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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

「アゴのいる海」

2013-02-13 | 日記・エッセイ・コラム

Puboo公開、第8作「アゴのいる海」をアップした。

http://p.booklog.jp/

昭和49年、長崎の街は、恐らく史上かつてない賑わいを見せて
いた。丸山が完成し、料亭花月が創業したのが、1642年のこと
だから、約333年ほど経った歓楽街は、驚くほど刺激的だった。

思案橋の通りは人で溢れ、金曜日ともなれば丸山界隈にある
キャバレーでは競うように「Golden Show Time」が開催された。
バーブ佐竹、ピンカラ兄弟、青江三奈・・・と、当時の一流どころ。

中でも、主人公弘明のバイト先は、思案橋の目抜き通りにあり、
ホステス250名が所属、客は1000人が入った。フルオーケストラが
入るステージに、20-30人は踊れるダンスホール、広大な店だった。

階段状のボックス席が埋まると、ベテランのボーイが銀盆にビールを
満載して登場。下段に20本、中段に12本、上段に6本、たしか
そんな重ね。1本500gとして19kg、片手で持ち階段を降りた。

バイトとはいえ、20歳を過ぎたばかりの青年弘明に取っては、
めくるめくような毎日だった。そしてそこで出会った前座歌手。
ある意味、互いの幼さを補い合える、つましい恋の間柄だった。

やがてくる時の節目、否が応でも現実が、2人の前に立ちはだ
かり、怯み、脅え、目を逸らし、やがて取り返せない別れがくる。
青春の1ページ、酸っぱいというには、辛い現実となっていく。

弘明の青春の最後である。多分にマスターベーションの世界ながら、
歴史の間に埋もれさすには忍びない、長崎の良き時代を書き
こんだつもりである。同世代の琴線の一端にでも触れれば幸い。

三神工房


「天使の梯子」

2013-02-09 | 日記・エッセイ・コラム

電子書籍Pubooに、7作目となる愚作「天使の梯子」をアップした。
お陰様で、初日・二日で50回以上の閲覧数を数えている。

http://p.booklog.jp/

「天使の梯子」とは、厚く低く垂れこめた雲の切れ間から、日の光
が林立する様をいう。別名ヤコブの梯子とかレンブラント光線。
ヤコブの梯子は旧約聖書の話だが、船で使う縄梯子のことを、
ジャコブラダー(Jacobs ladder)というのは、これからきているに
違いない。きっと大航海時代の名残りであろうか。だがあれだけ
は、決して登りたくない。

「天使の梯子」という題名の小説は他にもある。(まだ読んでない)
「天使の梯子」の自然現象を、科学用語では「薄明光線」という。
たしかに内容そのものは薄命的なものだが、考えて、やめてた。
閲覧・ダウンロードいずれも無料にて、同題名もお許し頂きたい。

元の題名は「野母崎」だった。その後、地元の方から「のもんざき」
と呼ぶといわれ、改名してどこかの懸賞小説に応募した。まあ、
入賞しないので今こうやって書いている訳だが、気を入れて書い
ただけに、書いてからもう20年以上経つが自分には大切なもの。

小説は経験したことしか書けない、という人もいるが、この場合は、
ご推察にお任せする。

ただ1982年、NYのBarで独り座り、友人(アメリカインド人)の言葉を
信じて(俺でも美人を釣れるからお前も行け)と、何時間も金髪美
人を物色していた私を、「俺もあぶれた」とカラオケに誘った金髪!
アメリカ紳士との、多少酔っていたのであろう会話は今も忘れない。

「広島・長崎の原爆をどう思う?」
「あれは、もっと大勢の犠牲者を防ぐには、仕方がなかった」

私は、日本系のBankerであった彼に、訪日したら一度広島か長
崎の原爆記念館を訪ねろと言い、Thank youと握手して別れた。
あれから30年、きっと彼は訪日したであろう。結果は知らない。

だが、やはり戦争はいけない。豆粒ほどの島を巡って大の大人
がミサイルの照準を合わせておきながら「あれは通常レーダー」と
言って憚らない。もともと、国が買わなければ都が買うと言った
方も方だが、なにはともあれ戦争だけは絶対にしてはならない。

真っ暗な空から、真っ藍な海に、黄金色の日柱が立つとき、それ
はやはり「薄明光線」ではなく、「天使の梯子」であろう。生まれ来
る前に原爆病を背負わされ、人に神の存在を説いていくしか生き
ようのない人に、あの美しい光景を、誰が「薄明」と言えるものか。

私が、下手な小説を書く由縁は、どうもこの辺にありそうである。

三神工房


節分

2013-01-30 | 日記・エッセイ・コラム

2013年1月も、あっという間に晦日が過ぎ去ろうとしている。

昨日まで出張していた長崎は、もう来週後半から旧正月の
一大イベント”ランタン祭り”が始まり、街中が大なり小なり、
オレンジ色の灯に包まれる。例年になく寒い長崎は、きっと
雪花の中のランタンを拝めるに違いない。冬の風物詩だが、
どこかほろ苦い思い出が蘇えるのは、私だけだろうか。

