DOROの海(どろのうみ)

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川西と三菱にカレー。後プッチンプリン

2011-04-05 20:40:22 | 趣味。絵やら模型やら料理やら
紫電改と百式司偵の機体下部の塗りが始まる!!
始まるも何もやるのは自分ひとりなのでやらなきゃそのまま。やれば進めれるだけでね。
零戦の後継機として期待された川西初の陸の上海軍戦闘機。そして純粋に偵察機としての能力に絞った三菱の陸軍偵察機。



一五試水戦(強風)の試作が完成する昭和16年。川西は今後製作する飛行機を水戦から陸上戦闘機に方針を固める
とともに17年早々海軍航空本部に赴き社の方針を説明。海軍は簡単に提案を認め仮称第一号局戦(N1K1-J)の名称
で開発を開始。当時飛行艇メーカーであった川西にとって初の陸上戦闘機であり、また経験も無かったため一五試
水戦のフロートを取り払ってそのまま引き込み脚にするという思い切った方法をとった。(海軍の試作完成期日が
1年以内だった。)
エンジン(発動機)は当時海軍が絶大な期待を寄せていた中島「誉」を採用。
エンジン(発動機)の換装により機首の大幅な修正があり、胴体がずんぐり状態に…。
機体のベースは一五試水戦と同じなので主翼位置は中翼。その為引き込み脚の脚は長くなってしまいこれでは主翼
に収まりきらないため、主翼収納時には脚が縮むよう改善するも、これが故障増加の原因に…。
当時ここまで海軍が川西の提案をあっさり通したことに、同じ局戦の三菱の一七試局戦(雷電一一型)の制式化の
遅れもあったため、紫電ができれば代替品として利用できると賭けでもしたのかと思えるくらい。海軍も川西の製
作していた飛行機の種類くらい分かっていたはずですが、当時の戦況を見れば甲も悠長に書けるわけが無いですね。

上で述べたのは局地戦闘機「紫電」ですが、今回組み立てたのはのちに紫電で苦い経験を持った川西が昼夜も問わず
必死で改修し出来上がった「紫電改」となります。
試作一号機において散々な結果となった川西の局戦は機体設計の見直しにより、昭和18年(この頃ニューギニアのブ
ナ島で日本軍全滅、後にガダルカナル撤退など…)胴体の形状、主翼の位置、引き込み脚の改善といった努力の末、
18年末に完成。翌年の新年から飛行テスト。20年になりようやく部隊配備されるといった中でで日本の防空に一役買
った形になったわけです。とは言うもの、3月の呉防衛戦以外目立った戦果はありません。
悲しいかなこの頃になると国内各都市や軍事施設に対するアメリカからの艦載機の空爆、攻撃が多くなり硫黄島の戦
いもあった最中だったため、まともな戦力(特に人員、熟練パイロット)能動力(空爆での工場の稼働率生産能率)
の低下に相成って当時日本での工業力の情けなさ(エンジン、特にプロペラは)が祟ったせいもありますし川西という
一メーカーでどうこうできる状態ではなかったのも事実です。



上記の主翼を見る限り、二一型と分かります。二〇ミリ機銃二門×二。主翼は紫電と同じ、主脚が大分左右に広がり
脚の長さが短くなっています。速度は最大594km。これは最大装備での速度ですが、当時の戦闘機で600km満たないの
はやはり厳しすぎる…。




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