久しぶりに実家でお盆の3日間を過ごした。例年ならお盆を外し
墓参りに帰省するのが常であったが、今年は叔父の初盆に、
14日に津へ帰省。翌15日朝津市内で父の墓参を済ませたあと、
母の実家である松阪早馬瀬へ向かった。暑い長い1日となった。
早馬瀬村は松阪南部を流れる櫛田川南岸にあり、伊勢街道の
駅伝馬「早馬(はいま)」に名の由来があるという。小さい頃は、
夏休みとなれば母の実家へ行き、里山へ登り、櫛田川で泳ぎ、
祖母の畑で取れた、甘蔗木や西瓜や真桑瓜を頬張ったものだ。
それはともかく、実家でお昼をご馳走になり、久しぶりに親戚の
面々と歓談。午後3時、床の間を背に飾られた回転灯篭や精霊
棚、お供えなどを、親族で手分けしてお寺へ運ぶ。実家の裏に
ある寺まで歩いて数分だが、折からの酷暑の炎天下を運んだ。
親族も皆歳を取った。齢61となった私が若手の部類なのである。
実家では数年前祖父の50回忌を終えた。その時は亡くなった
叔父が差配した。祖母の葬儀も、その後の法事も叔父が無難に
務めてきた。叔父の初盆を迎え、その偉大さが今更ながら知れた。
午後6時半、寺の本堂で親族一同が集い法事が始まった。30年
近く和尚不在の寺に若い和尚が入り、叔父の法要が初めてだと
いう。だが暑い。合わす手に汗が滴り落ちる。開け放った本堂に
風は入るのだが蒸暑く、いたずらに蝋燭の火を消すばかりだった。
午後7時、本堂にずらりと並んだ座敷椅子が近在の方々で埋まり、
法事が始まる。ここから、近在の役頭が和尚に代わりご本尊様の
前に坐り、まずは念仏が始まる。私も昔の法事で何度か聞いたが
宗派も違い意味不明。叔母に経本を渡され、目で御経を追った。
午後8時、役頭が代わり西国三十三所の御詠歌が始まる。これも
御詠歌の本を借り目で追う。平仮名ばかりの五・七・五・七・七に
役頭を筆頭に、皆が独特の節回しで合唱となる。夜も深くなる。
私もすでに正座は諦め、胡坐となり、最後は空いた座敷椅子へ。
午後9時過ぎ、ようやく御詠歌終了。ここからが、私の出番である。
皆さんがお茶やお菓子で休息を取って頂く間に、私は祭壇からお
札を頂き、庫裏の方へ向かった。そこでまず懐中電灯を持ち、そし
て玄関で徐に長靴を履いた。この夜の為に買った長靴である。
本堂から境内に出た近在の方に即され、鉦を叩きながら寺を出る
役頭の後に続いた。村は夜の帳に包まれ、お盆のせいか旧道を
走る車もまばらである。やがて実家の横を通り旧道を左へ折れて
櫛田川の堤防へ。そこで私は随伴者と2人、河原へ降りて行った。
役頭は手にした鉦を叩き続け、後に続く村の方々を引きつれて、
櫛田橋の上へ向かった。私は背丈以上に伸びた河原の草木の
中を、轍の残った車道を下った。そして河原から川のきわへ行き、
浅瀬を探した。昼下見をしたのだが、夜の景観は一変していた。
軟らかい水際の砂に足を取られながら、ようやく浅瀬を探し当て、
随伴者に声を掛ける。すると彼は手にした懐中電灯を橋の上の
面々に振った。光が届き、歩みが止まるのが見て取れた。それを
見て私は「やります」と声を発し、徐に手にしたお札を川へ投げた。
薄くて軽い短冊は、まるで身をくの字に曲げるように宙を舞うと、
やがてひらひらと川面に浮かんだ。私は慌てて手を合わせ祈る。
事前に考えた言葉も浮かばず、ただ一念で拝んだ。やがて傍らと
代わり、預けていた懐中電灯を受取り、再び川面の札を照らした。
札はゆっくりと動きながら、やがてはっきりと舳先を川中へ向けた。
これが見納めと思った。再び手を合わした。手にした懐中電灯が
邪魔になるのだが、必死で手を合わした。そして目を瞑ったまま
身を翻し河原に上がった。水に浸かった長靴がやけに重かった。
・・・・・
これまで早馬瀬で行われてきた灯篭流しは、川下の村の反対に
より取りやめ、今年からお札となったという。従前であれば、橋の
上から流れゆく灯篭の火を皆で追った。祖母の時も、そうだった。
「おばあちゃん、まだ行きたくないんや」と泣く母の声が耳に残る。
こうやって残った者が、亡くなった人の生前を偲び、人は送られて
いく。そしていつか自分も流れていくと、改めて覚悟するのだろう。
だが今は合わした手の感触と靴の重さだけで十分だと思いつつ、
一人冷えた缶ビールを手にしたのは、深夜の12時を過ぎていた。
三神工房