見解の押しつけについて述べる。
例として人権擁護法案を取り上げるが、別にこれに限った事ではない。
『反対派批判派』は、文字通り『反対派』を批判する人達だ。
その特徴として『賛成派』とは名乗らない。そして
『反対派』の主張があまりにも *酷い* と言うのがその動機らしい。
(人権擁護法案の場合)押し並べて法律に一家言ある。
『反対派批判派』は『反対派』の事が分かっていないのではないだろうか。
『反対派』は『反対派批判派』の様に法律には詳しくない。
しかし、漠然とした不安があるのだ。
例えば、人権が社会保険庁の事務費の様に拡大解釈されるのではないかという不安だ。
(事務費の使途には何等問題が無いと考える人がおられるかもしれないが、
ここでは事務費の使途には不適切な物が含まれているものとする)
『反対派批判派』であれば、法律論で社会保険庁の事務費の規定には問題
(後に挙げた物(**)は不適切であるとする)があり、
人権擁護法案の規定には何等問題が無い事がきっと理解できるのだろう。
しかしながら法律に詳しくない『反対派』にはそれが分からないので、
もっと泥臭い方法を用いる。その方法とは、
不安に思った事をひとつひとつ取り上げ、それを否定させる事だ。
自然言語で記述してある法文は、数式のように明快に証明することなど出来ない。
そのため、いくら法律に詳しくとも『賛成派』や『反対派批判派』の見解は
あくまで個人的な解釈でしかないし、万が一彼らの見解が誤っていたからといって
誰も責任など取れないだろう。
法解釈は、公権力の権限を持った者が行わない限り、個人的見解でしかない。
そのため『反対派』は、その鋒先を『賛成派』でも『反対派批判派』でもなく、
『法案提出者』に向けている。もとより『反対派批判派』と議論する気など無いのだ。
『反対派』からすれば、たとえ善意からの行為であっても、
『反対派批判派』は自分の見解を押しつけるありがた迷惑な存在でしかない。
『反対派』としては『法案提出者』に公式な場で否定してもらう必要があるからだ。
これには二つの意味がある。一つは、『反対派』の不安を解消する為で、
もう一つは、運用時に恣意的な解釈をしないように牽制する為でもある。
--
また私は一見突飛で常識的にあり得ないと思える懸念も排除すべきではないと考える。
なぜなら「(**)事務費で職員官舎(社宅)を建設することはありますか?」とか
「(**)事務費でゴルフボールを購入することはありますか?」や
「(**)事務費でライオンキングのチケットを買いますか?」
という質問は、常識に囚われていては絶対に出来ないからだ。
(『反対派批判派』は、本当にこれらの事をも想定した上で結論を出したのか?)
もし、これらの回答が「あり得ます」となれば、それを問題とすべきだし、
「あり得ません」との公式な記録が存在するにも係わらず
社宅を建設したりしたのなら、社会保険庁の責任を問うことが出来る。
馬鹿馬鹿しいと思える事を *実際に* 行う人を一概に非難すべきではない。
彼らがトリックスターであるかどうかは、常人には判断できないのだ。
---
意見というのは、最善のものが充分に素晴らしくさえあれば
2番目以降の意見など、どうでも良くなる性質のものだ。
しかしながら『反対派批判派』は、意見が100あったとして、
一番悪い意見(100番目)を98番目にする作業をしているようにしか思えない。
「どんな事が一番許せないか?」という点に関して二つの事が言われる。
それは「無能な人がしゃしゃり出る事」と「有能な人が能力を有効に使わない事」だ。
おそらく『反対派批判派』は前者で、私は後者にあたるのだろう。
これはどうも根源的な価値観に当たるらしいので、私の主張が『反対派批判派』に
理解されるかは疑問なのだが、出来るなら折角の能力を最悪の意見の訂正ではなく、
最善の意見を構築するために使って欲しい。
最善の意見を構築するには、現在存在しない意見を新規に創り出す事もあるし、
今ある意見をより良くする事であるかもしれない。
批判をするのは良い事ではあるが、その対象は最も悪い部分を持った意見にではなく、
最も良い部分を持った意見にすべきだ。
良い部分を持った意見は必ずしも現時点で1番良い意見であるとは限らない。
3番目かもしれないし、50番目や100番目かもしれない。
それらを取り上げ、最善のものにして行くために批判や提案をすることこそが
有意義な議論ではないだろうか。
出来るなら、『反対派批判派』にも前向きな議論をして欲しい。
--
『反対派批判派』のロジックは歴史認識問題で「歴史を歪曲する物だ!」と
自分の見解を疑う事もせず、 *一方的に* 主張する人にも通じる。
(本当に歪曲しているかもしれない可能性については否定しない)
法解釈が公権力によって行われるのと同じように、
歴史の解釈は事実に基づかなければならない。
個人的な見解が絶対であると考えるのは、止めるべきだ。
また、身内だけで話しているうちに、自分たちの見解こそ『正しい』と
「確信」してしまう点も同様だ。
『正しい』かどうかは、多数決で決めるものではないのだから、
身の回りに同じ意見があるかどうかは全く関係ない。
実の所『反対派批判派』が『反対派』を気に入らないように、
私にとっては『反対派批判派』や『歴史歪曲!』が目障りなだけなのだ。
結局私が、一番自分の価値観に基づいた見解を押しつけているのである。
でも、私の考え方のほうが建設的だと思うんだけどなぁ。。。(しつこい!)
