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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

五大新聞

2014-08-21 | 日記・エッセイ・コラム

もう50年を超えるであろうか、物心ついてから毎朝見ていた新聞
をやめた。実際まだ今は配達されているが、期限がくれば完了。
戦前前後通じての5大新聞の1社から地方紙へ代えた。もちろん、
仕事の手前他の5大新聞は読むが、毎朝手にするものが変わる。

政治的な事は正直書きたくない。色々あるが、己のブログに書く意
味が分からないので書かない。ブログは毎日の出来事から感じた
事を不特定多数に書きながら、実は見知った顔を想い書く事が
常である。自分の見知った人と政治の話をすることは、まずない。

なぜやめたかを書くと長くなり、政治的なことになるので、やめる。
しかし、1885年に福沢諭吉が「脱亜論」を書いたのも5大新聞の
1社であったという。よく脱亜入欧と言われるが、それは福沢論と
真逆の話であり、彼のアジアに対する思いは正に今論ずべきかも。

何度もアジアの国々を行き来する立場からすれば、なぜこれほど
互いの意見にギャップがあるのか分からない。もちろん新聞記事に
自分の周りの事が記されるのはまれで、広島の災害についても、
神戸の地震と同様、他所からすれば他所事。しかし現実である。

だが新聞は記事に責任を持ち、誤りがあればTOPが謝り襟を正
すのがまともな大人であろう。アジアの事を想う話を脱亜入欧に変
えてアジア蔑視を助長し戦争に向かった戦前と、老人の戯言を記事
にして子供が大人になった頃に訂正する今。何も変わっていない。

国を変えようと幕府を滅ぼし、更に東北の雄を根こそぎ滅ぼし、
100年経って仲直りしようと言った県が「100年で忘れるか」と、
やられた県議会全員一致で拒絶されたのは、もう30年程前か。
事ほど左様にやった方は忘れ、やられた方は決して忘れない。

その意味では日本がアジアで何をして、そしてこれからすべき事
を論じる時であろう。恐らく新聞は既に賞味期限が切れ、政治と
事件の後付け若者の活躍の切売の為のチラシと化し、便所紙の
代用にもならない。「ペンは刀より強し」やはり死語に違いない。

三神工房


夏風邪の功罪

2014-08-13 | 日記・エッセイ・コラム

8月に入り、4日(月)から6日(水)に長崎へ行き、7日(木)夜は
フィリピンから来客で午前様。8日は朝一で岡山へ。午後から、
体調不良で自宅。土曜は朝から面接。昼から神戸地方台風の
影響もあり、土日で休息を!と思っていたが、恵みの雨もはや
10日(日)の昼で上がり、最終便で長崎へ。ホテル着が22:30。

7月の末に二泊二日で850㌔走った無理が祟ったのか、ここの
ところ夏風邪を大事に保有したまま、ぐずぐずと微熱がつづく。
考えてみれば30代から東奔西走の毎日に変わりはないのだが、
どうも自分の体にも代わりがないようで、それなりに衰えている。

8月12日、あれからもう29年が経つ。東京への出張がドタキャンに
なり、残業を終えて車で深江から阪神高速にのった。確かもう夜
の9時半を過ぎていた。いつもなら喧しいラジオの語らいがBGM
となり、独りで色々思いめぐらすことが出来る至福の時間だった。

だがあの日は違った。どの局を選んでも沈黙に近い状態。いった
いどうしたのかと、さすがに交通量の減った高速の上で、周りの
風景さえ暗く、ネオンの輝きもいつものものではない、と感じた。
それが520名もの命が消えたという未曾有の事故の序幕だった。

あれから29年。生き残った6名にはエピローグのない舞台が今も
続いているのであろう、人は皆一度は死ぬ、とは分かっていても、
死ぬ瞬間まで続く人生の幕引きは、出来れば己の手で引きたい。
それが無理としても、切断した悲しみを残すことだけは避けたい。

