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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

長崎原爆忌

2013-08-07 | 日記・エッセイ・コラム

昭和20年8月9日午前11時02分、アメリカ軍B29-BOCKS CAR
が投下した原子爆弾が、長崎市松山町上空約500mで炸裂した。
当時おおよそ24万人と言われた長崎市民の内、14.9万人の命
が奪われた。暑い木曜日の朝、街は一瞬にして地獄と化した。

原爆投下から68年の年月が過ぎたが、今も多くの人が原爆病で
苦しんでいる。その人生の苦しさは、想像を絶するものであろう。
幸いにして命を長らえた人々も、差別や区別といった、どうしよう
もなく切ない人間の業に晒され、苦しみが癒えることはないという。

現在、原爆病認定者への支援は行われているが、中には爆心地
の近くで被災・被曝したにも拘わらず、自ら名乗り出ていない人々
がいるという。その訳を聞くと、「なにもお上に縋ることでもない」と
老母が云いきるのだと、その息子さんから直に聞いたことがある。

もちろん、塗炭の苦しみが金で癒されることはない。しかし実際の
生活を考えれば、原爆病の認定を受ける受けないでは、途方もな
い差が生じたことであろう。この点為政者は心して法を考え、法の
元での平等を図るべく、更に血の通った行政を行うべきであろう。

我々も、先達の人々の気概というか、すべからく誇るべき日本人
の生き様として忘れてはならない。その根底にあるのは、人生を
諦めることなく、禅語にいう「任運自在」の境地なのではないか。
運を選ぶことは不可でも、己の生きざまは選べるとでもいおうか。

話は飛ぶが、隣国から出る悲鳴にも似た叫びは今や軋轢と化し、
いかに対処すべきか難問であろう。お国柄の違いとはいっても、
相手がある以上放置する訳にはいかない。夫婦喧嘩で済めば
良いが、刃傷沙汰にまで発展すれば、全ては無に帰してしまう。

前にも書いたが、昭和のある時、山口の県議会が維新100年を期
して、新しい関係を築こうと会津若松市へ打診をしたことがあった。
受けた会津は議論を尽くし、「100年で忘れるものか」と回答したと
いう。日本国内であってもしかり。受けた傷は底深いものである。

実際の外交は、偉い人達が英知を絞ってなされるものと信じるが、
まず己は、先達の生きざまを見習いながら、いかにして足るを知る
かである。運を天に任せるは良しとしても、どうやってあるがままに
生きてゆけば良いのか、未だ煩悩を断じるには程遠いのである。

三神工房


蝉の一穴

2013-08-02 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のことである。午後客席で面談中、携帯が鳴った。断って
中座して掛け直した。すると「おたくの会社、電話もFAXも駄目
ですよ!」と言われた。思わず(なんで!?)と、思った次第。

まずは電話を切り、打合せのあと外へ出た。すると暑い!場所
は神戸元町の付近にいたのだが、酷暑。しかも蝉の奴が親の
仇と言わんばかりに鳴き叫び、まるで阿鼻叫喚の様相であった。

会社へ掛けると(・・・・・)確かに出ない。思いつくままスタッフの
携帯へ掛けると、INTERNETも駄目だという。早く某社へとなり、
そのあとしばらくして「光」電話回線の調査に人が入ったと連絡。

結果は午後9時、居残ってくれたスタッフから報告があり、内部の
点検は終ったものの復旧せず、翌朝9時から外の点検を行うと
のこと。いったいなにが!と思いつつ、昨晩は終ったのである。

今朝8時半、出社すると、すでにそれらしきプロのメンバーが3人、
会社の前の歩道に立っていた。横に伸縮式のアルミ梯子があり、
国道沿いの電柱に何本も走る電線の1本に立て掛けていた。

引き込み線の点検工事は約1時間ほどで終り、「光」は見事に
復旧した。やはり電話回線がないと、陸の孤島になってしまう。

そして「訳は?」になった。「なんで!?」との疑問に、プロは答えた。
「蝉が電線に卵を産もうとして、穴を開けて光が切れたのです」

明快だった。だが思ってもみない答えだった。「蟻の一穴」とは
聞いたことはある。だがまさか蝉が、技術の粋を集めた光回線
の被覆を破り、穴を開ける力があるとは、恐れ言った次第。

ここまで書いていて、私の後ろで蝉が「ジャジャ」と一鳴きした。
なにか言いたそうな、それでいて恨めしそうな音色に聞こえた。
きっと蝉が人の言葉を喋れたたら、こう言っているに違いない。

「苦節10年地中で生きながらえ、ようやく地上へ出たと思えば、
土はなく地は焼け、樹はなく、街にはみすぼらしい植木ばかり。
そんな中で、俺たちは恋をして子を成し、たちどころに躯と化す。
だが、数の割に樹の絶対数が少ないこの地で、ようやく見つけ
た幹に卵を産んだら、さっさと取り換えやがって、この恨み・・・」

