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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

白浜の夏 ⑤

2011-08-14 | 旅行記

翌日は雨だった。朝の天気予報によれば、台風が九州の南海上か
ら和歌山県へ向かっているとか。あまり大きな台風ではなく、上陸
までに熱帯低気圧に代わるという。私は朝ごはんを頂きながら、自
転車で出発するつもりでいた。頭にあるのは日程だけである。

初日は津から和歌山まで約190キロ。2日目は和歌山から田辺ま
で、たった80キロ弱しか走っていない。全行程約500キロを実質4日
で駆け抜ける予定だった。1日125キロを走るとして、平均時速15キロ
で1日の走行時間は約8時間を想定していた。走行距離としては、
2日で270キロだが、自分の体力と相談すると自信がなくなっていた。

鈴鹿峠を越えることは確かに辛かったかったが、それ以後平坦も
多く、安易だった。しかし紀伊半島の周遊でもっとも自転車に過酷
なのは、熊野から紀伊山脈に分け入っていく国道42号線だった。
よってその手前の熊野では同級生の実家へ泊めてもらい2日を過
ごす予定。そして峠を越えた紀伊長島でも友人の家に2泊と決めて
いた。合計7泊8日で松阪へ帰れば、彼女の誕生日に凱旋するこ
とが出来ると目論んでいた。そのためには田辺で足止めを食らう
訳にはいかなかった。

「今日は無理だ。もう一泊していきなさい」
と、朝ごはんを終えた親父さんがお茶を飲みながら、そう言った。
「それはそうですよ。台風がまともにこちらへ向かっているんです。
自転車で走るなんて、そんな無茶をしてはだめです」
夫人の言葉に取りつく島がなかった。(いや、予定を変えると、
彼女の誕生日に間に合わない‥)とは言えなかった。

私は食事のあと自転車の整備をすると言って、玄関前へ出て空を
窺った。それはまだ遠くを見れば上天気の夏空なのだが、上空は
黒い雲に覆われ、頬へ伝う風は台風の来る前兆を示していた。
それは1年の夏から山岳部に所属して、山で積んだ天気予報の
知識と経験からして、間違いなかった。

しかし旅の目的は、彼女の誕生日に紀伊半島を一周して凱旋する
こと以外のなにものでもない。それは北海道でも良かったし、九州
一周でもよかった。だがそんな大仰なことよりも、手っ取り早く近場
の紀伊半島を回れば、きっと彼女は自分の男らしさを認めてくれる
であろう、という単純な発想なのであった。

「すみません、とにかく先に進んで見ます。途中で駄目なら引き返
して、またお世話になってもいいですか?」
私の言葉に、最初は聞く耳を持たなかった二人も、「大丈夫です。
自分は山岳部に所属していて、今年の冬に南アルプスへ登るため
に、この旅行を計画したんです。つまり、体力と経験を持って乗り
切ることが第一義なんです」

自分でも、どこからそんな言葉が出てくるのか不思議だった。後
から思えば、それほど彼女の存在は大きく、その為だけに生きて
いたと言っても過言ではない。

ご夫婦には必ず無理をしないと約束して、私は10時過ぎに田辺を
出発した。街中を抜けて国道へ出ると、まだ痛むお尻もサドルに
慣れ、ドロップハンドルを握りながら、ただ道路の白線を見つめて、
ひたすらペダルを漕いだ。先になにが待っているのかよりも、この
日焼けを見たら、彼女はなんと言うだろう。このパンパンの太もも
を見たら、どう思うだろう。と、ただただ自分の目標を目指した。

それはまるで太古の若者が、丸太をくり抜いた小舟で大洋に繰り
出すかのように雄々しい走りであったろう。若さとは、無限のエネ
ルギーを発する、神から男に与えられた、一種狂気の沙汰なの
かも知れない。

以下次号。

三神工房


白浜の夏 ④

2011-08-12 | 旅行記

食事というものは、目で見て、香りを嗅ぎ、箸で口へ運び、噛み砕く
音まで楽しむものである。つまり五感を研ぎ澄まして食べる訳だが、
これに団欒というものが加わると、もうこの上はない。だからこそ、
家族や友人、そして愛する人と過ごす食事の時間は人間に取って
最も重要な式典なにかも知れない。毎日続く平凡なことながら、
実はそこに有限な幸福というものが宿っているのである。

