あったとして、
一番悪い意見(100番目)を98番目にする作業をしているようにしか思えない。


「どんな事が一番許せないか?」という点に関して二つの事が言われる。
それは「無能な人がしゃしゃり出る事」と「有能な人が能力を有効に使わない事」だ。

おそらく『反対派批判派』は前者で、私は後者にあたるのだろう。


これはどうも根源的な価値観に当たるらしいので、私の主張が『反対派批判派』に
理解されるかは疑問なのだが、出来るなら折角の能力を最悪の意見の訂正ではなく、
最善の意見を構築するために使って欲しい。

最善の意見を構築するには、現在存在しない意見を新規に創り出す事もあるし、
今ある意見をより良くする事であるかもしれない。
批判をするのは良い事ではあるが、その対象は最も悪い部分を持った意見にではなく、
最も良い部分を持った意見にすべきだ。

良い部分を持った意見は必ずしも現時点で1番良い意見であるとは限らない。
3番目かもしれないし、50番目や100番目かもしれない。
それらを取り上げ、最善のものにして行くために批判や提案をすることこそが
有意義な議論ではないだろうか。


出来るなら、『反対派批判派』にも前向きな議論をして欲しい。


--
『反対派批判派』のロジックは歴史認識問題で「歴史を歪曲する物だ!」と
自分の見解を疑う事もせず、 *一方的に* 主張する人にも通じる。
(本当に歪曲しているかもしれない可能性については否定しない)

法解釈が公権力によって行われるのと同じように、
歴史の解釈は事実に基づかなければならない。
個人的な見解が絶対であると考えるのは、止めるべきだ。

また、身内だけで話しているうちに、自分たちの見解こそ『正しい』と
「確信」してしまう点も同様だ。
『正しい』かどうかは、多数決で決めるものではないのだから、
身の回りに同じ意見があるかどうかは全く関係ない。


実の所『反対派批判派』が『反対派』を気に入らないように、
私にとっては『反対派批判派』や『歴史歪曲!』が目障りなだけなのだ。

結局私が、一番自分の価値観に基づいた見解を押しつけているのである。



でも、私の考え方のほうが建設的だと思うんだけどなぁ。。。(しつこい!)

「人権擁護法」の対案

2005-04-14 00:00:00 | しあわせって?
私は現行の「人権擁護法案」には反対なので、対案のスキームを考えてみた。


現在の「人権擁護法案」は、人権侵害の「加害者の摘発」を中心に規定
しているが、私は「被害者の保護」のみに特化すべきと考える。

これがどの様なことであるかと言うと、
人権委員会や人権擁護委員は加害者の加害事実を認定するのではなく、
被害者の被害事実のみを認定し、
それ基づき、被害者の保護 *のみ* を行なうものとする。
ここで言う保護とは、被害者が人権侵害から「守られる」と言うものだ。
決して加害者を罰してやめさせるというものではない。
加害者の摘発は、別途警察が行う。


現行の制度であっても、人権を救済する事ができる場合は存在する。
例えば就職時に国籍差別を受けた場合などの様に、
加害者がはっきりとしていて、それほどの緊急性が無く、
反復、拡大する恐れがなくて、被害者自身が申告出来るのであれば、
現行の警察と裁判の制度で対応できるだろう。


問題にすべきは、現行の制度では救えない以下の場合だろう。

[対象となる人権侵害]

(a)(警察が動いてくれない)差別やいじめなど
(b)(被害が反復、拡大される)メディア、ネットでの中傷など
(c)(緊急性を要する)幼児虐待、施設での暴力、ストーカーなど
<他には?>

---
私は、以下で取り敢えず人権を守る事が可能であると考える。

[保護のスキーム]

(a)差別をいじめとして、刑事事件と同等に扱う。

現在の法案の様に「被差別者のリスト」は作成せず、
差別を「いじめ」の一部として取り扱う。(「「差別」とは」参照)
いじめは、その「行為」のみで判断する。
いじめの「行為」は規定され、<手続きは?>適宜修正される。
いじめを刑事事件として警察が処理出来るようにする。
学校内においても同様とする。
<無視の様な場合は?>


(b)人権委員会は個別に問題となる行為を「勧告」し、
それに違反した場合は警察が刑事事件と同様に摘発する。

被害者は、人権委員会に被害の事実を申し出る。
人権委員会は加害者の特定などは行なわず、被害のみを認定し、
これ以上の被害を防ぐため、具体的な勧告のみを行なう。
この勧告はあくまで個別の事例についての人権侵害の「行為」について
言及したものであり、犯罪者を特定したり一般化したものであってはならない。

例えば
「xxさん(被害者)へのxxのような取材は人権侵害であるから中止するように」
など。<被害者名を挙げない事はできないか?>
マスコミは、勧告の内容について報道する義務を負う。
勧告を守らない場合は(勧告に基づき)警察で刑事事件と同様に摘発する。

この「勧告」に不服があれば(誰でも)司法で訴える事ができ、
司法で認められた場合「人権擁護委員」(委員長も含む)は
職を辞する。次の人権擁護委員が任命されるまでの間、
暫定的に<裁判所?>がこれを代行する。
「勧告」は被害毎に個別に行なわれ、あくまで被害の拡大を防ぐものとする。
既に起きてしまった人権侵害に対しては、訴訟等で対処する。


(c)緊急避難的に人権を守る場合のみ強制的な「被害者保護」が出来る様にする。

これは、被害者自身の申告や、人権擁護委員が認定する。
「疑わしきは保護」とし、加害の事実の認定は必要ない。
加害者は、(もし存在するなら)刑事事件と同様に警察が摘発する。

