昭和20年8月9日午前11時02分、アメリカ軍B29-BOCKS CAR
が投下した原子爆弾が、長崎市松山町上空約500mで炸裂した。
当時おおよそ24万人と言われた長崎市民の内、14.9万人の命
が奪われた。暑い木曜日の朝、街は一瞬にして地獄と化した。
原爆投下から68年の年月が過ぎたが、今も多くの人が原爆病で
苦しんでいる。その人生の苦しさは、想像を絶するものであろう。
幸いにして命を長らえた人々も、差別や区別といった、どうしよう
もなく切ない人間の業に晒され、苦しみが癒えることはないという。
現在、原爆病認定者への支援は行われているが、中には爆心地
の近くで被災・被曝したにも拘わらず、自ら名乗り出ていない人々
がいるという。その訳を聞くと、「なにもお上に縋ることでもない」と
老母が云いきるのだと、その息子さんから直に聞いたことがある。
もちろん、塗炭の苦しみが金で癒されることはない。しかし実際の
生活を考えれば、原爆病の認定を受ける受けないでは、途方もな
い差が生じたことであろう。この点為政者は心して法を考え、法の
元での平等を図るべく、更に血の通った行政を行うべきであろう。
我々も、先達の人々の気概というか、すべからく誇るべき日本人
の生き様として忘れてはならない。その根底にあるのは、人生を
諦めることなく、禅語にいう「任運自在」の境地なのではないか。
運を選ぶことは不可でも、己の生きざまは選べるとでもいおうか。
話は飛ぶが、隣国から出る悲鳴にも似た叫びは今や軋轢と化し、
いかに対処すべきか難問であろう。お国柄の違いとはいっても、
相手がある以上放置する訳にはいかない。夫婦喧嘩で済めば
良いが、刃傷沙汰にまで発展すれば、全ては無に帰してしまう。
前にも書いたが、昭和のある時、山口の県議会が維新100年を期
して、新しい関係を築こうと会津若松市へ打診をしたことがあった。
受けた会津は議論を尽くし、「100年で忘れるものか」と回答したと
いう。日本国内であってもしかり。受けた傷は底深いものである。
実際の外交は、偉い人達が英知を絞ってなされるものと信じるが、
まず己は、先達の生きざまを見習いながら、いかにして足るを知る
かである。運を天に任せるは良しとしても、どうやってあるがままに
生きてゆけば良いのか、未だ煩悩を断じるには程遠いのである。
三神工房