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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

私信

2013-10-17 | 日記・エッセイ・コラム

【私信】:私用の、個人的な手紙。また、秘密の通信。

考えてみれば懐かしい言葉です。いつから私信を書いていないで
しょう。昔(昭和)むさ苦しい下宿で独り、先も考えずに生きていた
ころ、身も心も蘇えるような手紙を受け取ったこともありました。

「なぜあなたは連休に帰ってこないの‥」確か、そんな文面でした。
正月共に新年を寿ぎ、きっと春休みには帰るといいながら、5月の
連休も帰らず、そしてもう夏には、彼女の存在も忘れていました。

最近、もう一つ懐かしい言葉を聞きました。「立派」という言葉です。
確か車の中で、ラジオから聞いたのです。もともとは自分の一派を
立てる事だそうですが、「立派になったねえ」とは久しい言葉です。

きっと立派になっていないから、そう感じるのでしょう。でも、結構、
お陰様で元気です。「誰も殺しには来ないだろう」と思いつつ、TV
のサスペンスを堪能したりしてます。現実結構世知辛のですが。

SNSでまたつまずきました。結構楽しんでいた電子書籍の編集が
上手く行かず、問い合わせたのですが埒があかず、一旦退会した
のですが、今も作品は、虚ろな宙を彷徨って掲示されています。

それは「私信」ではないので、何か返事を下さった良いのですが、
いまだに無しのつぶてです。腹が立ちます。でも、元々なかった
ものと思えば、まあそんなもんかSNSは‥として酒の肴にします。

東京の可愛い女優志望の高校生が殺されました。まだ18歳です。
彼女FBで京都の男と知りあいつきあい殺されました。昨日のTV
「相棒」ではないですが言葉になりません。人も言葉も虚ろです。

某週刊誌によれば、彼女の色々な写真や動画が電子宇宙を飛び
回っているそうです。正直世も末かと思います。それは絶対に愛で
はないのでしょう。本当の愛を持つ親御さんに、あまりに酷です。

ご冥福を祈ります。いつか皆行くのですが問題はその行き方です。
虚宙を彷徨って60億人を相手にするか、はたまた身の周りの人を
今一度見直してみるか、そう思いながら今、私信を書いています。

三神工房


FBをやめて・・・・・

2013-09-23 | 日記・エッセイ・コラム

先週、Face Bookの閉鎖手続きを行った。

これでGoogle+も、Twitterもやめ、残るはこのブログだけである。
やめて、少し寂しいという思いはなく、なにか一抹の不安が残る。
これで世界とのつながりがなくなった、ということか。いやもともと
なかったものだけに、今更ながらSNSの世界の不思議ではある。

今月、突然の別れがあった。数年前からの付き合いであり、3年
前からはソウル駐在として活躍をして下さった朴氏が、急逝した。
韓国商社で東京と中国で駐在経験があり、頼りになった人だった。
8月に短期入院で抗癌剤を打つといって、間もない出来事だった。

ソウル市江南区の病院へ行き、その斎場で最後の別れとなった。
家族の前で献花させて頂き、ご冥福を祈り、ご挨拶を申し上げた。
日本語の堪能な次男が喪主を務めておられた。深く悲しむ私に、
「父は天国へ行きました。家族はいつかまた天国で父に会えると
信じています。だからそんなに悲しまないで下さい。」と言った。

私は一瞬返す言葉がなかった。ただ「お父さんは君にバトンタッチ
して行かれた。だからお母さんと他の家族を君が守って下さい」
と言った。どこか朴氏の代弁のようであり、そして天国の朴氏に
「この息子がいれば後は心配ない」と声を掛けた様な気がする。

さて、私はバトンをどうやって渡していくか、朴氏の生き様を想い
出しながら、当面苦悩することであろう。まずは毎日をしっかりと
生きて、彼に負けぬよう、第4コーナーへ入ろうかと思っている。