朝、咳と暑さで寝苦しい一夜を過ごし、久しぶりに独りベランダに
立った。古いマンションだが見晴らしだけは抜群である。明石海峡を
経て淡路島が一望出来、西へ至る瀬戸内の海が夏の盛りに輝く。
借景を、エレベーターのない5階へ吹き上げる浜風と共に堪能した。

ふと下を見れば、築40年?の間、人間に育った樹木が夏の日に
輝き、あれは夾竹桃であろうか、桃色の花に虫や鳥が、Touch&
Goと飛び回る。時折不可思議な放物線を描き、蝉が滑空したり。
生けとし生けるもの短い人生を謳歌している。それは見事である。

考えてみれば、長き睡眠を経て生まれ来る蝉の命は7日程とか。
朝通勤途中、団地の中の地道に腹を上に向けて、死んだふりを
する蝉。かと思えばこと切れて蟻に塚を盛られた蝉もいたりする。
皆、屍となって、どこかへ行ったのであろう。また、夏は去りゆく。

ベランダから見た風景が心に残った。まるで天空から自分の姿を
見下ろすかの如し。花から花へ飛び交う虫や鳥も、限りある生を
精一杯生きている。ならば己も迷わず生きてみようと。思えばもう
怖くないのだと。しつこい咳に文句を言いながら道を駅へ急いだ。

夏風邪の功罪、これも生きている証であろう。ものごとすべからく、
良い方へ良い方へ考えることにする。29年前、不幸にもあの事故
で命を落とした方々の冥福を祈り、己の授かった命に感謝しつつ、
さて今年のお盆も仕事なのだと、幸せにも思う今日この頃である。

(了)

三神工房


夏の思い出

2014-08-01 | 日記・エッセイ・コラム

今週28日月曜日の朝、所用を終え、慌ただしく休暇に入った。
最初、1日だけ行き先知らずの一人旅を、と思っていたのだが、
ハンドルを握り、場所を決めた。目的地は、福井の永平寺にした。

4月に寧波の天童寺を訪問し、いつか親父にも報告をと思って
いた。ひとりで休むのもいいが、古寺へ葬られた親父を放って
おくのもいかがなものかと思い、一路北陸路へ車を走らせた。

それは、遠かった。神戸の垂水から阪神高速、西宮から名神、
そして滋賀の米原から北陸自動車道へ入った。午前10時過ぎ
垂水を出て、走行距離約280キロ。到着は午後の2時だった。

月曜日のせいか観光客は少なく、門前の駐車場へ車を放りこ
むと、喧しい蝉のBGMの中、石畳の感触を確かめながら古刹
の門を潜った。そして場所に不釣り合いな自販機で券を買った。

玄関で自分の靴をビニール袋へ入れると、磨きあげられた廊下を
しずしずと歩き、案内所へ、中ではちょうど回廊をまわる説明が
終り、奥の引き戸が開けられ、数十人と共に吉祥閣の内部へ。

大広間の天井を眺める人々の中を抜け、ひとり回廊へ急いだ。
途中、天へ登るかと思われる回廊の階段を一気に登り、仏殿
から更に上の法堂を目指す。息が上がる。だが清々しかった。

階段を登りつつ、時より吹き抜ける風にほっとしながら、やがて
南向きの中庭を見下ろす法堂へ到着。数人を経て、聖観世音
菩薩に向かい正座、背を伸ばし手を合わし、ゆっくりと焼香した。

ほっとして法堂の縁側へ出ると、正面の山を借景として見事に
配列された七堂伽藍、周りの回廊、大振りな水甕、そして対に
植わった楓の葉が夏の日差しに光り、そよふく風にほっと一服。

「親父、来たよ。無沙汰をごめん。しかしまあ、宿命とはいえ、
いいところへ入ったもんやな・・・」と、独りごちた。晩年、どこか
山奥へ隠遁するという、半痴呆症の父の言葉が思い出された。