「保護」の際、被害の「疑わしき」を証明する「証拠」を必要とする。
「保護」された場合、(被保護者が望めば)誰でも24時間面会する事が出来、
その際必ず人権擁護委員が立ち会う。(再度加害を受けないように)
「保護」される場所の維持管理等は、人権擁護委員とは別の組織が行う。
(人権擁護委員が気に入った子供を自宅に住まわせたりしないように)
人権擁護委員は必ず二人以上で行動し、少なくとも同じ案件に対しては、
その組み合わせを毎回変える。(人権擁護委員の慣れ合いを防ぐため)

国民は人権擁護委員が保護を判断するための必要最低限の説明をする義務を負う。
説明義務となる事項は予め規定され、何時、誰に聞かれても
人権侵害とならない程度の最低限の物とする。
(子供がどこで暮らしているのか等)
その説明内容に誤りがあった(子供が説明した場所にいなかった)り、
説明を拒否した場合は、警察による強制捜査が出来る。


---
以下、「暴力を受けている「子供」を保護する場合」を例にする。


子供にそれらしき(サイズや形状が規定されている)アザがあった場合、
人権擁護委員は証拠(アザの写真や診断書など)を確保した後、
加害者を特定せず無条件で「子供」を保護<どこに?>する。
例えば、子供は家にいるが親が家から出さなかった場合は、
子供を強制的に保護<誰が?>できるものどする。
ただし、これは親と隔離するものではなく子供を保護する事が
目的であるため、親は24時間いつでも好きなだけ面会出来る。
(ただし必ず人権擁護委員が立ち会う)
<「保護」が解除される要件は?>
<「子供」が家に帰りたがった場合は?>

保護の後、事件性の有無を警察が判断して、事件であれば警察が捜査し、
事件性がなければ子供を戻す。


# 現在の法案では、親が虐待をしている事を特定し、
# 出頭を求めたり、調停したりするのだろうが、
# 罰金を払いさえすれば拒否出来る上、
# 親権(保護養育権?)を剥奪する権限もないので、
# 裁判でもしない限り、子供を守れないのではないか。
# 裁判所?で氏名を公開したところで、何か解決するのだろうか。


---
ここで、被害と疑わしき「証拠」とはどの様なものであるのか検討する。

子供が家から一歩も出ていないため確認出来ないが、虐待されている
「らしい」場合なども、当然子供を保護する必要があるだろう。

「らしい」には、何等かの根拠があるはずだ。
先の例では「アザ」であるし、家から出ないのに疑われるとすれば
「泣き声」などだろう。
一定期間家から出ていない事自体でも良いかもしれない。


これらの事項を予め規定<手続きは?>しておき、保護にあたって、
人権擁護委員がそれを証明するに足る「証拠」を確保する。
この規定に不服がある場合は、裁判をして訂正する事が出来る。


人権擁護委員の確保した「証拠」に疑問があれば、誰でも裁判に
訴える事が出来、認められれば人権擁護委員を辞めさせられる。
この裁判は人権擁護委員の資質を問うものであり、
既に保護が解除されていても行なえる。
あくまで「証拠」は、「疑わしさ」を認めるものであり、
手続きさえ適切であれば、結果として人権侵害の事実が無くとも
人権擁護委員に問題があるとされてはならない。


---

まとめると、

人権委員会と人権擁護委員は何等組織的な繋がりを持たない。
人権委員会は人権侵害の被害の認定を行なう機関であり、
人権擁護委員は人権侵害を受けたと思われる者の人権を
守るためだけに存在する。
加害者の摘発は、警察が行なう。


人権委員会は被害の拡大を防ぐ目的で被害事実の勧告をするだけ
の機関であり、勧告の公表より前の行為に関しては
このスキームの対象外(従来の方法;裁判などによる)である。
人権委員会が一度でも勧告を誤った(司法で判断)場合、
人権委員会は解散される。
司法を人権委員会の上位に位置付ける事により、
現在の認定内容との同一性を担保できる。
(現時点では、人権侵害を司法が認定しているため)

人権委員会は独自に判断をすべきではあるが、
過度の独立性は不要であると考える。
人権委員会の構成員は交換可能であるはずで、委員会のメンバーが
頻繁に変わっても「人格が高潔」であれば運用上問題はないはず。
それに身分が保障されないことで、
かえって真剣に仕事をするのではないだろうか。
逆に不作為を引き起こす要因となるかもしれないが、
それはそうならない人を選ぶしかない。

報道機関等は過去の勧告を基に自主規制を行なうことにより、
人権侵害を予防する義務を負う。前例とするのに不満があれば、
マスコミが中心となって勧告が出された時点で裁判をする。
個人では裁判をしずらい上、彼らは権力の監視が主な職務らしいので。


人権擁護委員は専ら人権侵害を受けた者の人権を守るのみであり、
規定された方法でのみ行動し何等裁量権を持たない。
一度でも手続きを誤った場合は裁判で罷免される。
人権擁護委員自体に特段の権利が無い以上、
罷免されても人権擁護委員にデメリットは無いだろう。
(例え罷免されても人権擁護委員の「信念」に従って
少なくとも一人は救う事が出来るはず)


ー以上ー


不完全を承知で、敢えて公開します。
議論の足しにでもなれば幸いです。

司法を評価し過ぎているかな。。。
(現状では人権侵害は司法が判断するので)

上のスキームで問題が無いとは思っていませんので、
気が向いたら予告無く修正ます。
あまりにダメダメだった事が分かった場合は、
恥ずかしいので非公開にするかもしれません。

以上に合意頂けました上で、誤りや問題点や改善点などありましたら、
是非ともトラックバックを下さい。
(コメントは管理が面倒なので、受け付けていません)