「蝉の一穴」、さすがとしか言いようがない。生まれた限り、前に
進むしかないのであろう。誰にもそれを無駄と言う権利はない。
だがあの小さな体のどこにそんな力があるのか、不思議である。

三神工房


北欧の夏休み

2013-07-21 | 日記・エッセイ・コラム

このブログは仕事の愚痴に使うものではなく、またそうあっては
ならないと自覚してきた。しかし、あまりの理不尽!?にあって、
またこの激暑で脳内細胞の神経が切れた?のかも知れない。

具体的なことは憚られる。ただ船に関する仕事である。去る5月、
北欧のメーカーに部品を注文した。もともと4月の初めに発注して、
納期3カ月のところ、顧客の都合で遅れた。しかし6月の後半に
督促を始めて早1ヶ月が過ぎた。だがまだ出荷予定が決まらない。

毎週週末の金曜日にメイルを打ち、電話を掛ける。だが、その間
すでに3人がメイルの交信の最中(向こうでは午前中)に切れる!
そして虚しくサーバーから、次のような留守番メールが送られてくる。

【私は夏休みに入りました。3週間後に出ます。留守中は‥‥】

私は新しい担当者と一から話をせねばならなくなる。それが3回。

だがふと思うに、彼らの社会はそれで成り立っている。どれだけ
欧州の景気は悪い、といっても、人間としては豊かな社会を築い
ているのであろう。いったい日本と彼らと、どちらが裕福なのか。

彼らは3週間の間は、最初の1週間を仕事から家庭へ、次の1週
間はフルで家庭モードへ、そして最後の1週間は家庭から再び仕事
モードへ戻すための時間となるのだ。それが彼らの夏休みである。

今日は、朝から参議院選挙の投票へ行き、炎天下で汗を拭きな
がら、そんなことを考えた。昭和から平成へ、いったい我々は、
なにを目指してきたのか。本当に豊かな国とは、どんなものか。

家人の買い物につきあい、そして仕事場へ。なんとか頭を捻り、
なにがあっても「Hi」という能天気な前置詞で始まる彼のメイルへ、
水で濡らしたハンカチで額を冷やしながら、文章を書き、送った。

やはり日本は、このまま人口が減れば良い。そうすれば原発も
いらなくなる。日本列島を100年前の緑豊かな国にすれば良い。
海と山と川に、綺麗な水と空気があれば、きっと生きていける。

東京オリンピックは、世界中から老人を集め、都内の交通費を
無料に。そして年齢別競技をすれば良い。きっと60才以上は
日本人が金を独占するに違いない。世界初の高齢五輪となる。

夢想はこれくらいにして、仕事に戻ろうか・・・・。

今夜中には選挙の結果が出る。結果は予想通りであろう。
そして私は、来週の土日も、きっと働いていることであろう。

三神工房


西瓜・長崎

2013-07-14 | 日記・エッセイ・コラム

披露宴のスピーチの続きである。

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3年ほど前、新郎も新婦も参加して、伊勢志摩へ1泊2日で会社の
慰安旅行に行ったことがあります。2日目に伊勢神宮を参拝しまし
たが、神宮は今年10月、第62回の式年遷宮を迎えます。20年毎
の式年遷宮ですから、今回までに1200年以上続いている訳です。

今年5月には、出雲大社が60年に一度の式年遷宮を迎えました。
60年と言うのは苗木が一人前の木になるのに要する期間ですが、
伊勢神宮の20年と言うのは、親が子に子が孫に技を伝えることを
前提とした期間です。宮大工の技術もこうして伝承されています。

今回の遷宮に要する費用は550億円と言われています。その内、
350億は国の予算ですが、あとはいわゆる浄財です。こうして集ま
った資金を元に、ご本宮はもちろん様々な建物や橋そして神事に
要するあらゆる道具が、京都・奈良を中心に全国で製作されます。

私は三重出身ですので手前味噌になりますが、日本のもの造りの
伝統は伊勢を中心に継続されてきた訳です。その基本は「常若の
精神」です。常に清新を心がけ次世代に継続するということです。
我々ももの造りを標榜する以上、決して忘れてはなりません。

私も持てるものすべてを、次世代へ継承して参ります。新郎もそれ
を受け、是非次の世代に継承して下さい。結婚当初は色々あると
思います。しかし冒頭申し上げた通り、五重の塔も百年の間、色々
揺られて、その結果千数百年続く、礎を築くことになる訳です。

どうかお二人でしっかりとした家庭を築き、20年後、40年後、そして
60年後の式年遷宮をお迎え下さい。誠に、ご結婚おめでとうござい
ます。簡単ではございますが、お祝いの言葉とさせて頂きます。

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なんとか緊張の時間を終え、式は宴となっていった。おおよそ2時
間、笑いあり、涙ありの、本当に家庭的な祝宴となった。