その夜私は、突然手に入れたひとときの、しかも初対面の家族との
団欒を得ていた。小ぶりの床の間を背に、なにごとも許してしまう
ような微笑を湛えた笑顔の親父さんを前にして、どこか懐かしい
音が伝わってくるお勝手では、背筋のすっと通った夫人が手際
良く晩御飯を用意してくれる。ほかほかと湯気の上がるようなお惣
菜や、キラキラ光るシビの刺身、そして一粒一粒が浮き上がらん
ばかりの白米と、具たくさんの味噌汁が、次々と並んでいった。

家族のことや、学校のことや、そして将来のことなど、親父さんは
決して嫌味でも厚かましくもない聞き方で、私の気持ちを逸らさな
かった。前日コーラですべてを洗い流されたような私の内臓六腑は、
まるで空気を吸い込むように出された料理を片付けていった。気が
つけばご飯を3度お代わりして、味噌汁も2杯注いでもらっていた。
体は、水を得た魚のようにすべての細胞が感動に震え、手足の指
先から心の臓へ向かってエネルギーが充足されるのが分かった。

「久しぶりですね、お父さん。こんな食べっぷりを見るのは。」と、
私の右手に座った夫人が一人ごちても、私の箸は止まらなかった。
「そうだなあ…」「息子が帰ってきたみたい…」

二人の会話の裏にどのような事情があるのか、私は知る由もない。
だが決して明るい話の内容ではないとは思ったが、その言葉の音
色はまるで穏やかなものであり、二人の人生そのものを表していた。
後から思えば、その時私はそう確信していたに違いない。なぜなら
もう半世紀近く時間という流れを経てきたことなのに、今も私の心に
新鮮な響きを残しているからである。そしてそれが、人生のパート
ナーというものなのだということを、今の私は知っている。

腹がいっぱいになった私は、自分の意思とは別に体が休息を求め
始めていた。頭から血液がなくなり、急速に瞼が重くなっていた。
夫人が話を続けようとする親父さんを遮り、私を二階へ誘ってくれた。
狭い、しかし分厚い一枚板で出来た階段を上がると、八畳間が二間
あり、天井も高く、広々とした空間があった。南側になるのであろうか
まだ夕暮れの明るさが残る窓際に、真新しい夜具が敷いてあった。

「息子が使っていた部屋ですけど、今はだれもいませんから、ゆっく
り休んで下さい」と夫人は言って、大きく開けられていた襖を閉めた。
整然と片付いた部屋の中で、唯一床の間のところに、どこか場違い
のように大小合わせて十数本のトロフィーが並べられいた。私は、
第〇〇回和歌山県高校剣道大会「優勝」という文字を目で追いなが
ら体をノリの掛かった敷布団に横たえていった。そしてそのまま目を
瞑ると、まるで谷底へまっさかさまに落ちるように、寝入っていった
のであった。

以下次号

三神工房


カンボジアレポート②

2011-08-01 | 旅行記

8月になりました。今日はレストラン「和」のGrand Open!
朝から私も、朝食(ごはん・味噌汁・玉子焼き)$2.5で頂き
ました。日本の味!どうか繁盛しますように。

今日は非常に暑い!夕べはレストランオープンの前夜祭、
Receptionでしこたま飲みました。アンコールビールが旨い!

話は違いますが、VIPの日本人の方と話が盛り上がりました。
中で、先日日本で発表された「最低賃金」のことを話題に。
今年は時給6円上げて736円とか。に比べてカンボジアでは、
最低月給が$80以下ですから、月に6400円位です。日本と
比べれば20分の一位です。

一種「日本沈没」の延長ですが、もし日本の最低賃金を75円、
つまり10分の一にしたらどうなるでしょう。トヨタも日産も、
日本の企業はすべからく国内へ生産を戻すでしょう。

もちろん労働組合の問題、生活保護や後期高齢者過程のこと
大きな問題です。でも労働組合も政府も役人も、日本が沈没
したら、いったいなにを守るつもりでしょう。であれば、一度賃金
を10分の一にする計画で、各省が検討してみたらどうでしょう。

このまますべての料金が上がり続けたら、借金もうなぎのぼり。
結局日本沈没を待つばかりです。乗用車1台、恐らく原価は5割
以下。人件費は30%は掛かっているでしょうか!?もしそれが
3%になったら、100万円の車を73万で売っても採算にのります。

さあこれを起点にドミノ式ですべからく人件費を10分の一にして
みたらどうなるでしょう。きっと役所は賢い人ばかりだから、この
案も検討してみたのではないでしょうか。あるいは超インフレも
考えているでしょう。

経済は拡大の一歩を守るしか、人間の命を守る術はない、と
ずっと信じてきました。もちろんその為に頑張っています。でも
本当にそうでしょうか?

