いつかはこの日が来るって思ってました。
6年前、実家の母が倒れました。
独居だったので、倒れてから発見されるまでに3日かかったために、
回復の見込みはないと言われてからの7年です。
病院を退院した後、施設に入居していたのですが、
その母が、この21日息を引き取ったと連絡がありました。
75歳でした。
先週、もう長くないと連絡をもらっていたので、
週末に会う機会があったのは救いかもしれません。
久しぶりに会った母はずいぶんと細くなっていて、小さくなってました。
食べる量も以前ほどにはなくなっていて、むせることもあったとのこと。
私には弟がいるので、二人で話し合い、
母の元気な頃口にしていた言葉を実行することに決定し施設に伝えてから、
その時には持ち直していたので一旦帰宅したのですが、
その2日後でした。
母は、20年前に父(夫)を亡くした時から事あるごとに言われていたのが、
「無理やり生かそうとしないでほしい。自然に」
その言葉を預かっていた私は、弟と話し合い、
その遺志を実行して欲しいと、施設側に協力をお願いしました。
施設からも了承いただき、何も治療や処置(体位変換や痰の吸引はしてくれていました)を施さずに看取ってもらえました。
確かに、最初の急変時に病院に移送して適切な処置を施していれば、
もう少し時間稼ぎができた可能性は捨てきれません。
それでも、私達にはその選択肢はありませんでした。
今までさんざん痛い思いも苦しい思いも数え切れないほどしてきて、
最後の最後まで病院のお世話にならせたくなかった。
病院に行けば、治療を受けて一旦は回復できたでしょう。
それでも、
脳梗塞の後遺症で認知症を発症している母にとって、
それがすべてベストだとは思えなかったからです。
もういいんじゃない
それが私達の出した結論でした。
そもそも、7年前に倒れた時点で亡くなっていてもおかしくなかったのに、
今まで生きていてくれただけで奇跡なんだしと。
ただ、そんな母には、野望じゃないですけど、譲れない信念があって、
最後まで『人の役に立ちたい』と
献体の登録を行っていたのです。
これはもう20年前になります。
さっさと自分で申込みもしていて、子どもにも事後報告でしたし。
しかも、数年単位での事後報告ですからね。
献体する時の対応なんて、施設の人にも未知との遭遇みたいだったし、(施設初らしいので)
こっちも、知らんし。
だいぶ調べましたね。
もう、あっちこっち。
葬儀はできるけど、時間制限(大学病院までの搬送に)があるとか、
ちゃんと冷やしとかないとあかんとかなんとか。
で、兄弟で、葬儀はどうするって話になるでしょ。
でも、急になかなか動きが取れない。
姉弟二人の内どっちかが地元岡山に住んでいたならなんとかできたんだろうけど、
こっちは大阪、弟は佐賀県。
とりあえず駆けつけるだけで数時間のロス。
で、結局、母自体がバタバタするの嫌いだし、
ゆっくりな時間にしようとなり、
葬儀は行わず、そのまま施設から直接ともしび会(献体の施設)に引き渡す形になりました。
最後、ちゃんとお別れできる時間が取れたのも、
施設の人の図らいが大きく、感謝感謝です。
お見送りには、すごく多くの職員さんが母の遺体が運ばれるその場にいてくれて、
(多分ですが、その時施設にいた人全員じゃないかと思います)
みんなで送ってくれました。
なかには、涙を流してくれる方までいてくれて、
母は幸せ者だなあと、今になって思います。
(その時はそこまで気が回らなかったので)
今になってもまだ実感はありません。
葬儀云々ではなく、
それまであまり関わらなかったのが幸いしてるのかどうかは分かりませんが、
普通に生活してる分には実感がないんです。
でも、書類とか整理してると思わず感情が揺れます。
「この証明書まだ期限内やん」
「この手続きもうせんでいいんや」
などです。
本当なら、いや、生きてたら必要なものが
もう必要なくなったんだと思うと、
「ああ、もういないんや」
と、なるわけです。
そういえば、身内や施設の方以外で号泣してくれた方がいました。
6年前に倒れたところを発見してくれた母のご近所の仲良くしてくていた方です。
報告に訪れたところで、崩れそうになるように泣いてくれました。
(それに釣られて弟も号泣してましたが)
感謝です。
こんなに思ってくれていた人がいる母が羨ましいです。
母の口癖は表題です。
いつもなにかしてもらったとか、嬉しい知らせがあったとか、
なにかと口にしていたのが
しあわせ~
でした。
ただ、最後の最後まで自分で言いたかっただろうなあと思います。
結局施設の人には話せなくなってからしか行ってないので、
自分の口では伝えられなかったっていう後悔をしてるかもと思います。
でも、きっとその気持は伝わっていると思いました。
じゃないと、あんなに多くの人が目に涙を浮かべてくれるだろうかと、
ただの入所者のために。
とりあえず、明日から仕事再開です。
今度は私が頑張る番ですね。
岡山からの帰途刺さったのが、意識せずに聴いてた錦戸亮さんの
『コノ世界ニサヨウナラ』
なんかグッと来た。
6年前、実家の母が倒れました。