朴氏、享年59歳。心からご冥福を祈る。

三神工房


「風立ちぬ」

2013-09-02 | 日記・エッセイ・コラム

8月31日(土)所用で長崎に泊まったが、昼の空き時間を使って
映画「風立ちぬ」を観た。日曜日に神戸へ戻り、夜、宮崎駿氏の
引退を聞いた。過去に前言を翻したこともある、という楽観論も
あるが、どこか虚しさを感じた。今度は本当ではないか、と思う。

原作の「風立ちぬ」(堀辰雄)は、昭和2桁の時代の作品である。
その点、1世代あるいは2世代上の方々の思い出深き作品であり、
そこに零戦の生みの親である、堀越二郎氏の生き様を重ねた物
語である。夫々の評判通り、過去の宮崎作品とはかなり異なる。

私の好きな作家、司馬遼太郎氏の晩年、その作風が変わったと
思ったことがある。確か週刊朝日の連載で、信長ゆかりの土地の
探訪紀行が絶筆であったと思うが、どこか同じ種類の香りを感じ、
映画を観ていた時から、どうも最後ではないか、とさえ思っていた。

日曜日の復路で、素人なりに思うまま、映画の主たる感想に心を
巡らしながら、何年ぶりかに長崎本線のJRかもめに揺られた。
1つは原作の「風立ちぬ いざ生きめやも」から、副題でもある、
「生きねば」の呼掛けが確かに届いた。(詩の解釈は諸説あるが)

またもう1つは、青年堀越二郎をして言わしめる、「美しいものを
美しく」という設計屋の原点を確認していることであろう。全編に
イタリア人設計家カプローニを登場させ、二郎との夢交信が続く。
メルヘンチックに仕上げてはいるが、その背景は第1次大戦である。

映画が進むに連れ、突然関東大震災の地獄を事細かに表わし、
そして大陸の戦争から第2次大戦への移り変わり。航空技術を
教わったドイツの風景も時代を感じさせ、スパイとの出会い、そして
 
労咳で苦しむ最愛の人との一時。全編、背景に暗い影が流れる。

しかし全編を通して変わらない、二郎の明るさ、ひょうきんな声、
そして零ファイターへ至る機能美を、これでもかこれでもかと見せる。
お隣の国では、「零戦」を書く以上、彼は軍国主義だとの評判が
出たらしいが、それは浅はかであろう。全編明らかに反戦である。

最後に感じたことは、司馬氏と同じ、次世代へのメッセージであろう。
コントロールの効かない原発を持ちながら、事故の責任も放置して、
海外へ売ろうとする政府。3400万円の資金が手当て出来ずに、
ツシマヤマネコの棲む、原生林を競売に掛けるしかない地方自治体。

「美しいものを美しく」との信念をして技術屋が作り上げた、零戦、
戦艦大和、伊号潜水艦等は、すべて海の藻屑と消えてしまい、
国は焦土と化し、そして全ての美をリセットしてしまったのかも。
映画は零が宙を舞い、やがて空高く飛ぶ鶴の群れ如く、で終る。

どこかで「もう二度と同じ過ちをするな」という声が聞こえた。でも、
どうすれば良いのか。己の未熟さばかりを感じたのである。だが、
台風一過、前線の影響で荒れる外の風景を、かもめの車窓から
ぼーと見ながら、でも心はどこかほっとして暖かかったのである。

作者の心が少しでも理解出来れば、見る者は楽しい。作品とは、
こうしたものなのであろう。そこへ辿りつくには尋常でない努力と
胆力が要る。だがそれもいつか限界を迎え、やがて淘汰される。
故に引退もやむなし。だが決して「風」が止むことはないだろう。

三神工房


断舎利

2013-08-23 | 日記・エッセイ・コラム

TWITTERを止めた。

「そろそろ消えます。38人の方々、ありがとうございました。」
そう書いて消した。来月の末には「永遠に抹消」されるらしい。

SNS自体それはそれで良いのだが、どうも言葉が乱暴すぎる。
マニュアルで抹消を探して消したのだが、とどのつまり「永遠」
に消えて、2度と同じドメインは使えません、などと書いてある。
恐らく英語の直訳だろう。映画の邦題の如く昭和は遠くなった。

