

今日もホテルで朝食をとり(またここも中華バイキング)、9時ごろ出発です

今日の目的地は「旅順」でございます。

「旅順」は「清」朝の末、(清の)北洋艦隊の根拠地でありましたが「日清戦争」ののち、ロシア帝国が中国から租借、大軍港と大要塞を建設しました。
日露戦争において「旅順」の港と大要塞は補給路を確保するため日本の陸海軍にとって最大の痛点でありました。
昨日「JCBプラザ」で聞いた話ではツアーに参加すると高そうなので、タクシーをチャーターして行くことに。

大体「300元からでしょう」と聞いてましたが、最初運転手は450元と言ったかな?
でも、交渉の末、350元で「16時まで拘束可」で手を打ちました。

「料金を先払いでくれ」と言われましたが、昨日の「ボッタくり事件」があったせいで人間不信になっており、ナンバーや運転席にある「業務許可証」みたいなモノもデジカメに撮らせてもらいました。
だって、先払いで支払いをしてて、こっちが観光見物してる間に逃げられたら困るじゃん

とりあえず不安なまま出発です



どんどん「大連」市内から離れていきます。

そして山ばかりに…


約1時間後「二〇三高地」に到着です

「旅順」の北西約2キロにある小丘で、標高203メートル、日露戦争の激戦地として知られています。
乃木軍司令部の参謀長「伊地知幸介」の無能により日本兵の集団自殺的な戦死がありました。
満州軍総司令部の「児玉源太郎」総参謀長が、乃木軍司令官の指揮権を代行して、明治37(1904)年12月5日、6千2百の日本兵を殺した「二〇三高地」を陥落せしめました。
「旅順」における両軍の兵員の損害は、
ロシア軍:戦闘員:4万5千、死傷者:1万8千余人、死者2~3千人
日本軍 :兵力 :10万人、死傷者:6万212人、死者1万5千4百余人
海軍が海上から発見したこの「二〇三高地」という大要塞の弱点を、乃木軍司令部が素直にみとめ、陸軍参謀本部が海軍案を支持したとおりに乃木軍司令部がやっておれば、「旅順」攻撃での日本軍死傷者6万という膨大な数字を出さずに済んだであろう…と。

「二〇三高地」を攻略出来たことにより、ここに観測兵を置き「旅順」港内のロシア軍艦を海軍砲で砲撃することによって、港内のロシア艦隊は全滅しました。
多くの「神輿」のような運び屋がいます…いくらで上まで乗せてくれるんだろう?
「日本人ですか?ガイドしますよ、無料です」なんて言ってくる人もいたけど、俺ら「人間不信」ですから断ります。


当時はこんな草木も無い丘で、こんな舗装された山道もありませんでした。
「弁慶」は昨日、脚マッサージを受けられず、痛む脚を引きずりながら登っています。

たかだか203mだからね、大したことは無いですから。



これは日本軍が占領後に設置したものかな?

「見張り台」ですね。


「二〇三高地」の碑。

関係ないんですが…また変わった「ゴミ箱」を発見したもので…。
「スーパーマリオ」かよ


レアな「戦車」ですね。


ロシアの「キャノン砲」


これが「爾霊山(じれいざん)記念碑」です。
戦後「乃木希典」将軍が高地に散乱していた砲弾の破片などを集めて、この「慰霊碑」を建て戦死者を祀ったものです。

この戦いでは「乃木希典」将軍の次男「乃木保典」が戦死しているんです…


そして下山しますが、以外にも中国人旅行者が多いのに驚き

歴史好きな日本人しか来ないんじゃないか?と思ってたけど…


入口脇に「資料館」がありました。

「田村武」さんの所有物だったんでしょうか…



その他にも刀や銃弾など。
そして「二〇三高地」をあとにします…ちゃんと運チャンも待っててくれました。


次は「水師営」へ。
その途中の光景。


「二〇三高地」から30分くらい掛かったでしょうか…「水師営会見所」です。
運チャンも「二〇三高地」やこの辺りは、全然知らなかったみたいで、通行人などに道を尋ねながらです。



庭の片隅にひっそりある石碑。



「二〇三高地」の陥落を受けてロシア側から停戦の申し入れがあり、1905年1月5日「乃木将軍」とロシアの「ステッセル中将」の会談が行われたテーブルです。
この建物は当時の資料を参考に忠実に再建されたものらしいです。
この会見所はその後野戦病院として使われたそうで、このテーブルも手術台として使われていたそうです…


会談の出席者たち。


こちら側の部屋は「写真資料室」です。
実はここでも「日本人ですか?」と中のおねーさん?オバサン?(どっちだ?)に聞かれて、分からないフリしてました。
「説明しますよ、無料です」と言うから「日本人です」と答えると、「どうして何も言ってくれないですか?」と嘆かれます。
…と言っても昨日の事で「人間不信」になってるなんて恥ずかしくて言えません…



いろいろ話しながら写真の説明をしてもらいますが…彼女、アクセントが良くない。
「俺らは日本語教師ですよ」と教えると、逆にいろいろ質問されてしまいました。



以前(5月12日)のブログで紹介していますが、この「日露戦争」で戦艦「三笠」が活躍したのです

1904年8月、連合艦隊の旗艦(マストに司令官・司令長官の官階を示す旗を掲げる、艦隊の司令官・司令長官が乗って艦隊の指揮をとる軍艦)であった戦艦「三笠」が「黄海」で「旅順」港を脱出した「ロシア旅順艦隊」を破ります。
この「三笠」ですが、ポーツマス(英国)に保存されている「ビクトリー」、ボストン(米国)に保存されている「コンスティチューション」と並ぶ「世界三大記念艦」として横須賀市「三笠公園」に保存されています。

「日露戦争」のその後は、1905年9月にアメリカのニューハンプシャー州ポーツマスで、日本全権代表「小村寿太郎」とロシア全権代表「ウィッテ」の間で、「日本の韓国における権益の承認、旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道と付属の利権の譲渡、樺太南半の割譲」などを決めた講和条約を締結、ロシアとの戦争は、日本勝利で終結しました。
「旅順」は今も軍港なので観光客が訪れることが出来るのは「二〇三高地」と「水師営会見所」のみで、もう一つの戦跡の「東鶏冠山北堡塁」は事前に許可を得るか、ツアーでなければ行けないようです。
また「大連」に戻ります。
後半では「大連」の「人民広場」や「海之韵広場」などをレポートします。

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