カンボジアの経済規模はほぼ島根県のそれと同じ位だそうです。
でもカンボジアにシャッター通りはありません。自殺する暇もない
ほど、みんな必死に働いています。週末になればプノンペン市内
の公園は若い男女でいっぱいになります。単車に三人乗りして、
土砂降りの中でも、笑顔を見せながら走っています。

いったい日本人の幸せはどこにあるのでしょうか?人間は子供を
生み育てるためだけに生まれてきたのではない筈です。

こんなことを考えていると、止めどがありません。取りとめのない
話です。今スコールの雨を見ながら、レストランの客入りを見守っ
ています。これはきっと人生の中で幸せの部類の出来事なので
しょう。だって店のスタッフの目が、キラキラと光ってますから。

三神工房」


カンボジアレポート①

2011-07-30 | 旅行記

今週はカンボジアにいます。雨季だけに雨ですが、朝夕は
涼しい!日本よりある意味快適かも知れません。

来るたびに変わります。街のネオンもLED化が早く、急に
街が明るくなっています。これも経済成長の影響かと思い
ます。国が経済的に若い分、新陳代謝も激しく活気があり、
なんかうらやましい限りです。

しかしこちらも原油が上がっています。リッター5200リエル。
日本円で¥100位でしょうか。しかしなにしろ物価と給与
レベルが違うだけに、国民の生活への影響は日本の比で
はないでしょう。ますます格差が広がるかも知れません。

人間も歳を取ると、新陳代謝が遅くなり、その分時間の流
れを早く感じるようになるといいます。日本も正に戦後すで
に65年を過ぎ前期高齢者!?なにか手当てをしませんと、
取り返しのつかない事態に追い込まれるかも。

小松左京さんが亡くなられました。「日本沈没」の映画を見
た時、たしか1973年の映画でしたか、それは興奮しました。
いや本当に日本が沈没するのではないかと、心配しました。
もう二十歳を過ぎていた筈ですが、それほど信憑性が高か
ったのかも知れません。あれから40年近くを経て、本当に
日本は沈没するのではないでしょうか。

昭和30年台から40年代へ、日本は高度成長を続け、東京
オリンピックから大阪万国博覧会へと、我が世の春でした。
私は万博へ通う途中、初めて高速道路をバスで走り、ああ
これが鉄腕アトムの世界や、きっと日本はすごい国になる!
と信じて疑いませんでした。そんな時、あれは「日本沈没」を
してアンチテーゼ、日本人に警鐘を鳴らしたのでした。

まさか私も。40年後にあの高速道路と同じ関西圏に住み、
そしてその動脈である筈のJRはほぼ毎日人身事故で止ま
るような国になろうとは、思いもしませんでした。

カンボジアは見事に蘇っています。あのポルポトの悪夢を
乗り越え、決して忘れずに、必至に成長しようとしています。
若者の目、その直向さには素直に頭が下がります。

栄枯盛衰は必至としても、日本もこのままではすまなでしょう。
潮は満ち干き、人の体も三ヶ月で細胞が入れ替わるといい
ます。最後まで決して諦めず、さあ「なでしこ」しましょう。

三神工房


白浜の夏②

2011-07-26 | 旅行記

何時頃だったのだろうか、男女の話し声で目が醒めた。私は和歌山
城の天守閣を見上げる格好でベンチで寝ていた。途中、深夜にも係
わらず、人の出入りが結構あり、私はなにを思ったか荷づくりの紐で
自転車と自分の体をベンチに縛り付けていた。体の火照りと股間の
痛さを自覚しながら、しかし睡魔には勝てず朦朧となって寝ていた。