独居だったので、倒れてから発見されるまでに3日かかったために、
回復の見込みはないと言われてからの7年です。
病院を退院した後、施設に入居していたのですが、
その母が、この21日息を引き取ったと連絡がありました。
75歳でした。
先週、もう長くないと連絡をもらっていたので、
週末に会う機会があったのは救いかもしれません。
久しぶりに会った母はずいぶんと細くなっていて、小さくなってました。
食べる量も以前ほどにはなくなっていて、むせることもあったとのこと。
私には弟がいるので、二人で話し合い、
母の元気な頃口にしていた言葉を実行することに決定し施設に伝えてから、
その時には持ち直していたので一旦帰宅したのですが、
その2日後でした。
母は、20年前に父(夫)を亡くした時から事あるごとに言われていたのが、
「無理やり生かそうとしないでほしい。自然に」
その言葉を預かっていた私は、弟と話し合い、
その遺志を実行して欲しいと、施設側に協力をお願いしました。
施設からも了承いただき、何も治療や処置(体位変換や痰の吸引はしてくれていました)を施さずに看取ってもらえました。
確かに、最初の急変時に病院に移送して適切な処置を施していれば、
もう少し時間稼ぎができた可能性は捨てきれません。
それでも、私達にはその選択肢はありませんでした。
今までさんざん痛い思いも苦しい思いも数え切れないほどしてきて、
最後の最後まで病院のお世話にならせたくなかった。
病院に行けば、治療を受けて一旦は回復できたでしょう。
それでも、
脳梗塞の後遺症で認知症を発症している母にとって、
それがすべてベストだとは思えなかったからです。
もういいんじゃない
それが私達の出した結論でした。
そもそも、7年前に倒れた時点で亡くなっていてもおかしくなかったのに、
今まで生きていてくれただけで奇跡なんだしと。
ただ、そんな母には、野望じゃないですけど、譲れない信念があって、
最後まで『人の役に立ちたい』と
献体の登録を行っていたのです。
これはもう20年前になります。
さっさと自分で申込みもしていて、子どもにも事後報告でしたし。
しかも、数年単位での事後報告ですからね。
献体する時の対応なんて、施設の人にも未知との遭遇みたいだったし、(施設初らしいので)
こっちも、知らんし。
だいぶ調べましたね。
もう、あっちこっち。
葬儀はできるけど、時間制限(大学病院までの搬送に)があるとか、
ちゃんと冷やしとかないとあかんとかなんとか。
で、兄弟で、葬儀はどうするって話になるでしょ。
でも、急になかなか動きが取れない。
姉弟二人の内どっちかが地元岡山に住んでいたならなんとかできたんだろうけど、
こっちは大阪、弟は佐賀県。
とりあえず駆けつけるだけで数時間のロス。
で、結局、母自体がバタバタするの嫌いだし、
ゆっくりな時間にしようとなり、
葬儀は行わず、そのまま施設から直接ともしび会(献体の施設)に引き渡す形になりました。
最後、ちゃんとお別れできる時間が取れたのも、
施設の人の図らいが大きく、感謝感謝です。
お見送りには、すごく多くの職員さんが母の遺体が運ばれるその場にいてくれて、
(多分ですが、その時施設にいた人全員じゃないかと思います)
みんなで送ってくれました。
なかには、涙を流してくれる方までいてくれて、
母は幸せ者だなあと、今になって思います。
(その時はそこまで気が回らなかったので)
今になってもまだ実感はありません。
葬儀云々ではなく、
それまであまり関わらなかったのが幸いしてるのかどうかは分かりませんが、
普通に生活してる分には実感がないんです。
でも、書類とか整理してると思わず感情が揺れます。
「この証明書まだ期限内やん」
「この手続きもうせんでいいんや」
などです。
本当なら、いや、生きてたら必要なものが
もう必要なくなったんだと思うと、
「ああ、もういないんや」
と、なるわけです。
そういえば、身内や施設の方以外で号泣してくれた方がいました。
6年前に倒れたところを発見してくれた母のご近所の仲良くしてくていた方です。
報告に訪れたところで、崩れそうになるように泣いてくれました。
(それに釣られて弟も号泣してましたが)
感謝です。
こんなに思ってくれていた人がいる母が羨ましいです。
母の口癖は表題です。
いつもなにかしてもらったとか、嬉しい知らせがあったとか、
なにかと口にしていたのが
しあわせ~
でした。
ただ、最後の最後まで自分で言いたかっただろうなあと思います。
結局施設の人には話せなくなってからしか行ってないので、
自分の口では伝えられなかったっていう後悔をしてるかもと思います。
でも、きっとその気持は伝わっていると思いました。
じゃないと、あんなに多くの人が目に涙を浮かべてくれるだろうかと、
ただの入所者のために。
とりあえず、明日から仕事再開です。
今度は私が頑張る番ですね。
岡山からの帰途刺さったのが、意識せずに聴いてた錦戸亮さんの
『コノ世界ニサヨウナラ』
なんかグッと来た。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます