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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

「春本番」

2014-04-06 | 日記・エッセイ・コラム

4月1日と2日長崎へ行き、3日から韓国釜山へ。
久しぶりの釜山、空港から市内へ桜満開の中、帰国する5日は、
花見の家族連れか、幹線道路は車で溢れていた。

釜山市内、某旧市街、生きた蛸料理は残酷とかでなくなったが、
海鮮料理はボリューム満点。持参した「久保田」が奏功して、
日韓両国の皆で、楽しい時間を過ごせた。

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到着した昼は「キムチチゲ」、夜は「焼き肉」、翌日お昼は、
「ソーロンタン」夜は上記の「海鮮鍋」、最終日のお昼は、
「フグ鍋」と、大いにカロリー過多。ただ今朝の体重計測の
結果は「セーフ!」。肉も頂いたが、共に食べる春野菜!
キャベツ、玉ねぎ、ニラモドキ、大蒜等など、至って健康!
  

(つづく‥)


神戸三宮界隈

2014-03-08 | 日記・エッセイ・コラム

3月7日金曜日、所用あり、久しぶりに三宮まで出た。街は生憎
の雪模様。折から冷たい六甲降ろしに見舞われた。それでも春
の嵐、まだ心に余裕があるのか目的地まで歩いてみようとした。

駅から海の方へ向かって歩き、国際会館から市役所の方へ渡る
横断歩道で、北向きに一葉、撮ってみた。寒空の下、それでも花
壇の花が健気に咲いている。紅白寄り添って、共に暖を取る如く。

東北の3.11が近づくにつれ、地元紙には阪神淡路の記事も出
ている。あれからもう19年の月日が流れた。思い起こせば、震災
の三日後、この地に立ったあの日のことは、今でも忘れやしない。

そごうは半壊、市役所は二階が拉げ、民間のビルが倒れ道路を
占拠していた。自転車で舞子から須磨を通り、兵庫の惨状を見て
いただけに、もはや驚く前に、己の背中に走る戦慄に脅えていた。

それでも街は見事に復興している。だが、あの時、共に修羅場を
潜った人々も、多くが初老を迎え、中には故人となった人もいる。
時は流れ、世は移ろい、自ずと生きる人々も入れ替わってしまう。

でも、神戸の街には、雪の中でも着飾ってWindow Shoppingに
興じる人がいる。お揃いで洒落たベレー帽を被り、歩道を闊歩す
る学生風の二人もいる。そこには神戸がある。神戸の人がいる。

旧居留地には、世界中のブランドが並び、大きなビルが聳える。
歩道は広く、また1階と2階を開けてビルの下の通りを提供する
民間の建物が続く。そんな所も、神戸ならではの街並であろう。

垂水という、街外れに住むものであっても、神戸に住んで良かっ
たと思わせるものがある。他所者ではあるが、もう32年も住めば、
神戸っ子、いや神戸人と呼ばれても許される!?と思ってみたり。

そんなことを考えながら、やがて海が見える通りへ出ていった。

三神工房

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商いの矛盾

2014-03-03 | 日記・エッセイ・コラム

今日のお昼、買い物があり街に出た。いつも行くドラックストアへ。
街はぶり返した寒さに、老若男女が背を丸めて歩く。しかし秋から
冬へ向かう季節と違い、こころもちみんなの顔が明るいような。

流れ来る人込みを縫いながら店へ向かうと、商店街の角地の空き
店舗が開店したらしく年末のような人だかり。見ると、なんとそこも
ドラッグストア!いつも行く店の鼻の先である。どうも世知辛い。

既存店の店員が、新店舗の目の前の歩道に立ち、5%引き!を
大声で連呼。まるで今から戦が始まる、いや戦場そのもの様相。
激安の競い合い、お陰でレジの前は長蛇。私は買うのを諦めた。

週末の番組で、韓国ソウルの街で海苔を買った日本人が、その
あまりの価格の高さを訴えたところ、空港で差額を返してくれた、
てな話があった。政府が商いの暴利の補填を行っているという。

商いの鉄則として、価格は安いに越したことはない。だがあまり
デフレを長々とやっていたお陰で、頑張って頑張って安売りして、
最後は競争に負けて職を失う、というのが日本の現状である。

日本では物を安く売って競争に負けても、罪にはならない。韓国
では、暴利を貪っても(場合にもよるが)客の差損は政府が見る。
これは矛盾!?いや、どうも矛と盾の中身が違うような気がする。

今度韓国へ行ったら、もう一度矛と盾の意味を考えてみたい。
両国のボタンの掛け違いは、どうもこの辺にあるのではないか。
そんなことを考えながら、短いお昼を終え、仕事に戻った次第。

ある意味平和な時代である。今朝の「ごちそうさん」でもあるが、
戦争は、どんな理屈があっても二度とやってはならない。世界は
もう20世紀の轍は踏まないと思うが、またどうも欧州がきな臭い。

戦争を回避出来るなら、矛が盾でも、盾が矛でも、かまやしない。

三神工房


桂枝雀

2014-03-01 | 日記・エッセイ・コラム

最近本が読めなくなった。最初は神戸長崎の出張をJRからSKYに
代えたせいだとしていたが、実はそうではない。30代後半に出た、
老眼を回復運動で乗り越え0.03の視力も0.4までになったが、スマホ
の画面に抗えず遠近両用に代えて三年。あれほど疲れを知らなか
った目も、今では文庫本の文字を揺れの中で追うことが辛い。