みんなで「人権擁護法」をなんとかしましょう。

Intolerance

2005-03-30 00:00:00 | しあわせって?
ホリエモン騒動で、思い出す事がある。
アトランタオリンピックでのケー・スンヒ選手だ。
彼女は柔道で柔ちゃんを破り、金メダルを取った。


私は、ホリエモンが金メダルを取ると主張するつもりはない。
彼女のした事は、ホリエモンと似ているのではないだろうか。
彼女は柔道着の合わせを逆に着ていたのだ。

柔ちゃんは「自分の組み手ができなかった」と言ってる。
この事が勝敗を分ける原因となったかは分からないが、
それ以降、この様な着方は禁止された。

少なくとも試合当時、この様な着方は禁止されてはいなかった。
この事を、「ずるい」とか「卑怯」とか非難する事もできよう。
しかし、これを「効果的な作戦」と捉える事も出来る。


柔ちゃんは素直に負けを認めた。


---
ホリエモンを非難する人は、「時間外取引が卑怯」であるとか
「彼が公共放送の経営をすべきではない」などと言う。


「時間外取引」については高等裁判所で「合法」であるとされ、
ニッポン放送は抗告をしなかった。
係争中であるのなら分かるが、上訴しなかった以上
納得したものとして、公の場でこれについて非難すべきではない。
これを許していたら司法の存在意義が無くなってしまう。
これは法治国家での最低限のルールだ。


ホリエモンは、「経営能力が無い」「放送を愛していない」「拝金主義」
であるから公共放送の経営者になるべきではないというのは、単なる中傷だ。

公共放送の経営者として「望ましい人」と「望ましくない人」はいるだろう。
しかしながら、経営者に「なって良い人」と「なってはいけない人」が
存在するというのは、差別だ。

ある人物は「望ましくない人」であるかもしれないが、
それは「なってはいけない人」とは違う。
司法で株の取得が「合法」であるとされたのだから、
その株の権利を行使する事を非難するのは間違えている。

少なくともホリエモン自身は、自分が「望ましくない人」であるとは
思っていないだろう。
もし、ホリエモンが「望ましくない人」であるなら、非難されるべきは
「望ましくない人」を経営者にしてしまった、現在の経営者だ。


批判をするなら、経営者の人格ではなく経営や放送の内容でなければならない。
ステークホルダー(社員やリスナーや取引会社など)の意見を
反映させるべきは経営者の人事ではなく、経営方針なのだ。

このため、現時点でホリエモンを批判するのは適切ではない。
今現在、ホリエモンはニッポン放送の経営者でさえないのだ。


現在の状況は、「いじめ」ではないだろうか。
私には悪口を言い合って、得意になっているようにしか見えない。
少なくとも、人格を攻撃するのは大人の行為ではないだろう。

社員は入社試験で決まるが、経営者は株主総会で決まる。
会社は社員のものであると同時に、経営者のものでもあるのだ。

何事も最初からうまく出来る人はいない。
ニッポン放送の社員の人も、新人の頃は口のきき方も知らず、
失敗もしたのではないか。
折角入社試験に受かったのに、実際に仕事をする前に先輩から
「こいつは仕事もろくにできそうもないから、辞めるべきだ」
とは言われなかっただろう。それどころか、
失敗したら先輩がフォローしてくれたのではないだろうか。
ホリエモンだって、失敗をしながら立派な経営者になる可能性だって
多少はある。


日本の社会は、不寛容だ。

「大人」はきっと未来が分かるのだろう。しかし、失敗どころか
着手してさえいない事に対して非難する事は間違えている。
大人であるなら、子供が失敗する事を分かっていても
敢えてやらせてみるだけの度量が必要だ。


***
今話題の「人権養護法」が成立した場合、
テレビなどでのこれらの発言は、勧告の対象になるのだろうか。。。
現状において、ホリエモンの他にも総理大臣や(刑の確定していない)被疑者、
場合によっては被害者に対してさえ、悪口の言い放題ではないか。

テレビに出ている人に対しては悪口を言っても構わないと公言する人もいるが、
悪口を言う必要がある場合とはどの様な時なのだろう。
単に、悪口を言う人自身の人格の問題ではないのか。


日本での人権意識は、どうなっているのだろう。

『差別』とは何なのか

2005-03-12 00:00:00 | しあわせって?
前の『人権擁護法案について』で、主にこの法案が規定する
『組織』の問題点について触れたが、ここでは『差別』について
考えたいと思う。


少女が中年男性に殴られ、服を切られたとする。
これは、明らかに犯罪であろう。


---
では、これをマスコミが以下のように報じたとしたら、どうだろう。
# 日本人男性は、「日本人を拉致しておいて開きなおっている
# 朝鮮人など、日本から出ていけ!」と叫びながら、
# 朝鮮服(チマチョコリ)を着ていた『朝鮮人』の少女に
# 突然殴り掛かり、少女の服をナイフで切った。
(架空の話です)


おそらくこの犯人は、「悪い朝鮮人を追い出す為に制裁を加えた」
とでも言うのだろう。この主張は『正当』であるのだろうか。

彼女自身は日本人を拉致などしていないだろう。
少女は何等悪いことをしていない。
例え彼女の父親が工作員で、実際に拉致に関与したとしても、
彼女に罪はないのだ。殴られたり服を切られたりする謂れは無い。

では、彼女の父親に対してなら、殴っても構わないのだろうか。
そんなことは無い。法治国家である日本では私刑は禁止されている。
例え本当に日本人を拉致したとしても、殴る事は許されないのだ。
犯罪者の言い分など、この程度だ。

犯人が勝手にこの少女を『朝鮮人』と分類し、
「『朝鮮人』なら殴られて当然だ」という屁理屈を付けたのだ。


では、この少女はこの事件をどの様に解釈するだろうか。
犯人の「朝鮮人など出ていけ!」という発言から
「差別された」と感じるだろう。
しかしながら、犯人の言い分など真に受けるべきでは無い。
犯人は単に誰かを殴りたかっただけだ。自分の行為を正当化する為に
自分勝手な理屈を作り、言い訳をしただけなのだ。


---
次の場合はどうだろう。
# 日本人男性は、「日本人を拉致しておいて開きなおっている
# 朝鮮人など、日本から出ていけ!」と叫びながら、
# 朝鮮服(チマチョコリ)を着ていた『日本人』の少女に
# 突然殴り掛かり、少女の服をナイフで切った。
(架空の話です)

さて、この事件をどうとらえるだろうか。
犯人はおそらく服装から少女が朝鮮人であると錯誤したのだろう。
しかし被害者は日本人なのだ。犯人の言い分は、全く筋が通らない。
これは、犯人でさえ認めざるを得ないだろう。

---
現時点において日本人の中に、特にアジア系の国に対する
屈折した意識(差別意識)が存在している事は、事実だ。

私は、このような意識の有無に係わらず事件は発生すると考える。
一方で、犯人がその犯罪を行う対象として自身の屈折した意識
(差別意識)を投影していると見る。
結果、犯罪の被害者としてその様な人間(被差別者)が対象とされ、
犯人は犯行の理由に差別意識を挙げるのだ。

今回の場合は、犯人は勝手に日本人の少女を『朝鮮人』と分類し、
自分の行為を正当化しようとしたのだ。
北朝鮮は、確かに日本人を拉致した。
しかし、少女を殴ったりするのは間違っている。


これは、日本人に対しても言える。
日本はかつて確かに虐殺したり、他国の女性を暴行したのかもしれない。
しかし、私はそれをしていない。
隣国は、私を「日本人」と言うカテゴリに分類し、非難する。
正直、日本人はうんざりしているのだ。
隣国の法律は知らないが、日本の法律であれば
非難される筋合ではないというのか正直な感想だ。
この事はこの辺で止めておく。


---
話を戻そう。


私はこの様な事件は、差別があったから起こるのだとは考えない。
犯人が、誰かを殴りたかったから起こったのだ。

犯人は「誰か」を犯人の差別意識により決定したに過ぎない。
差別があったから、犯行が行われたのではないのだ。
仮に国籍の差別が消滅したとしても、人の心の中に悪しき衝動が
存在する限り、他の要因により別の被害者が決定されるだろう。
差別を取り締まっても被害者は減らないのだ。


現状の『人権擁護法案』においては、
朝鮮人の少女は「国籍による差別」の被害者に当たるだろうが、
果たして日本人の少女は「国籍による差別」の被害者だろうか。

上の二つの例で、犯人の動機や行為、二人の国籍の異なる少女の被害は、
全く同じだ。このため、もし「国籍差別」を否定するなら
被害者の国籍が異なっても、犯人は同じ罪に問われなければならない。

「差別」であるかどうかは、犯人の心の状態で決定されるべきであり、
被害者の国籍や、被害者がどう感じたか等で判断すべきものではない。
これを、裁判もせずに判断出来るのだろうか。


私は、差別を『差別』という文脈で考えるべきではないと考える。
差別は、『いじめ』と捉えるべきなのだ。

『差別』は、社会的背景を持った『いじめ』である。
そして『いじめ』は、立派な『人権侵害』なのだ。
『人権擁護法』では、差別を『差別』としてではなく、
『いじめ』(の一部)として規定すべきだ。
そうすれば、差別を、個別の「差別の対象」を規定する事なく、
より一般化した形で人権問題として再定義できるだろう。
(差別の対象を明示する事による逆差別の懸念も存在する)


人権擁護法の趣旨自体に反対する人は、誰もいない。
しかし、法律にするにはもっとよく考える必要がある。

人権擁護法案について

2005-03-08 00:00:00 | しあわせって?
トラックバックを頂いたので、少し調べてみた。
(http://www.moj.go.jp/HOUAN/JINKENYOUGO/refer01.html)
(http://www.moj.go.jp/HOUAN/JINKENYOUGO/refer02.html)
(http://www.moj.go.jp/HOUAN/JINKENYOUGO/refer03.html)
これでいいのかな???


私は「人権」を言う人に、人権感覚が存在しているとは思わない。
以前、BPOという組織についてのエントリーを書いたのだが、
あまりに狂っていて、書いているこちらが気が違っている気分になり、
結局公開を取り止めた経緯もある。御覧になった人はいるかな。。。


こんな法律、有害無益だとは思うが、
ざっと目を通して、問題点を挙げてみた。
細かく検討はしていないので、真に受けないように。。。


---
この法律は、犯罪においての警察や検察や裁判所とは別に
「人権」に関して警視庁にあたる「人権委員会」及び
警察官にあたる「人権擁護委員」、
県警にあたる「人権擁護委員連合会」、
その下部組織である「人権擁護委員協議会」、
裁判所にあたる「調停委員会又は仲裁委員会」、
裁判官にあたる「人権調整委員」を新規に設置するもののようだ。

警察や裁判所ではダメなのか。


人権侵害は、「犯罪」ではないのだろうか。
「犯罪」は「刑法」に定義されているが、
「人権」には同様な物が存在しない。

人権委員会には「調査」という名の捜査権もある。
実際に「調査」するのは、素人である人権擁護委員なのか。
個人的には人権侵害を規定して、警察で取り締まれるようにすれば
充分であると思う。

警察であれば証拠の押収などには「裁判所」の許可が必要であるが、
人権委員会は独自の判断で行える。
また、人権委員会は5人しかいない。日本の「人権」を5人に委ねて
しまっても構わないのか。(しかも判断は2人で出来る)


