それはどんよりとした朝だった。官舎の中の道中に立った両親が、
まるで家出をする子供を見るように、心配げに立っていた。私は、
確かに家出をしたかったのかも知れない。いや誰よりも彼女に認
めて欲しくて、無理をしたのかも知れない。
高校2年の夏のことだった。成績も振るわず、野球部も辞めて、
自分に何が出来るのか分からなかった。彼女に彼氏の影ができ、
天秤を掛けれられたのが我慢ならなかった。そんな時である。
中学の同期が自転車で北海道へ向かうと聞いた。一年の時に、
2人でヒッチハイクを試み、途中で挫折した相手だった。
私は対抗意識がなかったといえば嘘になる。なにもかもが嫌に
なっていたのかも知れない。自分の住む場所からいなくなれる、
という変な意識に駆られていた。自分ではどうしようもない瘧が
体の中に巣くっていて、それは自分の心を占拠しつつあった。
私は五段変速の自転車を駆ると、一路西へ向かった。目的は、
鈴鹿峠を越えて奈良へ抜け、そこから紀ノ川沿いに和歌山まで。
その距離約200キロ。そして翌日南へ向かい、紀伊半島を一周。
途中同級生の家で宿泊し、熊野大花火を見て、そして最終目的
地は松阪。そこで彼女の家に寄り、凱旋をする計画だった。
津の平野は穏やかだった。後ろを振り返ると伊勢湾に広がる、
穏やかな空が見えた。どこか両親の様に心配げに私を見送っ
ていた。それが嫌で走っているのだが、気持は複雑だった。
やがて道は狭い旧道を経て山道に変わっていった。今はもう昔、
昭和42年か43年のことである。地図を見て、村の人に聞いて、
とにかく道を登った。そこは背よりも高い芒の原であり、自転車を
降りて押しながら、時より手でかきわけないと先が見えなかった。
と、山の上から「どどどっど-」と、腹に響くような地響き。思わず
サドルの下へ身を伏せるような大音響が近づいてきた。「?」と、
思っている間もなく、目の上の切り通しの中ほどが割れ、芒の林
をものともせず、大型バイクが付き進んできた。もう少し私が先
へ進んでいたら、道路へ飛び出した猫でも引き殺すかの如く、
その太くてごつごつしたタイヤに蹂躙されていたかも知れない。
芒の林の中で怯える私に、皮のマスクで覆面をしたバイクの男
は言った。
「申し訳ない。自転車の道を塞いでしまった。ここを通って先に
行って下さい‥。」
私は面食らった。いくら図体のでかい私でも顔はまだ高校生。
に対して彼の方は明らかに年長であろう。しかしその言葉遣い
や態度は、ずいぶん謙ったものだった。遠距離を走る若者の間
でバイクよりも自転車、自転車よりもヒッチハイクが尊敬され、
常に相対すれば道を譲るという不文律があると知るのは、ずい
ぶん後のことである。
私は嬉しかった。自分が一人前に扱われたのである。もう後ろを
振り向かなかった。どんな坂でも音を上げず、まっしぐらに突き進
んだ。その日和歌山に着くのは、深夜の12時。喉の渇きに耐えら
れず、コーラの自販機を見るたび買って飲んだ。そしてショートパ
ンツの股は擦れ、どうしようもなく股間が熱かった。真っ暗な天守
閣を見上げ、ベンチへ横になったら、空がとてつもなく大きく、輝く
ような星でいっぱいだった。
こうして私の紀伊半島一周自転車旅行の初日が過ぎていった。
もう35年も前の、夏の思い出である。
以下次号。
三神工房