「この前、初めて寧波の天童寺へ行ってなあ。久しぶりに永平
寺へ来たら、道すがらの風景も配置もそっくりや。まあ考えて
みれば、道元さんも天童寺に似たこの場所を選びはったんや」

私は縁側に坐り、山の裾野から吹きあげてくる風に身を任せる
ように、親父への言葉を綴っていた。「いつか俺もここへ来るの
かも知れんが、生きるっていうのは大変やな」と、愚痴になった。

汗か涙か、年甲斐もなく親父の面影を追っていると、誰もいない
はずの自分の右手に、涼しげな袈裟を来た親父が坐っていた。
首を回せば確かに誰もいない。だが確かに親父の存在だった。

「人生、怖くはない」と、風の音が頬をつたった。「恐い?」と、
思わず正すと、「いや、怖くないや。字が違う」と、風が嘯いた。
「なんやそれ」と返したが、風はやみ、また蝉の喧騒に戻った。

不思議な体験だった。でも、幸福な体験だった。私はハンカチで
顔を拭うと、足早に回廊を降り、山門で再び法堂を見上げたが、
もう二度と風は感じなかった。社務所で数珠を買い、寺を出た。

夏の日差しが山間に深くなり、真昼の暑さも心持和らいでいた。
何より自分の心が安らいでいた。「道を急ごう。母のいる津へ」
私は来た道を戻り、草津から新名神へ入り、伊勢路を目指した。

しかし、いったい親父はなにを言おうとしたのか・・という思いに
耽っていた。だが背に腹は代えられず、きっと晩御飯までには
津へ着けると、西に日が傾いた高速道路を急いだのであった。

三神工房


春の嵐

2014-05-12 | 日記・エッセイ・コラム

毎週日曜日、80歳を超えた母に電話を入れている。だが今月は、
早めに母の日の花を贈り、故に週末母からメイルの礼があった。

それが日曜朝6時過ぎ、珍しく妹からメイルが入った。一瞬まさか、
と思って開けると、彼女の嫁ぎ先のご母堂の訃報であった。

不謹慎ながら、思わずホッとして、「御愁傷様。たいへんとは思う
が無理なきよう。葬儀の日時決まり次第一報を」と返信した。

というのも、もう8年も前になるが、土曜の昼下がり事務所にいた
私に父危篤の第1報をくれたのは彼女だった。その時私は、泣き
叫ぶ声を母だと思った。初めて聞く、それほど取り乱した声だった。

私は慌てて車を走らせ、途中奈良の辺りで「病院で小康状態」と
の第2報があった。いずれの声も妹だと知れた。翌朝80を超えた
伯父の到着を待っていたように、父は逝った。享年76歳だった。

残った母も80を超えた。今も油絵を嗜むが確実に歳を数えている。
さあ、十二分に気が重いが、今から車を走らせ伊勢路へ向かう。

もう数としては、逝った親族の方が多くなっている。これが少子化
なら寂しいばかり。せめて生き残った親族に、出来ることをしよう。
傲慢で独りよがりで勝手なB型の兄として。もっとも妹もB型だが。

三神工房


GW完了

2014-05-06 | 日記・エッセイ・コラム

ゴールデンウイークも今日で終わり。あっと言う間である。

毎度のことながら、4月は長崎へ2回、中国へ2回、韓国へ1回、
都合16日間の出張続き。最後は4月28日から30日と中国へ
出て、例年の如くGW前半がつぶれた。どうも連休には縁遠い。

渡部淳一氏が亡くなった。享年80歳。ご冥福を祈る。
先達が消えてゆく。歳をとるということは、こういうことに違いない。

連休最後の日、早めに仕事を切り上げ、ゆっくりと夕餉にしよう。
せめて夕暮れのニュースを見て、帰省から帰る子供達の笑顔で、
GWの醍醐味の一端を味わえるかも知れない、と思いつつ。

三神工房