アメリカ社会に詳しい人の話である。最近アメリカでも、FBなどで
発信する「今日食べたご飯」の情報に、疑問の声が出始めている
とのこと。そういう私も、なんどか載せている。そして「!」が付け
ば喜び、つかねば落ち込む、を繰り返している。これは虚しい!?
子供の頃、私は父の仕事の関係で、小学校を4回、中学校を2回
転校した。辞令が降りて1週間以内の転勤が義務づけられていた
ため、それこそ青天の霹靂だった。バタバタと友に別れを言って、
翌週は見も知らぬ町で、初対面の環境に放り込まれるのである。
学校の行き帰り、集団登校の列に混じって一人流れに身を任す。
雨の日など、開いた傘の先にぶら下がる、傘を巻く紐の先端の輪
が唯一の友達だった。零戦の操縦席に坐った気持ちで、丸の中に
敵機の照準を合わしバリバリと撃ち落とす。そんな妄想に浸った。
でも人の群れに混じっていれば、なにかしら温かみがあった気が
する。それは転校生を見る、興味本位の視線であったかも知れな
い。はたまた小奇麗な半ズボンと、ハイソックスにスニーカーという
鄙には稀なる姿への羨望、あるいは非難の眼差しであったかも。
しかし、そんな人の中の孤独感とSNSの中のそれは、似て非なる
ものである。それはなにかと今考えている。政治に係わる方々の
情報発信には、なにかその裏に胡散臭いものが感じられ、美人の
写真がついた基本データなしの友達依頼には、きな臭さが伴なう。
友達の友達は皆友達と思って発信すると、「勝手に送るな!」と
クレームがつく。では、なんのためのSNSなのかと憤ってしまう。
知りあいから、「SNSに疲れましたか?」とのMSGを拝領した。
だが疲労感の伴わない疲れは、やはり精神衛生上よろしくない。
その点、人が集うことは面白い。目を合わせて相手の気持ちを
忖度し、気持ちを整理して口に出してみる。精一杯気持ちを込め
れば、結果はどうあれ最後は心身共に疲労を感じる。相手が愛
する人であれば、この上もない。それが生きるということであろう。
蛇足ながら、昨年作った「生きる」は、そんな想いを綴った。
人は どうして生きるのだろう
夢のかなたの 万を超える
ともし火の 華やかさか
それとも 光りかがやく幻か
誰もが時を超えて
胸に 擁き 語りつぎ
生きて 生かされ 永久の世へ
その力こそ
The Something
Great for ever
人生すべからく幻ならば、志を見失うことなく、人の群れの
中にいて人に群れず、己の思いを伝えるべき人に伝え、道端
に咲く野菊の如く力強い一輪の花を冠してみたい。その為に
なにをすべきか、そんな事を想いつつ一杯やりたい。孤独も
また、楽しからずや。無論、好きな相手であれば、この上も
ないことは確かである。
三神工房
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