注目すべきは、警察は基本的に犯罪の予防は二義的な物であるのに対し、
人権委員会および人権擁護委員は、「人権侵害の予防」を明示してある点だ。
これは危険である。「人権の定義」および「予防」の範囲を限定すべきだ。

警察が犯罪の「予防」に消極的な点は議論の余地があるが、
消極的であるが為に、不審人物と疑われた人の人権侵害が最小限で済んでいる。
人権侵害を犯した(するかもしれない)と疑われる人物に対しての
人権侵害が発生しない様に配慮すべきだ。
「人権擁護委員」自身が人権侵害をしていたら笑えない。


「救済」の具体例がまったく無い。調停や仲裁を想定しているのかもしれないが、
その前に人権を侵害した人を特定(摘発)しなければならない。
事実上、人権の被害の「救済」が、侵害の「摘発」とほぼ同義になっている。

人権侵害であるかどうかは、最終的には司法が判断すると考えて良いのだろうか。
それなら、もし冤罪であったら人権擁護委員が調査をしたり摘発したり、
調停をしたり、司法に訴えた時点で、人権侵害に当たるだろう。
無給である人権擁護委員が、その「職務中」に行った人権侵害の責任を
全て個人が取ると考えて良いのか。


「人権尊重の理念を普及」とあるが、教育でさえ「道徳」を教えあぐねて
いるのに、単なる有志である「人権擁護委員」に普及などできるのか。
人権擁護委員は、「人格が高潔であって人権に関して高い識見を有する者」
ではあるだろうが、これはあくまで個人としての資質であり、
人権の解釈が人権擁護委員毎に異なる可能性が大きい。
少なくとも、人権擁護善委員の「人権意識」は均一である必要がある。
教育制度等必要ではないのか。
「人権」の教育はどのようになされるのか。


人権とは、普通の健康な成人には無いのだろうか。
そもそも人権は、人種、民族、信条、性別、社会的身分、
門地、障害、疾病又は性的指向が、異なっていようがいまいが、
同一のものでなければならない。

被差別者を規定している事で、かえってこれで、
差別対象者を明示していることにならないのか。
この法案作成者自身が、人権感覚を欠いていると言わざるを得ない。
(この法案自体、差別という人権侵害を犯しているのではないか)


差別に関して、全て「国籍等」となっている。
なぜ、多種存在する差別の代表に国籍を選んだのだろうか。


選挙で選ばれた内閣総理大臣でさえ、罷免する方法が存在するのに、
委員長及び委員を罷免する方法が存在しない。
国民の意志に反していても、誰も委員を辞めさせることが出来ないのだ。
これでは、誰の為の人権なのか。
また内閣総理大臣が任命するのに、政権が交替しても3年間は変わらないのか。


政治活動の禁止を明示すべき。
「積極的にしてはならない」では不十分。
人権擁護委員に対しては、規制が無い。


「人権」に地域性が存在するとは考えられない。
「人権擁護委員連合会」 「人権擁護委員協議会」
等と、地域毎に階層化する必要性が分からない。
人権意識を全国で統一するなら、フラットな組織の方が好ましい。
階層構造を取ると様々な弊害が考えられるし、
土着の組織であれば、選挙活動に利用される恐れもある。
「人権を重んじる政党」と結び付き易いだろう。


人権擁護委員が無給である事も、問題ではないか。
ボランティアではなく、「職務」として行っている事を自覚させるために
例え月に千円であっても給料を支払うべきだ。
対価を払わずに「契約」は成立しない。


「擁護」というよりは、「取り締まり」のための組織を作る為の
法律であるといえる。「取り締まる」なら警察で充分だ。

調査(捜査)、や罰則の伴う「勧告」が出来る以上
「人権委員会」を監視する組織も必要だろう。


調停や仲裁を司法以外の場で行う事は、「民衆法廷」の様になる
おそれがある。本当に公正な第三者という立場で機能できるのか。
「人権意識の高い」人間に囲まれて、加害者とされる人間が
一方的に不利な立場に立たされるのではないか。

調停や仲裁の機能は司法に任せるべきである。




---
人権委員会から調査勧告権を外せば、国家権力は必要無い。
NGOの活動で充分ではないのか。(無給だし)
組織の構造やネーミングセンスも市民団体の物だ。
この法案は、市民団体が、自分達のやりたい(が出来ない)
事をするためだけに作成したと考えざるを得ない。

一方、国家権力がこの組織を積極的に活用すると、
この法案の立案者の意図とは全く違った事が出来るだろう。


私は、この組織がどの様に使われるにせよ有害無益であると考える。


---
「人権」に限らず、最先端である事が必ずしも「正しい」とは限らない。
「人権意識の高い」人には怒られそうだが、「人権」も「主権者」が
規定する物なのだ。
国連の勧告が無条件に正しいという主張は、誤りであると敢えて言う。

国民が「人権」を規定するのだから、「取り締まり」によって
日本の人権を「正しく」するのではなく、まず国民に自分達の信ずる
「人権」について納得させるべきだ。そう出来れば「取り締まる」
までもなく、国民自身が人権侵害を許さないだろう。

「取り締まり」が「人権侵害」を引き起こし易い事は誰でも知っている。
「現状」を憂う気持ちは分かるが、力によって言うことを聞かせようと
するのは、間違っている。

(「調査」という名の捜査権が存在する事に気付いたので、
一部訂正しました。)
(人権委員会は、委員長を含めると5人でした。)