・・・・・・・・・・

今日も会社近くで昼食を取った。暑い盛り、買い物をして地下へ
行き、大阪では有名な某中華系の店に入った。店はほぼ満席。
2人掛けの奥に坐り、対面式のシートと奥のガラス張りの厨房
を望む。女性店員が間髪を入れず水と箸を置く。私も即注文。

しばし待つ間、日経を読む。だが度入サングラスのせいで、すぐに
ピントが合わない。(いやー歳だ)という時代は、すでに超えた。
読み飛ばしながらも、耳は店の喧騒に包まれ、加えて老夫人の
疳高い声で鼓膜が捻じれる。まるで玩具の楽団の中にいるよう。

「ばあさん、うるさい、もうちょっと声を落として喋れ!」と、心の
中の誰かが言う。「昼の忙しい中、ラーメン一杯でいつまで粘るん
や」と、言葉の塊が喉仏を押し上げる。どうもストレスか、いや、
根っからの性分が出ているのか、まあ両方であろうと納得する。

新聞を諦めて(現世の記事より目の前の移ろいが面白い!)、
あたらめて周りの風景を見まわす。すると、驚いたことに、いや
今更ながらまるで養老院である。左隣、その向こう、正面、その
左、すべて御婦人であり、概ね1名を除き、年上ばかりだった。

それでも奥に空席があるのだろう、次から次へと千客万来なの
だが、それがすべて老人ばかりなのである。まあ当然と言えば
当然であろう。それだけ日本が、老人国家になったのだから。
しかしその環境は緑のない空のない、ビルの中の地下である。

・・・・・・・・・・

断舎利とはヨガを起点とする言葉だそうだ。入る不要な物を断ち、
家にある不要なものを捨てる。そして、物への執着から離れる。
故にまずは身の周りの、不要なものを捨てようと、もがいている。
さもなくば、己の身自体が世間から断たれ、家からも捨てられる。

そう思って「捨」の道を探れば、「一度消したら永遠に抹消する」
これはまるで姥捨て山の沙汰のようである。これが今の現実と
すれば、やはり捨てるべきであろう。戦後に作り続けてきた橋、
道路、トンネル等など、すべてが崩壊しつつあるように、である。

だが今更「老子」でもなかろう。もっと生臭い生身の人間である。
すべて無に帰するなら、それも良かろう。それまで目一杯勝負
してやろうじゃないか!と、心勇ましく、小銭を払って店を出た。
要は、腹が減っていたのか、これがいつもの昼食風景である。

三神工房


松阪早馬瀬 灯篭流し

2013-08-17 | 日記・エッセイ・コラム

久しぶりに実家でお盆の3日間を過ごした。例年ならお盆を外し
墓参りに帰省するのが常であったが、今年は叔父の初盆に、
14日に津へ帰省。翌15日朝津市内で父の墓参を済ませたあと、
母の実家である松阪早馬瀬へ向かった。暑い長い1日となった。

早馬瀬村は松阪南部を流れる櫛田川南岸にあり、伊勢街道の
駅伝馬「早馬(はいま)」に名の由来があるという。小さい頃は、
夏休みとなれば母の実家へ行き、里山へ登り、櫛田川で泳ぎ、
祖母の畑で取れた、甘蔗木や西瓜や真桑瓜を頬張ったものだ。

それはともかく、実家でお昼をご馳走になり、久しぶりに親戚の
面々と歓談。午後3時、床の間を背に飾られた回転灯篭や精霊
棚、お供えなどを、親族で手分けしてお寺へ運ぶ。実家の裏に
ある寺まで歩いて数分だが、折からの酷暑の炎天下を運んだ。