12月1日に発売したCD、It’s the Noble Mekong Riverは、
カップリングの「生きる」が好評で、幽玄ながらどこか暖かい
表装の絵と相俟ってか、少しづつ売れている。まずは売れ
れば幸いながら、どこかまだ面映ゆいのである。

それは、楽曲の中の詩を担当した者としての喜びよりも、
大勢の人の思いが寄れば、こうやって楽しいことが可能に
なるという事実に、今更ながら青春の一時期の思い出を
垣間見ているのかも知れない。どうにも楽しいのである。

先だって長崎某局のラジオ番組で、件の「生きる」を流して
頂いた。誠に光栄なことながら、番組の中で三神工房の
名もご紹介下さった。今年は春から縁起が良い!と思うが、
出来れば誰よりも故郷で独りの老母に聞かせてやりたい。

やがて節分である。二日の日に、海神社でお祓いを受けた
お供えを事務所に飾り、翌三日の夕食で頂く。誰もいない
事務所で、「福は内、鬼は外」と連呼しながら、邪気を払う。
毎年のことながら声は小さく、どうにも気の弱い節分である。

子供の頃、寒い夜半にどてらの袖を振りながら、雨戸を少し
開け、「福は内、鬼は外」と、まるで線香花火の様な声を出し、
直ぐに戸を閉める父の姿が浮かぶ。「一回かな!」と、母に
言われ、しぶしぶもう一回開けてまた小声を放つ。(なんで
もっと男らしく!)と思ったものだが、今同じことをやっている。

節分、本当の巳年はこれからである。どうか幸多く難少ない、
そんな年になってほしいものである。

「おにわそと・ふくわうち。おにわそと・ふくわうち」(ピシャ)

三神工房


Christmas Charity Consert

2012-12-13 | 日記・エッセイ・コラム

12月10日(月)午後6時、長崎市内、旧香港上海銀行長崎支店、
記念ホールは、明星園の子供達19名の明るい声に包まれつつ、
コンサートは始まった。

建物は、耐震構造の補強工事のため、無機質な足場に囲まれ
ていた。また折からの寒波で、入口の扉が開くたび冷たい冷気
が流れ込む。それでも古い銀行の建物は燻銀の輝きを放ち、
ホールの板床は子供達の足音に合わせて、心地よい軋みの音
を奏でた。そのエネルギーの源は、幼い36の瞳が放つ希望の
光というか、生の輝きそのものに違いなかった。

明るい色のベストを着たバンマスが、ときおりギターの手を休め、
軽妙なトークを放つ。慣れない興奮に包まれたのか、子供の動き
が止まらない。それでも必死にバンマスの声を聞き、反応する。
それは健気で、もう自分がどこかへ捨ててしまった素直さだった。
19の頭がくるくる回り、互いに口を動かし、手振り身振り、意志の
疎通を図る。だが、どうしても動きがぎこちない。不自然だった。

理由は、明らかだった。カウンターの上のクリスマスツリー、輝く
色とりどりの電球、ステージを照らす大きな照明器具、居並ぶ
楽器の数々、そして腹に響くような巨大スピーカー。そんな中で、
彼らの気を集めて離さないのは、別にあった。それは、テーブル
の上に置かれたケンタッキーの紙袋。それは絶大なものだった。

プロの歌が続き、そして子供達の合唱。そして最後は、主催者の
挨拶と続いた。私は、言いだしっぺとして、総合プロデューサーと
して紹介され、前に立った。挨拶をして、用意した原稿と白壁に、
パワポの画面を投影した。だが私は「しまった」と思い、とたんに
絶望の淵に追い込まれていた。足元から気力が逃げていった。

私の用意した内容は、小学生には早すぎる。それは初手からの
想定であり、一般の観客をも意識したものだった。今年6月に、
長崎県北で見つかった、700年前の元寇船を皮切りに、大元の
皇帝を紹介し、以後に流れる男のロマンを話するつもりだった。

マルコポーロ・コロンブス・ザビエルと、命を掛けて旅に出て、
ひたすら中国の東海上に浮かぶ、黄金の島を目指した輩達。
彼らこそ、長崎出島400年の歴史の礎であり、人生の先達なの
である。愚作の歌詞「生きる」に示した、The Somthing Great
の原型なのである。これを伝え、彼らの50年先に期待をした。

しかし、私の目論見はケンタッキーに負けた。「生きる」の詩は、
生きた者の詩であり、これから生きる者の詩ではない。口一杯に
頬張る鶏肉の美味は、彼らの魂を燃焼させ、体全体にオーラを
形成していた。本当の「生きる」ということを、見せつけられた。
しかしその心の疲れは、どこかアンニュイなのだが、決して心地
悪いものではなかった。「これでいい」と、勝手に納得していた。

宴は盛況だった。霙混じりの中、夜の帳が降りて、銅座の通りに
人影も疎らな深夜、一人ホテルへ歩きながら、心を満たすほの
ぼのとしたなにかが、いつまでも消えなかった。どこかで自分が
「生きる」という詩を書ける歳月を経てきた、いう思いが浮かび、
それが歌になった喜びと共に、暗い夜空に星を見たようだった。
それは、古い星も、若い星も、それなりに輝くという発見だった。

7月に再び子供達と七夕を祝い、集い歌うことを夢見て、眠った。

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