例として人権擁護法案を取り上げるが、別にこれに限った事ではない。
『反対派批判派』は、文字通り『反対派』を批判する人達だ。
その特徴として『賛成派』とは名乗らない。そして
『反対派』の主張があまりにも *酷い* と言うのがその動機らしい。
(人権擁護法案の場合)押し並べて法律に一家言ある。
『反対派批判派』は『反対派』の事が分かっていないのではないだろうか。
『反対派』は『反対派批判派』の様に法律には詳しくない。
しかし、漠然とした不安があるのだ。
例えば、人権が社会保険庁の事務費の様に拡大解釈されるのではないかという不安だ。
(事務費の使途には何等問題が無いと考える人がおられるかもしれないが、
ここでは事務費の使途には不適切な物が含まれているものとする)
『反対派批判派』であれば、法律論で社会保険庁の事務費の規定には問題
(後に挙げた物(**)は不適切であるとする)があり、
人権擁護法案の規定には何等問題が無い事がきっと理解できるのだろう。
しかしながら法律に詳しくない『反対派』にはそれが分からないので、
もっと泥臭い方法を用いる。その方法とは、
不安に思った事をひとつひとつ取り上げ、それを否定させる事だ。
自然言語で記述してある法文は、数式のように明快に証明することなど出来ない。
そのため、いくら法律に詳しくとも『賛成派』や『反対派批判派』の見解は
あくまで個人的な解釈でしかないし、万が一彼らの見解が誤っていたからといって
誰も責任など取れないだろう。
法解釈は、公権力の権限を持った者が行わない限り、個人的見解でしかない。
そのため『反対派』は、その鋒先を『賛成派』でも『反対派批判派』でもなく、
『法案提出者』に向けている。もとより『反対派批判派』と議論する気など無いのだ。
『反対派』からすれば、たとえ善意からの行為であっても、
『反対派批判派』は自分の見解を押しつけるありがた迷惑な存在でしかない。
『反対派』としては『法案提出者』に公式な場で否定してもらう必要があるからだ。
これには二つの意味がある。一つは、『反対派』の不安を解消する為で、
もう一つは、運用時に恣意的な解釈をしないように牽制する為でもある。
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また私は一見突飛で常識的にあり得ないと思える懸念も排除すべきではないと考える。
なぜなら「(**)事務費で職員官舎(社宅)を建設することはありますか?」とか
「(**)事務費でゴルフボールを購入することはありますか?」や
「(**)事務費でライオンキングのチケットを買いますか?」
という質問は、常識に囚われていては絶対に出来ないからだ。
(『反対派批判派』は、本当にこれらの事をも想定した上で結論を出したのか?)
もし、これらの回答が「あり得ます」となれば、それを問題とすべきだし、
「あり得ません」との公式な記録が存在するにも係わらず
社宅を建設したりしたのなら、社会保険庁の責任を問うことが出来る。
馬鹿馬鹿しいと思える事を *実際に* 行う人を一概に非難すべきではない。
彼らがトリックスターであるかどうかは、常人には判断できないのだ。
---
意見というのは、最善のものが充分に素晴らしくさえあれば
2番目以降の意見など、どうでも良くなる性質のものだ。
しかしながら『反対派批判派』は、意見が100あったとして、
一番悪い意見(100番目)を98番目にする作業をしているようにしか思えない。
「どんな事が一番許せないか?」という点に関して二つの事が言われる。
それは「無能な人がしゃしゃり出る事」と「有能な人が能力を有効に使わない事」だ。
おそらく『反対派批判派』は前者で、私は後者にあたるのだろう。
これはどうも根源的な価値観に当たるらしいので、私の主張が『反対派批判派』に
理解されるかは疑問なのだが、出来るなら折角の能力を最悪の意見の訂正ではなく、
最善の意見を構築するために使って欲しい。
最善の意見を構築するには、現在存在しない意見を新規に創り出す事もあるし、
今ある意見をより良くする事であるかもしれない。
批判をするのは良い事ではあるが、その対象は最も悪い部分を持った意見にではなく、
最も良い部分を持った意見にすべきだ。
良い部分を持った意見は必ずしも現時点で1番良い意見であるとは限らない。
3番目かもしれないし、50番目や100番目かもしれない。
それらを取り上げ、最善のものにして行くために批判や提案をすることこそが
有意義な議論ではないだろうか。
出来るなら、『反対派批判派』にも前向きな議論をして欲しい。
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『反対派批判派』のロジックは歴史認識問題で「歴史を歪曲する物だ!」と
自分の見解を疑う事もせず、 *一方的に* 主張する人にも通じる。
(本当に歪曲しているかもしれない可能性については否定しない)
法解釈が公権力によって行われるのと同じように、
歴史の解釈は事実に基づかなければならない。
個人的な見解が絶対であると考えるのは、止めるべきだ。
また、身内だけで話しているうちに、自分たちの見解こそ『正しい』と
「確信」してしまう点も同様だ。
『正しい』かどうかは、多数決で決めるものではないのだから、
身の回りに同じ意見があるかどうかは全く関係ない。
実の所『反対派批判派』が『反対派』を気に入らないように、
私にとっては『反対派批判派』や『歴史歪曲!』が目障りなだけなのだ。
結局私が、一番自分の価値観に基づいた見解を押しつけているのである。
でも、私の考え方のほうが建設的だと思うんだけどなぁ。。。(しつこい!)