新幹線で小説に没頭し、降りるべき駅を忘れた頃が懐かしい。
司馬遼太郎・藤沢周平・松本清張・海音寺潮五郎・山本周五郎、
遠藤周作・新田次郎・石川達三・獅子文六・城山三郎・五木寛之、
吉村明・今野敏・浅田次郎・津本陽・西木正明・水上勉・清水一行、
佐々木譲・真保祐一・真山仁・宮本輝・山崎豊子・横山秀雄。

好きな作家を並べてみると、どうも偏った読み手と知れるのだが、
10代に読んだ、夏目漱石・芥川龍之介・吉川栄治・中野重治と、
初手から雑穀米のような面もあり、さもありなんと思う次第。だが
昭和50年に会社勤めを始め、はや40年を超える出張族としては、
本と出会い本当に幸せな時を得た。故に、今も本は手放せない。

だがどうやら寝食を忘れて本を読む季節は、終りを迎えつつある。
筋を追い場面を巡らせ、主人公になったつもりで文字を追うよりも、
書かれた内容に感心しつつ、首の疲れを感じてふと眼を上ると、
雲仙の頂きから大村の海が見えた時、至福を感じるのである。

本に没頭出来ないと感じてから、本に代わるなにかを探してきた。
そして今、ようやく新しいものに出会った。それは落語である。
あるTV番組で桂枝雀のドキュメンタリーを見てCDを買った。それを車
で聞き、もっと聞きたくなり、初めて安いウォークマンを買った。パソコンで
CDを取込み、空港の待ち時間に聞いたりしている。これが楽しい。

桂枝雀は1939年生まれ。生きていれば75歳。1999年自らの命を
立った。うつ病に苦しんだ人生である。病気から逃れるためキャラを
変貌させ、見事な芸風を造り上げた。そして万人に受けた。だが、
結果的に仮面を被った芸は、自らの命を削って醸し出していた。
聞いている話は仮面の下のピエロの如く、それは派手な芸である。

自らを滅ぼすであろうと知りつつ己を抑えて芸に勤しみ、出来上が
った別の己と葛藤して、最後は己の命を捨てた。だが、彼の造った
話は彼でなければ成しえなかった芸であり、それは日本刀の如く
今も燻銀の光を放っている。その刃は、人に見せる為に造られた
のではなく、幾多の修羅場を超えて出来た、正に名刀なのである。

だがひとつ困ったことがある。本を読み泣くことはあっても、あまり
笑うことはない。車で枝雀の話を聞いていると、我を忘れて笑って
しまう。高速ならまだしも一般道では対向車線のご仁が訝しがる。
空港で一人笑おうものなら、やはりまずい。だが当分やめられそう
にない。今、月に何度か、アマゾンのお世話になっているのである。

三神工房


男の一生

2014-02-07 | 日記・エッセイ・コラム

遠藤周作著「男の一生」を読んだ。
(初出1990年/2014年1月日経文芸文庫発行)

副題が面白い。
上巻:信長の妻に恋した男、下巻:秀吉を天下人にした男。

主人公は、前野将右衛門。木曽川で生まれ、蜂須賀小六と共に
豊臣秀吉に仕え、信長の天下布武を支えた川並集である。名は、
小六の陰に隠れ、また不運な最後により、あまり有名ではない。

小六は先に死に、理不尽な秀吉の秀次に対する勘気の煽りを
被ってしまった。これも運命、といってしまえばそれまでだが、
庶民の分際から見れば、あまりにめくるめく人生には違いない。

なぜ今この本が文庫本として発刊されたか。これに興味を持つ。
人は老いる。天下を取るほどの男が、いや取るほどの男だけに、
その老害は恐ろしい。自分にまつわる人の心が読めなくなる。

 

今朝のNHK朝ドラ。いつも出がけに歯を磨きつつ、はすかいで
見たりするのだが、そこにもひとつの男の一生が描かれている。
出兵した主人公の幼なじみが病気で戻る。今でいうPTSDか。

食が細り、彼は何も受け付けない。主題がごちそうさんだけに、
主人公はなんやかんや与える。それを見ていた長男が、どうせ
元気になってもまた戦争へ行って死ぬ。ならこのまま死なせと。

主人公曰く、死ぬのは皆同じ。なら、私はなんの為に一所懸命
おさんどんをするのやと叫ぶ。正論である。ただ甲子園の夢を
断たれた青年にとっては、やはり厭戦気分を払拭は出来ない。

 

「戦争が悪い」とは、すぐに誰かが言う。しかし、今の日本でも、
為政者は国民の何割かに選ばれ、それでも大きなベクトルを
自分で握るために、手練手管を使い政権を維持しようとする。

今でさえそうである。だからあの時代、庶民に選択の余地など
ない。戦地へ行って「殺せません」と言えば、自分が殺される。
その苦難の時代を経て、今の時代があることに疑念はない。

戦争は不合理である。守るために武器がいる。武器を持てば
使う。馬鹿な男の本性である。だが徒手空拳で宝を守り、厭戦
気分は捨て、決して負けぬという覚悟さえあれば、ではないか。

覚悟とは己の惚れた宝の為なら死ねる、なのか。はたして家族
を根絶やしにされた将右衛門、実際最後に何を思ったのか‥。
どうやら何の為に死ぬのか、それを考えるのが男の一生らしい。

三神工房