親族も皆歳を取った。齢61となった私が若手の部類なのである。
実家では数年前祖父の50回忌を終えた。その時は亡くなった
叔父が差配した。祖母の葬儀も、その後の法事も叔父が無難に
務めてきた。叔父の初盆を迎え、その偉大さが今更ながら知れた。

午後6時半、寺の本堂で親族一同が集い法事が始まった。30年
近く和尚不在の寺に若い和尚が入り、叔父の法要が初めてだと
いう。だが暑い。合わす手に汗が滴り落ちる。開け放った本堂に
風は入るのだが蒸暑く、いたずらに蝋燭の火を消すばかりだった。

午後7時、本堂にずらりと並んだ座敷椅子が近在の方々で埋まり、
法事が始まる。ここから、近在の役頭が和尚に代わりご本尊様の
前に坐り、まずは念仏が始まる。私も昔の法事で何度か聞いたが
宗派も違い意味不明。叔母に経本を渡され、目で御経を追った。

午後8時、役頭が代わり西国三十三所の御詠歌が始まる。これも
御詠歌の本を借り目で追う。平仮名ばかりの五・七・五・七・七に
役頭を筆頭に、皆が独特の節回しで合唱となる。夜も深くなる。
私もすでに正座は諦め、胡坐となり、最後は空いた座敷椅子へ。

午後9時過ぎ、ようやく御詠歌終了。ここからが、私の出番である。
皆さんがお茶やお菓子で休息を取って頂く間に、私は祭壇からお
札を頂き、庫裏の方へ向かった。そこでまず懐中電灯を持ち、そし
て玄関で徐に長靴を履いた。この夜の為に買った長靴である。

本堂から境内に出た近在の方に即され、鉦を叩きながら寺を出る
役頭の後に続いた。村は夜の帳に包まれ、お盆のせいか旧道を
走る車もまばらである。やがて実家の横を通り旧道を左へ折れて
櫛田川の堤防へ。そこで私は随伴者と2人、河原へ降りて行った。

役頭は手にした鉦を叩き続け、後に続く村の方々を引きつれて、
櫛田橋の上へ向かった。私は背丈以上に伸びた河原の草木の
中を、轍の残った車道を下った。そして河原から川のきわへ行き、
浅瀬を探した。昼下見をしたのだが、夜の景観は一変していた。

軟らかい水際の砂に足を取られながら、ようやく浅瀬を探し当て、
随伴者に声を掛ける。すると彼は手にした懐中電灯を橋の上の
面々に振った。光が届き、歩みが止まるのが見て取れた。それを
見て私は「やります」と声を発し、徐に手にしたお札を川へ投げた。

薄くて軽い短冊は、まるで身をくの字に曲げるように宙を舞うと、
やがてひらひらと川面に浮かんだ。私は慌てて手を合わせ祈る。
事前に考えた言葉も浮かばず、ただ一念で拝んだ。やがて傍らと
代わり、預けていた懐中電灯を受取り、再び川面の札を照らした。

札はゆっくりと動きながら、やがてはっきりと舳先を川中へ向けた。
これが見納めと思った。再び手を合わした。手にした懐中電灯が
邪魔になるのだが、必死で手を合わした。そして目を瞑ったまま
身を翻し河原に上がった。水に浸かった長靴がやけに重かった。

・・・・・

これまで早馬瀬で行われてきた灯篭流しは、川下の村の反対に
より取りやめ、今年からお札となったという。従前であれば、橋の
上から流れゆく灯篭の火を皆で追った。祖母の時も、そうだった。
「おばあちゃん、まだ行きたくないんや」と泣く母の声が耳に残る。

こうやって残った者が、亡くなった人の生前を偲び、人は送られて
いく。そしていつか自分も流れていくと、改めて覚悟するのだろう。
だが今は合わした手の感触と靴の重さだけで十分だと思いつつ、
一人冷えた缶ビールを手にしたのは、深夜の12時を過ぎていた。

三神工房