熊野での2日間は、あっという間に流れていった。同じ高校の
同級生の実家に投宿したのだが、彼の実家は網元の家で、
熊野灘沿いある集落の中でも、大きな屋敷だった。町自体が
狭いせいで庭のある一戸建てなどは望むべくもない。狭い路
地に面した長屋風の二階建てで、内装も豪勢なものであった。
なにが良いといって、二階の南側の部屋からは雄大な熊野灘
が一望できる。窓の外に少し出っ張った手摺に両手を預け、
額から顔から、胸一杯に浜風を頬張ると、この上もない感動に
出会ったりする。歴史のある町だけに古くから人が住んでいた
に違いないが、なにしろ紀伊半島の先っぽである。昭和34年
に紀勢線(国鉄)が全通するまでは、奈良や京都へ偏狭な道
で繋がる陸の孤島であったともいえる。しかし最初にこの地へ
辿り着いた人間は、雄大な海と、光と風に絆されて住みついた
に違いない。それほど人間の感性に訴えるものがある町だ。
私は、熊野灘で獲れたばかりの海の幸に舌鼓を打ち、腹一杯
の二日間だった。特に鰹のたたきは絶品。友に誘われ、朝の
6時に鬼が城近くへ行けば、大勢が束になって鰹の一本釣りを
やっていた。狭い湾の中に群れとして回遊する鰹を、堤防の
上からその背青を追いかけ、ここぞとばかりにしかけを放り投
げる。大の大人が右へ左へ右往左往すると、やがておおーと
いう掛け声と共に、はち切れんばかりに脂ののった鰹が宙へ
舞う。「ぱちっぱち」という音と共に白い防波堤の上に落ちると、
まるで背に火が付いたかのごとく、鰹はビリビリと震える。
釣った男は、竿を堤防へ預けるとすばやく手にタオルと包丁。
そしておもむろに暴れる鰹をタオルで抑えると、鰓に包丁を立
てる。その瞬間、鰹は死の断末魔であろう、鰹の全身が微動
する。タオルが血に染まる。ランニングシャツに、腹巻きとステ
テコの男は、利き腕の筋肉を大きく盛り上あげながら、戦利品
を抱きかかえる。その時の笑顔、満面の笑みを浮かべていた。
そんな光景が、あさあけの光の下で繰り広げられるのである。
堤防の上は、止めどない男の熱気に包まれていた。
こうやって熊野の日は過ぎ去っていった。明日は行程一番の
峠、矢の子峠越えが待っていると思いながら、二階の部屋で
横になった私は、日が暮れても聞こえてくる漁師町独特の
雰囲気を味わっていた。路地を歩く雪駄の音、その向こうで
暗闇の中で響く打ち寄せる波の音。目を瞑っていても、真っ
青なうねりが岸の近くで盛り上がり、それがピークを迎える寸
前、真っ白な波頭となって碁石の詰まったような七里御浜へ
打ち寄せるのが見えた。それは今も薄らと記憶の奥にある。
夏、夕暮れ、海、波、風、そして暮らす人々、なにものにも
代えがたい、青春の思い出であろう。
出発当日、国道まで見送ってくれた友に別れを告げ、私は
国道42号線を北上した。熊野の町が終わると、あとは絶壁
といってもおかしくはない山が近づいた。海岸沿いの国道は
標高800m以上ある矢の子峠へ向けて、一気に登りとなる。
私は気の遠くなるような森林を見上げながら、左手後方へ
広がる熊野の町に、後ろ髪を引かれる思いがした。もう二度
と来ることはない、とは思わなかった。必ず俺は戻ってくるの
ではないかという、暖かいものが心の中に湧き出ていた。
以下次号
三神工房