ホリエもんがエライ人に認められない理由

2005-03-07 00:00:00 | しあわせって?
話題となっている事については敢えて触れない。


ホリエもんはエライ人に評判が悪いようだ。理由はいろいろあるだろうが、
私はこれを理系人間と文系人間の違いではないかと見る。

私の考える理系と文系は、学生時代の専攻科目とは別のもので、
例えば以下のような物である。

理系は現象そのものを改善しようとし、文系は問題を社会的に解消しようと
するのではないだろうか。
そのため、理系は事実に則り、自分の主張の「妥当性」
(効率良く問題を解決できる事)を相手に理解させようとするが、
文系は正しいかどうかではなく、自分の主張を相手に「納得」させようとする。
理系は「妥当性」を、文系は「納得」をベースに話すのだ。

話を聞くときも、理系は相手の主張を評価し、その「妥当性」を判断するが、
文系は相手が自分を「納得」させてくれるかどうかで判断する。
そのため、文系は理系の説明を理解はできるだろうが、「納得」はしない。
勿論、逆もあるだろう。


私の観察によると、ホリエもんは理系で、エライ人は文系が大多数だ。
因みに、楽天の社長は文系だろう。

ホリエもんは理系の論理で話すが、エライ人は文系の感性で聞く。だから、
いくらホリエもんがエライ人に説明しても「納得」させることが出来ないのだ。

理系の価値観である「妥当性」からすれば、説明者がスーツを着ているかや
成りあがり者であるとか、どの様な人格の人間であるかどうかは関係無い。
話している内容こそが大切なのだ。ところが、文系の人間が「納得」するには、
どの様な肩書のどの様な身なりの人間がどう話しているのかが重要だ。

エライ人を「納得」させようとするなら、理屈ではなく、
情や権威や礼(手続き)や政治(力関係)を基にしなければならない。


私は理系が必ずしも経営者に向いていないとは思わないが、
文系ばかりである現在のエライ人の仲間に入るのは困難だろう。
これも理系の経営者が増えない理由ではないだろうか。

ボクシングデー

2004-12-25 00:00:00 | しあわせって?
イギリスの息の掛かった地域では、某宗教の祝の日の翌日にみんなでボクシングをするための日があるそうな。

日本ではその前夜の方が有名だが、今日はその宗教の
祝の日だ。だが、敢えてその宗教の信者が強く反対する
『靖国』問題について述べる。


A級戦犯がどうこうと理屈を言う人がいるが、
宗教とは本来『信じる』事を前堤にしている。
理屈など全て後付だ。

神が存在するかどうかなど、気にする事自体
ナンセンスなのだ。そんな事が気になる人は、
そもそも『信じて』などいない。
理屈などではない。何を『信じて』その行動を
とっているのか、それこそが問題なのだ。

私にも、あなたがたの宗教の問題点を理屈や歴史に
かこつけて、いくらでも挙げることが出来る。
でも、それはしない。
なぜなら宗教の本質はそんなことではないからだ。
なぜ、そんな詰まらないことばかり気にするのだろう。


靖国問題を語る上で大切なのは、
外国人がどう見ているかではない。
また、総理の意図さえも大した意味は無い。
気にすべきは、日本人の行動として
どのような意味があるかだ。だから、
外国人の価値観で判断すべきではないのだ。

そのため、国民が問題だと思えば問題だし、
問題では無いと思えば問題ではないと言って良い。
その結論に対して、外国がどう判断するかは別問題だ。
国内外で、利害や見解の相違があるのは当然だ。

国民が問題だと思うなら総理を交代させるべきだが、
問題だと思っていない事を批判されたからといって
変えるのは、慎重にする必要がある。批判した方は
「間違っていたから改めた」と取るかもしれないし
「強く言えば言うことを聞く」と思うかもしれない。


悪くないと思っているなら、
面倒臭がらずにきちんと説明しなければいけない。
そうしないと、理解し合うと言うことは
永久に出来なくなってしまうのだ。


しかしながら、少なくともあなた方は問題だと
主張している。
では、あなたは果たして総理が毎週あなたの宗教の
宗教施設で礼拝を行ったとしても「政教分離」と
非難するだろうか。
アメリカの大統領が就任式であなたの教典に手を置いて
宣誓するのは、どうなのか。
「信仰の自由」を言うなら「参拝するな」と言う方が、
問題ではないのか。


日本の総理大臣は参拝すべきではないと言うが、それは
信仰の自由や表現の自由などとの問題にはならないのか。
総理大臣だけで、国会議員は構わないのか。公立学校の
先生はどうなのか。裁判官はどうか。公務員は?

また、特定の宗教を名指しして、
(信者が主張しているならともかく)勝手に
「この宗教を信仰するのは戦争を肯定することだ」
というレッテルを張るのもどうだろう。

あなたの宗教だって過去に沢山の人を、それも
「『神の名』において」殺してきたではないか。
宗教など、多かれ少なかれその様な要素を含んでいる。

例え教えが正しくとも、不完全な人間が神の考えなど
そうそう理解などできるものではない。
そして宗教を運営しているのも不完全な人間なのだ。

過ちはくり返してはならない。一方で、
過去の過ちを『許す』ということも
あなたの宗教では謳っていたはずだ。


それに誰もが知っている通り、あなたの宗教を
信仰している人も戦争を始めたではないか。
問われているのは宗教ではなく、日本人の心の持ち方だ。

総理は国民が選んだのだ。総理が先の戦争を正当化
しようとしていると国民が思っているなら、
それは総理を選んで罷免もしない国民の総意だと
言っていい。外国にはそう伝えるべきだ。


だが私は、日本国民は総理が参拝することを、
そうは捉えていないと思う。それで充分ではないか。
宗教の勢力争いの道具にするのは、止めてもらいたい。


外国が問題にしているのは日本人の戦争に対する姿勢だ。
それをきちんと説明すること。
それこそが日本人がすべきことだと思う。


もし、あなたの宗教を信ずる総理が誕生したのなら、
私は堂々と礼拝して欲しいと願っている。
(因にboxingは、「贈り物をする」と言う意味です)