外へ出ると、すでに日は西へ傾きつつも本当に暑かった。それから
社の人間と二人、中国からの来賓を車に乗せ一路西へ向かった。

昨年12月市内の養護学校の子供達を招待して、香港上海銀行で
チャリティーコンサートを行ったが、その時かの来賓も参加して下さった。
そして今回、同じ養護学校の子供達へなにか心ばかりの品を贈り
たいとの意向を受け、車には事前に大振りの西瓜を積んでいた。

午後4時過ぎ海沿いの養護学校へ到着。学校は、すでに各クラス毎
に夕食の準備に入っていた。当日は七夕ということもあって特別な
献立の様子。それでも数人の子供達が、持参した10個あまりの西
瓜を運ぼうと、玄関まで出てきてくれた。中に幼児がひとりいた。

「ポンポン、ポンポン、ねえ、ねえ、いい音がする・・・」

彼女は玄関に坐り込んで、西瓜を叩いていた。西瓜1個の重さは、
優に7キロはあったであろう。大人でも1個を運ぶのが精一杯。
私は彼女の両脇の西瓜に遠慮して他の1個を運んだ。玄関に戻る
と、もう彼女も西瓜も見当たらなかった。すべて運び終えていた。

ちょっと申し訳なかった。せめて彼女に1個でも残せば良かったと。
私はなにかを言いたい訳ではない。ただ、華やかな宴のあとに、
縁あって学校を訪ねた。来賓の申し出がなければ、きっと昼間の
酒に酔い、日暮れを待たず夜の街へ繰り出していたことであろう。

誠に世知辛い世の中である。だが七夕のチャリティーコンサートは、色々
あって見送ったが、なんとか年末には第2回のコンサートを開きたい、
いや開かねばならないと心に誓った次第である。

【チームカイト】、形ではなく心を入れねば、ただの大人の遊びの
集いに成り下がってしまう。そうしてはならないであろう。

こうして長崎の七夕の夜と、初めての4泊5日は終ったのである。

三神工房


七夕・長崎

2013-07-13 | 日記・エッセイ・コラム

7月7日(日)七夕の日、午後12時から、長崎市内老舗の某割烹
旅館で披露宴が行われた。近代的な式場とは違い、はんなりと
した雰囲気のロビーは、11時過ぎたころから来賓の方々で一杯。

式場は、木造旅館1階の奥の座敷で行われた。中庭に注ぐ夏の
熱い光線を横目に、赤い絨毯の敷かれた廊下を進み、ご両家の
控室へご挨拶。新郎の御父上とは同窓の5年後輩の仲で、数年
ぶりの再会。緊張した面持だったが、声を掛けると破顔一笑!

新婦は中国からの留学生で来日10年?以上。一人娘の祝宴に
来日したご両親も初めてのことで緊張。しかし母上の留袖姿に
は驚かされた。誠にお似合いであった。新婦は馬子にも衣装と
良く言ったもので花嫁衣装に角隠しがお似合い。(角出すな!)

式場は畳の上に円卓と小ぶりな椅子が整然と並べられ、どこか
異国情緒を醸し出す、長崎独特の和風洋式とでもいうべきか、
誠に毅然とした中にat Homeな、居心地の良い空間であった。
新郎の選択と聞いたが、凝った形式の中に覚悟が見て取れた。

式は、司会の挨拶を皮切りに女将の口上があり、まずは尾鰭と
いう料理から始まる。鯛の身と鰭が入った薄味の吸い物である。
この料理から、「話に尾鰭がつく」という言葉になったとか。要は、
「今日は鯛一匹を使っておもてなしを!」という、前口上なのだ。

卓袱料理は、17世紀初頭、華僑が高僧を福建から招き建てたと
される「長崎三福寺」(興福寺・宋福寺・福済寺)で賑わう街から
始まったのであろう、和中洋の三食を混合させ、質素に感じさせ
ながら誠に派手な料理である。長崎が作りだした文化の極みだ。

食前酒に梅酒、小菜・刺身・三品盛り(海・里・山)・中鉢・大鉢・
そして梅椀(お汁粉)と続く。豚の角煮も良かったが、中でも、
「ハトシ」が絶品。海老のすり身を食パンに挟み揚げたもの。
「ハ」が海老の中国語、「トシ」が「トースト」の訛りが発祥ときく。

話を戻すが、一応主賓として挨拶を仰せ使った。まずはスピーチ
の冒頭で、新郎新婦ならびにご両家にお祝いを申し述べた。
そしてお二人の出会いというか、なれそめらしき逸話をご披露。
そして(話が長いとの批判を気にして)、手短に本題へ入った。

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話は飛びますが、奈良に薬師寺というお寺があります。7世紀に
立てられた古いお寺ですが、そこには東塔と西塔と呼ばれる、
一対の五重の塔があります。東塔は千数百年前の建立ですが、
西塔は1980年頃に再建されたものです。当時有名な宮大工が
建てました。落成式の際、両方の塔を見た高名な僧侶が言った
そうです。「新しい西の方が少し高いですな」と。それに対して、
宮大工はこう言ったそうです。「百年経ったら同じになります」

(以下次号へつづく‥)