三重県の津から和歌山まで凡そ200キロの距離である。朝6時に家
を出て、和歌山城に着いたのは夜の10時を過ぎていた。途中、食事
と休憩の時間を引いても、時速13キロの速度で走ったことになる。
いくら若いと言っても限度があった。しかも青山峠を下りた辺りから、
夏の日差しに照らされ、半袖・ショートパンツの姿では、見るも無残
に火傷のように全身焼けていた。加えて喉の渇きに耐えきれず、
1時間おきにコーラを飲んだ。その数は優に1ダースは越えた。

(これが悪かった。後日談だが旅行のあと歯が突然抜けた。チクロ
の所為らしい。とにかく母からこっぴどく叱られたのである。)

体がピノキオのようになっていた。しかし男女の会話は終わることな
く、なにかドロドロと続いた。高校生の私が聞いても分かる話ではな
いが、まだ夜も明けやらぬ城跡で顔を寄せ合い言い募る二人。
なんかやばいと思った私は首を持上げ、脚を伸ばし、からくり人形の
ようになんとか起き上った。しかし体を縛った紐が身にまとわりつき、
自分で縛ったのだが、その意味はまったく分からず、腹が立った。

どうにか荷物をまとめ直し、天守閣の広場からそっと抜けだした。だ
が高い石垣にはとうぜん階段があり、そこを自転車を抱きかかえて
降りねばならない。登るときはいったいどうやって登ったかも記憶に
なく、なんでこんな所へ、と一人ぶつぶつと言いながら降りていった。

城跡を出る頃、ようやく夜が白んできた。奈良のドライブインで昼食
を取ったあとコーラ以外なにも腹に入れていなかった。でも空腹感
はなく、ただただ股がサドルに当たらない様工夫しながら、市街地
を南下した。しかしスピードが出ない。なにしろまともにお尻をサドル
に預けることが出来ないのである。サーカスじゃああるまいし、見ら
れたものではない。しかたなく、歩いて自転車を押したり、立ったまま
漕いだりしつつ国道42号線を下っていった。

海南を経て、みかんで有名な有田を通り、御坊の手前で昼を取った。
今となってはなにを食べたか覚えていない。しかしコーラ漬けで胃が
膨満感に溢れ大したものは食べていない。ただソーダ水を飲んだの
は覚えている。コーラは瓶も見たくなくなっていた。

午後3時を過ぎていたろうか、私は国道42号線から離れ、紀伊田辺
市の市内へ紛れ込んでいた。とにかく南へ向かっていけば間違いは
ないと分かっていても、どうやら頭のジャイロも狂い始めていた。これ
はいかんと思い、道路沿いの店を物色した。この町は南紀白浜という
名称で有名な観光都市である。よって2日目の夜は白浜の海岸で野
宿しようと考えていた。と、一軒の店があり時計屋さんだった。幸い、
片方の目に特殊レンズを付けた親父さんが店内に座っているのが
見えた。私は自転車を歩道に倒すと、親父さんの視線を感じながら
ガラス戸を開けた。

「すみません、白浜へ行くにはこの道を下ればいいのでしょうか?」
と、訪ねた。すると親父さんは特殊なレンズを目に着けたまま顔を
上げ、まじまじと私の顔と歩道の自転車を見た。「どっから来たんだ
ね?」と、なんかほっとするような物言いで私に聞いた。「はい、津
からです」「そりゃあ遠くから。あの自転車で?」「はい、紀伊半島を
一周します」「ああ、いいね。それは‥。まあここへ座んなさい。冷た
いお茶を入れてあげるから」というと、親父さんは私の返事も聞かず、
奥へ入っていった。

店内の仕事場は畳敷きになっていて、親父さんの勧めたくれた場所
には座布団が置かれ、座るにはちょうどいい高さだった。座った私
は、座布団の柔らかさにほっとして、背を丸めて座り込んでいた。

一杯のお茶が二杯となり、その時期としては珍しくエアコンが完備
された店内は天国だった。それでも私は礼を言って立ち上がり、
改めて道を訪ねた。親父さんは親切にも一緒に外へ出て、道案内
をしてくれた。だがそのゆったりとした口調で説明してくれた道順は、
白浜のそれではなく親父さんの家だった。なんでも店と家は別で、
自宅は市街地の中にあるという。私は「はあ、いやそれでも‥」と
抵抗するのだが、「いや内はもう息子も独立して、家は家内と二人
切りだから。それにもう日が暮れる。走るのは明日にしなさい。」
と言われると、私にはもう抗うすべがなかった。

以下次号。

三神工房