メリー クリスマス

『皇族』について

2004-12-23 00:00:00 | しあわせって?
皇太子の「人格否定発言」で、妃殿下の公務について色々と言われているが、皇太子の本意はそこには無いと思う。

別に誰に頼まれた訳でもないが、皇太子の本当に
言いたかった事を、*勝手に想像して*述べる。


皇太子としては、「新しい公務」と言うのが精一杯だった
ろう。しかしながら、本質はそんなことではない。

最大の問題は「皇族は人間として扱われていない」事だ。
では「神として」扱われているかと言うとそうでもない。
例えるなら、天然記念物の『トキ』と言う鳥の様な物で、
大切に扱われているのは本当だが、尊厳のある一人の
人間としてではない。

現に皇族には基本的人権さえ無いのだ。皇族には一般の
国民には当然与えられている参政権も無いし、職業も
選択できないし、信教の自由も(おそらく)無い。
例えあっても、表現することは許されていないだろう。
天皇がメッカに向かって毎日欠かさず五回の礼拝を
している姿を想像できるだろうか。(あくまで喩えだ)

幸福追求権も著しく制限されている。結婚だって
「両性の合意のみ」というわけではない。


皇太子妃は「適応障害」らしい。でも考えてみて欲しい。
皇太子妃は、俗世間でなら立派に暮らしていけただろう。
この『障害』は、皇太子妃個人の問題なのだろうか。

天皇も秋篠宮も、生まれた時からこの特殊な環境で生活
して来た。おそらく今まで何の疑問を持ったことは
無いだろう。彼らの発言は少なからず妃殿下を
傷付けているのではないか。


私は公務を単なる『職業』と割り切って、プライベートを
認めるべきだと思う。サラリーマンの様に公務も週休二日
で9時5時にして、休日出勤には代休を与え、好きな時に
有休を取れる様にもすべきだろう。

皇太子と結婚したら、その女性は皇太子妃の公務を
しなければいけないのだろうか。
私は別に皇太子の奥さんが専業主婦でもOLでもいいと思う。
専業主婦や共働きでも、夫の仕事先の結婚式や
パーティーに出席することもあるだろう。
その程度ではいけないのか。


また。宮内庁の職員は親切すぎて、(『トキ』の様に)
世話を焼きすぎているのではないか。

人によってはそれが堪え難いストレスにもなるのだ。
周りに人が居ないと不安になる人もいれば、
周りに人が居ると落ち着けない人も居る。


天皇や皇太子を『職業』として割り切るのなら、
本人の意志で何時でも辞められるようにすべきだ。
元号などは天皇がなかなか辞められない圧力に
なってはいまいか。


特定の人物を神と崇めると、それに悪意は無くとも
その人を苦しめる事になる。
国民は皇族を神や保護動物の様に大切にするのではなく、
『人として』扱ってあげても良いのではないだろうか。


我々国民は、皇族に多くを望みすぎてはいまいか。

『しあわせ』とは

2004-10-31 00:00:00 | しあわせって?
幸せについて是非とも考えてほしい。

私は、幸せと不幸せとは対であると考えます。
例えば、この世の中で最高の料理を食べる機会があったとします。
この機会を逃すと二度と食べることは出来ません。

あなたなら、どうしますか?


もし食べて、その味を知ってしまったとしたら、
今まで美味しいと思っていたハンバーグが、
それほど美味しいものでは無いと知ってしまいます。
そして、最高の料理をまた食べたいと思うでしょう。
ところが、最高の料理は、二度と食べられません。
あなたはそれ以降、何を食べても美味しいと感じることが
出来なくなります。
あなたは幸せでしょうか?


では、食べずにいたらどうでしょう。
あなたは、最高の料理がどんな味か知りたくなるかもしれません。
大好きなハンバーグを食べても、
最高の料理はもっと美味しいのだろうなと考えてしまって、
「あの時食べていれば、、、」と、後悔するかもしれません。
あなたは幸せでいられるでしょうか?



あなたは幸せについて、考えるべきです。

『弱者』とは

2004-10-31 00:00:00 | しあわせって?
日本では弱者と称する人々が台頭している。

この言葉は、地方に住んでいる人や、
サラリーマンの妻等を指していたりする。

地方に住んでいる人が、本当に弱者なのだろうか?
私はそうは思わない。

地方に住んでいる人は、都会に住んでいる人よりも遥かに恵まれている。
なぜなら、地方に住んでいる人は、都市に行く必要が無い人逹だからだ。
都市の方が良いなら、都市に引っ越せば良い。
弱者だから都市に住めないのではなく、『持てる者』だから
都市に住む必要がないのだ。
地方に住み続ける人は、住む家や仕事や人間関係等の少なくともひとつを
持っているのではないか?

それに、議会制民主主義国家において、もっとも重要な権力は
選挙権である。
現在の日本では1票の重さが地方と都市では3倍近くもの差がある。
これにより地方では、自分達の支払った税金より多くの金を使う事が出来る。
どこが弱者なのだろうか?


サラリーマンの妻はどうだろうか?
サラリーマンの妻と言うくらいだから、母子家庭でもなく、
夫が失業中と言うわけでもないだろう。
どこが弱者なのだろうか?


日本で弱者と名乗るのは、単なる恥知らずと考えて良いのではないか?
そして『弱者切捨て』は、『既得権を奪うな!』と聞こえる。


しかしながら、『弱者』は厳然として存在する。
本当の弱者は、自分の事を弱者などとは決して言わないし、
政治家に陳情など出来ない。

政治家が、『弱者』と言うときには、「私の支持団体」程度に
聞いておいた方が良い。

戦争体験者の責務

-0001-11-30 00:00:00 | しあわせって?
戦争体験を話している人達は一体何を伝えているのでしょう。


戦争は、こんなに大変だったとか、仲間が何人死んだとか。。。

1人の人間の体験では、せいぜい「戦争で厭な思いをした」程度の
話しか出来ません。さも、自分は被害者だと言わんばかりです。
もし、全員が被害者であったのなら、同じ情况になれば、
同じ結果(戦争)になることでしょう。
どうすれは戦争は辞められたのか。
これについて戦争体験者は話すべきです。戦争被害者としてではなく、
戦争当事者として。



反戦を声高に唱える人達は、「日本は軍隊を持つべきではない」と、
言います。軍隊を持たなければ戦争は無くなるのでしょうか?

軍隊を持たなければ戦争は出来ない。まあ、それはそうかもしれません。
しかし、いま現在軍隊を持っていないというだけで、明日には
持っているかもしれません。だから、
靖國神社に参拝するかどうか位の事で、外交問題になってしまうのです。
(それに現在では、実質軍隊を持っていますね)



「日本は、独自で軍事行動は取らないが、国連決議があれば
軍事活動に参加する」

これって、自分の行動は決められないが、みんながやろうといったら
やります。ってことですよね。。。

・・・国家としてどうなの???



なぜ戦争は起きるのか?

「反戦を唱える人」はきっとこう言うでしょう。
「戦争を起こした人が愚かだったからだ。」と。

でも、人は愚かなのです。自分は愚かでは無いと思っているで
あろう「反戦を唱える人」も残念ながら、自分が思っているほど、
賢くはないのです。


戦争は、利害関係を調整するためにあります。
人が死んで、焼土となり、どちらか一方がもう闘えなくなったら、
そちらが利権を放棄します。それだけのことです。

利害関係が存在する限り、戦争は無くなりません。
軍隊をもっているかどうかに拘わらずにです。



戦争経験者がすべき事。
それは、戦争を起こさないしくみを構築する事だったと思います。

しかしながら戦争経験者は、これから逃げてしまって、上の様に
「軍隊を持たなければ。。。」「みんなが決めれば。。。」などと、
問題から目を逸して責任を放棄してしまいました。



既に50年経ってしまい、これまで何とかなったのだから、、、と、
考えてしまう人が少なからず存在している事は承知しています。

でも、軍隊を持ってしまった以上、個々の事例に付いて
戦争をする/しないを(特定の人物、機関ではなく)
国民の総意として決定できるしくみを作る必要があるのでは
ないでしょうか?

これは、戦争をするしくみともなりますが、しないしくみとして
使うことも出来ます。様は、国民の見識次第と言うことですね。
最終的には国民を信じるしかないでしょう。信じられないのなら、
あなたが独裁者として君臨するしかありません。


『祈り』について

-0001-11-30 00:00:00 | しあわせって?
祈るのは、自分の願いなどではなく
「世界の人々の為に祈れ!」
などと言う人がいます。

それは違いませんか?
あなたが人類に分類されるなら、あなたの幸福無くして全人類の幸福は有り得ません。
全ての人類一人ひとりが、自分の幸福を願えば、全人類が幸福になれるはずです。
なんたって、神様仏様は、全知全能なのだから。。。


問題なのは、自分の幸福を望まない人がいる事です。
私も良くやってしまうのですが、


「私は地獄で構いませんから、みんなを天国にお願いします。」



と、祈ってしまう事があります。これを構文解析すると、

# A: 私を地獄にお願いします。
# B: みんなを天国にお願いします。

の二つのお願いをしていることになります。でも私はとっても良い子なので、神様は

「2つも願うとは欲張りな奴だが、日頃の行いがいいから叶えてやろう」

と、希望どおり

# A': 私は地獄
# B': みんなは天国

と、願いを叶えてくれました。めでたしめでたし。




・・・これでいいのか?

私は、Mではないので、本当は地獄になんか行きたくないはずです。
なぜ、こうなったのかと言えば、私に架けられた呪いのせいです。
お願いするときは、対価を払えと。でも、本当の神様や仏様は、お供えなんか要求しません。
お供えを必要とするのは、坊さんや神主さんや牧師さまです。

ここは「私も含めてみんなを天国にお願いします。」と言うべきです。
これなら、神様も一つの願いを叶えるだけで手間も掛かりませんし、私も目出度く天国行きです。


***
幸せの上限が100%として、神様にお願いする時に、
「私は80%の幸せで充分です。」
なんて言ってしまいます。ここで神さまは、
「なんや、中途半端なとこやなぁ。」
と叶えてくれました。めでたしめでたし。


なんてったって神様仏様は、全知全能ですから、80%も100%も大差無いのです。
ここは堂々と100%と言いましょう。手間が違わないのだから。これは欲深というのとは違います。


---
私が言いたいのは、「祈ってほしい。」
神でも仏でもサンマの頭でも、バンバン祈ってほしい。

祈る時には、遠慮せず思い付く限りのものをお願いすべきだ。
そしてそれは、「全人類の幸福」などという何だか分からないものではなく、
全身全霊を傾けて、自分自身が幸福を実感できる最高のものにすべきだ。

そして、次に祈るときは、前よりもっともっと良い物を描きながら祈って欲しい。

神が傍らにあるものは神と。仏と共にあるものは仏と。サンマの頭教の人はサンマを食べる毎に。何度でも祈って欲しい。

残念ながら手近に神や仏が見当たらない人は、神や仏に出会った時、迷わずお願いできるように日頃から考えておこう。
いざという時、つまらない事を言わないように。。。


・・・なんて言った側から、

「祈りなんてどうでもいい!」

と、言っておく。


人間が本当にすべき事は、 祈りなんかではなく、











「正しい願いを持つことだ!」


誤った願いを持って不幸になっている人の、何と多いことか。。。